ツィート21‐30 「八日目の蝉」 第21‐30回目 鑑賞中ツィート
通勤時間を利用してのポータブルDVDによる地下鉄内コマ切れ鑑賞を実行中!
そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を
ツイッターで「実況」し始めました。
ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて
「鑑賞中ツィート」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「つぶやき転載」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
まずは、全ての出発点、ツイートを、ここに転載することにします。
21回目 4月19日 - 6:37
2つの心配事の カオルの妊娠をキッカケにして、カオルに取材をかけてきた女性フリーライターと友人関係となっていくのです。二人とも真っ直ぐで、世渡り下手なところが似ているなと思っていたら、
22回目 4月19日 - 19:57
そのフリーライターはエンジェルホームでカオルと姉妹のようにして育ったと言うのす.... 。 予想だにしなかった展開に興奮してしまったのです。
23回目 4月20日 - 6:38
カオルの妊娠によってフリーライターの存在感が急増したなと思っていた矢先にこの展開。しかも、舞台はエンジェルホームなのですから、ボクの心配事をことごとく逆手に取って、驚きに変えていったのです。
24回目 4月21日 - 14:56
カオルとフリーライターは、取材旅行として、エンジェルホーム跡地を訪ねていきます。今や廃墟になってしまったその場に佇むと、いつしかカオルがこの施設を逃げ出して行った日のことが映し出されていきました。
25回目 4月22日 - 9:51
愛人は素性がバレる事を恐れて、エンジェルホームを逃げ出して行くのです。あれ? せっかくカオルとフリーライターの関係性に興味を持てたところなのに、軽くスルーしていくのかと残念に思ったのです。
26回目 4月23日 - 6:35
カオルとフリーライターの関係性は、しかしながら興味深い方向性に展開してくれました。この展開で俄然、フリーライターの存在感が強調されていったのです。
27回目 4月23日 - 20:20
取材旅中のホテルでのこと。不倫相手の子供を産む決心をしたカオルに対して、自分もその子の母親になりたい、と告白。そして、自らは、男性恐怖症で、普通の結婚が望めないとも吐露するのです。
28回目 4月24日 - 6:44
フリーライターの存在がここまで大きくなるとは思いもよらず、うれしくなってきました。カオルの妊娠、エンジェルホームと。反感を持ってしまった素材をものの見事に料理して、彼女の必然性を創出したのです。
29回目 4月24日 - 21:59
エンジェルホームという女性だけの特殊な環境で育ったが故に、男性に恐怖心を持ち、カオルの妊娠によってその強固なコンプレックスを克服する方向性に動き出した彼女に、大いに興味を惹かれたのです。
30回目 4月25日 - 6:53
男性恐怖症のフリーライターと、妊娠したカオルの関係性で気になったことは、カオルのおなかに耳を当てて胎児の動きを聞くフリーライターの姿を写し出してきたことでした。
ツィート11‐20 「八日目の蝉」 第11‐20回目 鑑賞中ツィート
通勤時間を利用してのポータブルDVDによる地下鉄内コマ切れ鑑賞を実行中!
そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を
ツイッターで「実況」し始めました。
ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて
「鑑賞中ツィート」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「つぶやき転載」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
まずは、全ての出発点、ツイートを、ここに転載することにします。
11回目 4月9日 - 19:40
3つの時制が絡み合う中で、4歳時の カオル のシーンで目を見張る2つのシークエンスに出くわしました。事件解決後、戻った実家に馴染めずに、その家から出ていくカットが、デジャヴだったのです。
12回目 4月10日 - 7:01
哀しくも恐ろしい と感じた、誘拐のカットと同じ映像だったのです。以前は自分の意思にかかわらず連れ出されたのですが、今回はハッリとした意思に基づく行動であったことが、実の両親には酷なことでした
13回目 4月11日 - 6:42
そして、哀しくも酷 な場面が続いていたのです。寝る前 カオに歌を歌ってあげようとする実母ですが、カオルの希望する曲が理解できず、ヒステリックに泣き出す。カオルはその異常なありさまに萎縮している。
14回目 4月14日 - 14:38
奪われた4年間のせいで、母と娘の間には、本来あるべき共通の経験や記憶がない。それによって通常なコミュニケーションが取れない実母の哀しみや苛立ちが表れていました。
15回目 4月15日 - 14:58
興味深いシークエンスの後、不安に思えた設定が同時に表れてきました。1つ目は成人したカオルの場面、カオルが妻子ある男性と不倫関係にあるという設定でした。
第16回目 4月15日 - 19:13
育ての親である愛人と同じ境遇にもってきたところに、ありがちな世代間連鎖という流れを感じ、警戒をしてしまったのです。この後、不倫相手の子供を妊娠する動きになるのか、要警戒です。
第17回目 4月17日 - 7:01
残りの1つは、誘拐直後の時制において、逃走する愛人がエンジェルホームという新興宗教的な自給自足集団に身を寄せるという設定になったことです。
第18回目 4月17日 - 20:50
エンジェルホームとかいう極端な舞台を提示してきたことに、本来のテーマがボヤけてしまのではないかと不安になったのです。2つの心配事、カオルの不倫とエンジェルホームに要注意です。
第19回目 4月18日 - 7:04
心配した通り、カオルは不倫相手の子供を身籠っていました。予想通りの展開に拍子抜けしてしまいました。一方のエンジェルホームは益々、現実離れした集団の様子に今作の行く末を心配してしまいました。
第20回目 4月18日 - 21:05
ビックリしました。予想もしなかった関係性が提示されて、不安に思っていた気持ちを吹き飛ばしてくれたのです。しかもその驚きは、ボクが心配した2つの要素が関係していたのです。
ツィート1-10 「八日目の蝉」 第1ー10回 鑑賞中ツィート
通勤時間を利用してのポータブルDVDによる地下鉄内コマ切れ鑑賞を実行中!
そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を
ツイッターで「実況」し始めました。
ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて
「鑑賞中ツィート」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「つぶやき転載」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
まずは、全ての出発点、ツイートを、ここに転載することにします。
1回目 3月31日 - 14:37
赤ちゃんを誘拐された母親と、赤ちゃんを誘拐した女の独白から始まりました。重い雰囲気が漂っている。主人公である女は不倫相手の赤ちゃんを誘拐したのです。
2回目 4月1日 - 14:33
この独白で興味深かったのは、妻と愛人の人間関係。お互いの存在を認識し、妻側が愛人に対して攻撃的な態度を取っている点です。毎日、抗議の電話で愛人を罵倒するという。
3回目 4月1日 - 20:19
しかも、夫婦間の性生活の自慢も聞かされていたという。愛人は堕胎によって子供が産めない体になり、妻は出産をする。そんなあからさまな対比なのです。
4回目 4月2日 - 6:53
冒頭の独白の部分で、加害者の愛人に同情の念を持たざるを得ないのです。愛人は不倫相手宅の留守に忍び込み、赤ちゃんを抱きます。不倫関係を清算するキッカケにするはずでした。
5回目 4月2日 - 20:03
その時、奇跡のカットへ繋がっていったのです。愛人が赤ちゃんを抱き上げた瞬間、赤ちゃんがニコニコの笑顔になっていったのです。絶妙のタイミングで、まるで意思でもあるかのような完璧さでした。
6回目 4月3日 - 7:05
この笑顔がキーとなっていったのです愛人はその笑顔を見て慰められた、許されたと感じたと語っています。堕胎して赤ちゃんを殺したことや、不倫をしていた負い目を、この笑顔は許してくれたと
7回目 4月3日 - 15:42
慰め と 許し。もしかすると愛人は赤ちゃんの存在に 救済 を見い出だしたのではないでしょうか。意識が超越していった愛人は、その女の赤ちゃんを カオル と呼び掛けるのです。
8回目 4月4日 - 11:10
カオル は、愛人が亡き子に名付けたかった名前だったのです。赤ちゃんを抱きしめ、そぼ降る雨の中を走しり来る愛人の姿は、哀しくも、恐ろしいカットでした。 彼女は、誘拐したのです。
9回目 4月6日 - 7:02
場面は、カオルが20歳頃に成長した現在の時制に飛んでいきました。今作は、誘拐発生時と、事件が解決がした カオル が4歳の頃、そして、現在の時制を行き来する構成のようです。
10回目 4月6日 - 19:24
成長したカオルは、ぶっきらぼうな女になっていました。そこに昔の誘拐事件を追うフリーライターの女がからんできました。この女も カオル 同様の不器用さを感じたのです。
未完成 「英国王のスピーチ」 第3回 [未完成レビュー]

第3回目
この残念な想いは、ほんの少し前にも味わったものでした。
そう。
スピーチを介した国王と国民の
対峙
を目の当たりにすることができる
と期待させておきながら、
極私的なローグ家族の安堵という、些細なもので緊張感を損なってしまった
勿体なさを
思い出してしまったのです。
短時間のうちに連続して違和感を感じてしまったのです。
この2つの違和感を抱えながらも、「英国王のスピーチ」の成功は
大きな映画的カタルシス
をもたらしました。
でもそれが、戴冠式というクライマックスを、記録映画で省略したことで成し得た。
とは言い難かったのです。
それが、どうしても胸に引っ掛かっているのです。
戴冠式の映像を省略する必要がなかったのでは?
と思えてしまったのです。
戴冠式スピーチを
敢えて省略するメリットを
見つけることができなかったのです。
見せなかったことで、この第2次世界大戦への「英国王のスピーチ」が
効果的に表現されていた
とは思えなかったのです。
この意地悪な見地は、前述の「英国王のスピーチ」で違和感を感じてしまった、2つの些細な不整合によってなされていったのです。
「勿体ないな」と感じたパーツが
全体の印象を形作ってしまったのです。
今作はこの気持ちを払拭することなく、終了していったのです。
そして鑑賞後に、関連事項を調べてみたら、
本当に「勿体ないな」
と感じた事実を知ったのです
その事実とは、第2次世界大戦の際にジョージ6世はドイツに空襲を受けている
ロンドンを見捨てることなく
バッキンガム宮殿に留まり、
国民の士気を鼓舞し続けたこと。
そして、英国軍施設を訪問し、兵士に向かって
直接、激励のスピーチを
行なっていた事実 なのです。
この、ジョージ6世の行為を知って、ボクはこの作品が
初めて完結したと感じたのです。
映画で語られていない事実を知って、初めて完結することができる映画の
存在意義について
思い悩んでしまいました。
そして、そのうち、
【この映画は戦時下におけるジョージ6世の英雄的行為を知るための壮大な序曲だったのではないか 】
と思うようになったのです。
吃音でスピーチが苦手だった王が、ある男の協力で
まずは、戴冠式 という儀礼的な役目をこなし、
そして、第2次世界大戦に向けての覚悟を
国民の心の中に醸造させる。
(ここまでは映画で語られていた)
ついには、そのスピーチをきっかけとして、王は積極的に国民と関わり、
自らは標的となるも臆さず、バッキンガム宮殿に留まって国民の精神的支柱
となった。
また、軍施設に赴き兵士達に激励のスピーチを行うことで軍を鼓舞。
一致団結した英国は苦難の末、ついにドイツに勝利し、平和を取り戻した。
そんな雄大なストーリーが思い浮かんできたのです。
平和を取り戻すまでが、1セットである
とどうしても思えてしまうのです。
映画で語られていたことだけから判断すると、
開戦時のスピーチが
映画の「目的」である
ように思えてしまいますが、
戦争中のジョージ6世の行いを知る者からすると、
スピーチは
「手段」でしかない
ことに気づくのです。
このスピーチをキッカケ (「手段」)としてジョージ6世の
自己変革が成され、
英国の求心力となって国難を乗り越えた事実。
この事実を素求することが今作のゴール (「目的」)に思えてならなかったのです。
そんな拡大された世界観を夢みてしまったからには、省略されてしまった 戴冠式は、どうしても見たかったと思うのです。
何故なら、
平和を取り戻すに「2種類のスピーチの壁」をジョージ6世は克服したと思えてしまったからなのです。
2種類のスピーチ それは
「儀礼的スピーチ 」と
「心に訴えるスピーチ」
冒頭のロンドン万博での 儀礼的スピーチ の惨敗から今作が開始されたことを思い出して下さい。
その後 ローグの尽力で 戴冠式 という 儀礼的スピーチ を克服し、
次の、国家的危機に際しては、開戦を告げる事務的な側面と、国民を奮い立たせる 「心に訴えるスピーチ」 が混在するメッセージを発し、
戦時中には、戦いの前線にいる兵士達に 「心からのスピーチ」 を行ったことが想像できるのです。
1. ロンドン万博 儀礼的スピーチの失敗
2. 戴冠式 儀礼的スピーチの成功
3. 開戦宣言 事務的、心に訴えるスピーチの成功
と変遷し、
4. 遂には 人の心を揺り動かす語りかけ で英国民を結束
させていった。
1から4にかけての 段階の映画だと感じていったのです。
映画の中では
(敢えて?) 4. 人の心を揺り動かす語りかけ は省略して想像力の世界に
委ねているわけだから
一つの過程である 2. 戴冠式 儀礼的スピーチの成功 はしっかり目撃をしておきたかったと思ったのです。
今作を鑑賞し終えて思ったことは
「勿体ないな」
ということでした。
それは、終盤の開戦時スピーチに表れた制作サイドの不徹底からくるものでした。
クライマックスシーンにおける
小さな違和感の連続が
映画全体の印象を変え、
鑑賞後の発見が
映画世界の未完成さを認識する結果と
なったのです。
終盤10分の処理によって
非常に「勿体ない 」映画になってしまったです。
未完成 「英国王のスピーチ」 第1・2回 [未完成レビュー]

通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてアンドロイドタブレットを使っての車内執筆を実行中。
そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を
ツイッターで「実況」。
ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて
「鑑賞中ツィート」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中ツィート」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
今回は 11月から2月にかけて鑑賞し、アップした「鑑賞中ツィート」 を再構成した 「未完成レビュー」 としてアップするものです。
冒頭、主人公であるヨーク公とベテランアナウンサーの準備風景が交互に写し出される。ベテランアナウンサーは手慣れて、段取り良くすすんでいくのに対して、
ヨーク公の方は明らかに
緊張で表情が強ばり、
困惑を隠せない。
ヨーク公とベテランアナウンサーの準備は違う場所で進んでいくのですが、
2つの準備は2つの共通事項
で繋がっているのです。
1つ目は、これから 話す ということ。
もう1つは大英帝国博覧会の閉会式スピーチに関係すること
だったのです。
アナウンサーはヨーク公のスピーチをラジオで紹介する為に、
一方のヨーク公はそのスピーチ自体を行う為に
スタンバイをしているのだが、
正装に身を固め、シルクハットまで被っている。そんなご身分のご仁が、ブロックがむき出しの壁の前に立たされて、ただただ緊張している様が
「みすぼらしい」
と思えてしまうほどだったのです。
準備風景の印象通り、
ベテランアナウンサーは見事に仕事をこなし、
ヨーク公は無様な醜態を晒す結果となったのです。
「マイクにお任せ下さい」と言われていたというのに......。
彼は彼で、治療を受けていたようですが、うまくいかず、奥方が治療法をヤッキになって探しているようです。
一方の本人はモルモットのように様々な治療法を試されるので、イヤ気がさしている状況。
ローグはあくまでもマイペースで、患者との対等な関係を求める老齢な医者でした。ヨーク公とローグの初対面は
住む世界の違いとお互いのポリシーが反発し合って、
芳しいものではありませんでした。
でも結局、ヨーク公はローグの治療を受けることになるのです。
父親であるジョージ5世によるプレッシャーと、否定しがたい成果をつきつけられて、ヨーク公は再びローグの元を訪ねるのです。
そして、「ロッキー」のトレーニングシーンのような高揚感に包まれながら、二人の治療シーンが展開していったのです。
そこにはCMで有名となった、お互いに向き合って、顎を脱力させて顔を左右に振ってだらしなくうめき合うカットもあり、新しいことに挑戦していく
「パフォーマンス系映画」
のような様相を呈してきたのです。
ちょっとした躍動感が発揮されていました。
しばしの高揚感の後、今作は一つの節目を迎えるのです。父親のジョージ5世界が崩御したのです。
左利きを矯正させられたこと、
X脚の矯正ギブスをはめられていたこと、
末弟がテンカンで、若くして亡くなっていったこと
乳母から虐待を受けたことなど、
精神的抑圧と考えられる要因をローグに引き出されるがままに話し出すのです。
そして同じくローグに開放されるがごとく、相手を罵る汚い言葉を矢次早に言い放ち、卑猥な陰語さえも、淀みなく連呼していったのです
ここに今作のテーマが隠されている気がしたのです。
生まれながらの王族であるヨーク公には、立場というぶ厚いシールドがあり、そのシールドは強固なバリアになると共に、
心理的な障壁
にもなっていたのでしょう。
その障壁を打破してタブーとされている言葉を連呼する彼は精気に満ちていたのです。
ヨーク公の隠されていた部分を引き出したローグは彼を散歩に誘います。
その描写に興味を持ったのです。会話の内容は、新国王となった兄の、問題ある交際相手に及び、ローグはヨーク公に
王位の望み
が持てると発言。
それに猛反発するヨーク公 というものでした。
このシークエンスの表現はまるで異次元を彷徨しているような画面だったのです。
全体的にハイキーな画面になっており背景がトビ気味の露出設定になっているのです。その特別な空間の中でローグが発言した
「王位の継承」が
予言のような神秘性を放っていたのです。
後世のボク達にとっては、それが事実で、歴史となっていることですが、その時代に生きるローグが発言することで、しかも、特別な視覚表現がなされた空間で発言されたことによって、
一種のシャーマニズム
に近い感情を彼に感じたのです。
ヨーク公の
最もデリケートで
踏み入れてはならない心の領域
に土足で入り込んだローグを、ヨーク公は遠ざけるのです。しかし、歴史はローグが予見した通りに動いて行ったのです。
兄が王位よりも、問題ある交際相手を選んで退位。
ヨーク公が即位することになったのです。
第2回目
予言の的中もあってか、ヨーク公は再びローグの元を訪ねて行きます。今度は自宅に。
国王となれば、スピーチの頻度は増加し、吃音を直す必要性が出てきたからなのです。ローグ宅での微笑ましい場面の後、今作のクライマックスシーンとなるべき 戴冠式へと突入していくのです。
しかし、戴冠式の直前、問題が噴出します。
ローグが医師の免許を持たない、
民間療法者であることが
露呈したのです。
ローグのキャラクター付けで、アマチュアの役者を志向していたことを思い出しました。
彼は
「役者を目指す医者」ではなく、
「医者の役割を演じている役者」
の側面に近い人物であることがわかったのです
医師の資格を持っていないが為に、英王室から解任されそうになったローグは
「大芝居」 に打ってでるのです。
ヨーク公が目をそらしている隙に、戴冠式に使われる玉座にゆったりと座っているのです。その不遜な行為に烈火のごとく怒るヨーク公。
それこそがローグが引き出したいものだったのです
怒りに満ちたヨーク公の言葉は
淀みなく発っせられた のです。
これは以前、怒りや卑猥な、
普段隠された言葉を吐く時に
ヨーク公の吃音が現れないことを知っていたが故の 「大芝居」 だったのです。
実績をあげるローグをヨーク公は採用せざるを得なかったのです。いよいよ、ヨーク公がジョージ6世王となる今作のクライマックス、戴冠式へ進むようです。どのような成果となってスピーチがなされるのか注目です。
と思ったら、何と、肝心の戴冠式のシーンは
省略されてしまったのです。
数日後に家族で戴冠式のニュース映画を鑑賞している姿にスルーされていったのです。ローグの「大芝居」を準備し、ジョージ6世の
国王としての初めてのスピーチを省略
だなんて、大きな驚きだったのです。
省略という演出を目の当たりにして、今作における
本当のクライマックスは
他にある。
ということを理解することができました。
そして、戴冠式のニュース映画の続きにあったのが、ヒットラーの演説シーンだったのです。
ここでボク大きな映画的興奮をえることができたのです。
今作の主人公、
ジョージ6世のスピーチ映像を
一切写さないで、
ヒットラーの情熱的な演説を
提示してきた
監督の狙いに大いに反応してしまったのです。
戴冠式という大きな
盛り上がりを放棄して、
ヒットラーの演説を替わりに提示してきたことに、今作が目指す本当のクライマックスは、
ジョージ6世とヒットラーの関係性
において展開することを理解したのです。
ドイツとのシリアスな局面はすぐにやってきました。戦争状態に突入していったのです。
この難局において、
全国民の団結を訴える
新国王ジョージ6世の言葉が求められてきたのです
準備が進む中、ジョージ6世はローグを呼び寄せてスピーチの練習に取り掛かるのですが、国民に力を与えるというプレッシャーによって、うまく話すことができないのです。無情にも時間は迫り、いよいよ放送の時が来たのです。
政府の要人や放送技師が宮殿に詰め掛けている中、音声収録部屋にはジョージ6世とローグだけが入って行きます。その後のスピーチはまさに、二人三脚での協同作業となりました。
ローグはマイクをはさんでジョージ6世の真ん前に陣取り、まるで、オーケストラを指揮するかのようにスピーチの局面によて、抑揚の付け方や間の取り方を演出している。
これが今作のクライマックスと思ったのです。
当初はぎこちなかったスピーチもローグの指揮の介あって、スムースに動き始めました。宮殿内にいる家族や関係者は成り行きを見守っています。すると画面は
宮殿内にとどまらず、
外の世界を捉え始めたのです。
裏ぶれたパブで、ジョージ6世のスピーチに神妙な面持ちで耳を傾ける人々の映像が提示された瞬間に、
宮殿内のスピーチという作業が、
これから痛みを強いられることになる
国民の心に到達し始めたことを悟ったのです。
そのまま、
国王と国民。
そして2つの
コミュニケーションを繋いでいく
ローグによって
このクライマックスは進んでいく
と確信が持てたところ、
今作は
その期待を裏切っていったのです。
裏ぶれたパブの次はどのような英国国民が登場するのか期待していたところ、画面に写し出されたのは再び放送室内でスピーチを創出しているローグとジョージ6世。
このカットは理解できる。
送り手→受け手→そして送り手と展開してきたわけだから、スピーチを通じて
国難に立ち向かっていく覚悟が
交互に醸造される様を
見せてくれるものと思ったのです。しかし、放送室内の後はそれとは違っていたのです。
送り手→受け手→送り手の次は、当然、受け手になるのであろうと思っていたところ画面に写し出されたのは、スタッフである放送技師だったのです。
外に向かって行ったはずの
方向性がブレてしまい
残念に思いました。
もっと、残念なことが起こりました。
放送技師の次に提示されたのが
放送に聞き入るローグ家族だったのです。
しかも、スピーチがうまくいって喜ぶ表情を
捉えていたのです。
「違う。」と思ったのです。
なぜなら、映画は
「英国王のスピーチ」がうまく吃らずに話せるか
の段階を越えて、
「英国王のスピーチ」がどのように国民の胸に響くのか
の段階に
既に突入していたからなのです。
裏ぶれたパブでスピーチに聞き入る国民の後に、ローグの指揮によってスムーズにスピーチがこなせたをジョージ6世を捉えた後は、
受け手である国民を
真っ向から狙えばいいのです。
ただそれだけ。だと思うのです。
スピーチという「目的」のために
英国王とローグが奮闘する段階
を越えて、
スピーチという「手段」によって、
国王と国民が国難に立ち向かう覚悟に至る段階
に既に突入していたのです。
それなのに、放送技師を捉え、スピーチがうまくいって喜んでいるローグ一家の様を今さら見せられても、違和感しか持てなかったのです。
映画の局面は既に違う方向に進んでいたのです。
その後の進行は願い通り、国王と国民の真剣な向き合いを描いていました。
工場で、
ホテルの従業員控え室で、
重厚な会議室で、
各々の想いを胸に英国王の言葉に聞き入っている英国国民を捉えていきました。
その後に素晴らしく息を飲むカットに遭遇したのです。
少しでもバッキンガム宮殿内の様子を伺いたいと宮殿の門にしがみつきながら、国王の言葉に聞き入る一人の青年を捉えたのです。
ローアングルで捉えたそのカットは、きらびやかで荘厳な宮殿の正門門扉を捉え、パーンによってその青年を捉えたのですが、よく見るとその青年は門扉の上に乗っていることがわかるのです。
これによって、この地に駆けつたのは彼一人だけではなく、彼の足元には多くの人々がいる気配を感じたのです。
各々の場所で困難を覚悟しただけではなく、発信元のバッキンガム宮殿まで多くの国民がやって来たことを印象深く示したのです。
感動しました。
いや感動直前までいきました。
何故なら、感動の領域にいく直前にこのカットがプツッと切れてしまったのです。
ボクはこのカットに対して以下のような希望を持ってしまったのです。
【このカットは一人を捉え、
次に足元にいる多くの人を捉え、
そしてパンニングが続いて夥しい数の国民がバッキンガ
ム宮殿に押し寄せている様が、1カットで示される。】
と、
そんな妄想をして、感動の準備をしていたところ、
無情にも途中で切れてしまったのです。
勿体ない。 そう思ったのです。
完成! 「ソーシャルネットワーク」
今作は 「訴訟」 をかかえる現在と、その発端となる4年前の過去が絡み合いながら
「訴訟」 の原因を探る形態を取っていきました。
しかし、ボクの興味は 「訴訟」 についてではなく
主人公の行動様式が
「劣等感」 から派生し、
その 「劣等感」 を逆手に取った
「開放・拡大」路線
であったことに集約されていったのです。
そして、そっけなく進行してきた今作が、一転して
「市民ケーン」 における
“バラのつぼみ”
という、
情緒的な落としどころ に終結させてきた
節操の無さ
を楽しんだ鑑賞となりました。
今作はフェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグの学生時代から物語を始をめてきました。
彼はハーバード大学の学生で、コンピュータおたく。
ガールフレンドに振られた腹立ちから
「写真付き女子学生対決型ランキングサイト」
を作ることになります。
そのサイトは余りもの人気で、ハーバード大学のシステムがダウンしてしまう程だった
のです。 当然、女性たちからは敵視されるのですが、逆に彼の能力に注目する者が
登場します。
ここで、今作のキーとなる
「ファイナルクラブ」
なるものが姿を現すのです。
ハーバード大学には8個の 「ファイナルクラブ」 というものが存在するらしく、
ルーズベルト大統領も “ポーセリアン” という 「ファイナルクラブ」 のメンバーであったという。
そして、秀才揃いのハーバード大学生の中でも、選ばれし者しかこの 「ファイナルクラ
ブ」 に入れないことも判ってくるのです。
今作の主人公であるマークは 「ファイナルクラブ」 のメンバーに選ばれておらず、
エリート意識が強い彼は当然のことながら、このメンバーになることを渇望しているのです。
マークのコンピュータ知識に注目したのが、その 「ファイナルクラブ」 メンバーである
ウィンクルボス兄弟という双子だったのです。
ウィンクルボス兄弟はハーバード大学生に限定した 「ハーバードコネクション」 という
自己紹介サイトの構築をマークに依頼。
勿論、「ファイナルラブ」 への興味を顕わにしていたマークは快諾します。
そして、ここまで単調だった今作は、やっと動き始めることになるのです。
何故なら次のシーンは学生時代から
4年が経過した 「訴訟」の場 に
時空が飛んでいったからなのです。
時制の多重化が図られたことと、人間模様が交錯する 「訴訟 」 の場となったことで、
退屈していた今作に
推進力が加わってくれた。
とボクは期待し始めたのです。
4年後の新しい時制には 「ハーバードコネクション」 を依頼してきたウィンクルボス兄
弟がおり、マークと係争中のようです。そしてこの新たな時制には、新たな人物、
エドゥワルド が登場してきました。 彼の登場によって今作に興味深い
「根元的な謎」
が浮き彫りにされてきたのです。
エドゥワルド という人物は マークのハーバード大学での友人で、マークに誘われるがままに
「ハーバードコネクション」 の
基本コンセプトを流用 して、
彼らのサイト 「ザ・フェイスブック」 ( 「フェイスブック」の前身 ) を構築することになるのです。
「ハーバードコネクション」 のコンセプトを盗用されたウィンクルボス兄弟がマークを訴
えることは理解できても、漁夫の利を得たエドゥワルドが原告となる 「謎」 に遭遇したのです。
とは言っても、この 「謎」 はストーリーを追っていくうちに解明してくれる類いのモノで
あるでしょうし、ボクが興味を覚えた 「根元的な謎」 ではなかったのです。
「根元的な謎」 それは
【 何故、マークはウィンクルボス兄弟を裏切って、
エドゥワルドと、「ザ・フェイスブック」を立ち上たのか? 】
という
「素朴な疑問」 だったのです。
「ファイナルクラブ」 への入会を渇望しているのなら、ウィンクルボス兄弟に貢献して、
メンバーに推挙してもらえばいいのに.....。 と思えてしまったのです。
そして、その 「素朴な疑問」 が結果的には、マークのこれからの行動様式を決定付ける
「根元的な動機」
となっていたのです。
この時点では、この 「謎」 がマークの行動様式を決定付ける
「根元的な動機」
になるなんて思いもよらず、
単なる 「素朴な疑問」 として以下のように感じたのです。
【 ウィンクルボス兄弟に反目することになった原因は、
彼の コンプレックス だったのではないか 】
と。
何故なら、今作の冒頭のガールフレンドに振られるシーンにおいて、彼女の理想の
男性像としてボート部員が例に挙げられていたことを思いだしたのです。
ウィンクルボス兄弟はボート部のスター選手でハンサム。ましてや 「ファイナルクラブ」
のメンバーなのです。
方やオタクでパッとしない外観、そして 「ファイナルクラブ」 に入れないマークが、
ウィンクルボス兄弟に反感 を持つ
ことは理解できます。
そして更に、重要なことに気付いたのです。
それは、今作の冒頭、ガールフレンドから振られるシーンにおいての
「負の感情」 が、
サイト開発を推し進める力
になっていた事実
だったのです。
(この時は 「写真つきの女子学生対決型ランキングサイト」 でした。)
マークのサイト開発を推し進める原動力が
「負の感情」
だと仮定すると
「ザ・フェイスブック」を開発させたマイナスパワーは
この、選ばれしハーバード大学生である
ウィンクルボス兄弟への
劣等感だった。
と思えてならなかったのです。
この 「負の感情」 という思い付きは、この後の 「ザ・フェイスブック」 の進展を
見て、自信を深めていったのです。
「ザ・フェイスブック」 は初めは、ハーバード大学生に限定されたサイトでした。
しかし、マークの判断によって、エール大学や、コロンビア大学などにも拡張することに
なっていったのです。この経営判断には、マークの
非常に私的な感情 が
隠されていたのです。
ガールフレンドに振られた 「負の感情」 が
「写真付き女子学生ランキングサイト」 の.....。
そして、
ウィンクルボス兄弟への 「負の感情」 が
「ザ・フェイスブック」 の
原動力
だと信じる者としては、
「ザ・フェイスブック」 のエール大学や、コロンビア大学への拡張も同じ理由だと
思えてしかたがないのです。
何故なら、彼を冒頭で振った元カノとの再会の後に、他大学への拡張をマークが
決定したからなのです。
元カノとの再会では何があったのか?
結論から言うと 「何もなかった」 のです。
二人きりで話したい と言うマークを、彼女は大人の対応であしらっていったのです。
ヨリを戻すキッカケも、ネットでの中傷を詫びることもできずの完敗だったのです。
この、元カノとのカッコ悪い再会で生じた
「負の感情」 が 、
「ザ・フェイスブック」 を他大学に
拡張する原因 になった。
と感じたのです。
【 自分をあしらった元カノに、自分の成果を見せ付けたい。 】
そんな衝動に駆られたのでしょう。
その証拠として一流大学ではなかった元カノの大学もエール大学やコロンビア大学と
共に対象としたのです。
サイト構築の原動力が
恋人に振らたことや、
ウィンクルボス兄弟に対する劣等感のようなものや、
元恋人との気まずい再会
という、彼の中 に湧いた
「負の感情」であったことに
やっと今作においての
鑑賞目的を見つけることができたのです。
今後、サイトは爆発的な広がりを見せ、それと共に、マークは大きな名声と莫大な富を
手に入れることになるのですが、その裏に
「負の感情」が隠されて、
「成功←→負の感情」の 映画のルール
が存在していくのかを
注目していきたい。
と、この時点のボクは思ったのです。
この「負の感情」の存在を発見するのと時を同じくして、今作に新たな重要人物が登場してきました。
10代で音楽無料配信会社を立ち上げた ショーン という人物です。
彼はマークと同年代であるにも拘らず、すでにIT業界では時代の寵児 として有名な人物であるらしい。
ショーンとマーク、そしてエドゥアルドは会談を持つのですが、
自己中心的な性格が似かよっているマークとショーンは 「ザ・フェイスブック」 に
広告を持ち込まないことで意気投合。
広告収入をあげたいっと思っているエドゥアルドとは反する立場を取る のです。
ここにきて、エドゥアルドがマークを訴えることになった理由が推測することができたのです。
ショーンという第3番目の男の登場によって、
マークとエドゥアルドの
二人の間にある 「資質 の違い」
が明確になったことが原因
と思えたのです。
そんなマークとショーンの急接近を示す象徴的なものが、
「ザ・フェイスブック」 の 「ザ」 を削除して
「フェイスブック」 に改名すべき。
というショーンの意見に、
マークが従ったことに表れていました。
それは、サイトの名前が変わっただけではない、
大きな変化を
予感させていたのです。
それが、ショーンの台頭とエドゥアルドの没落だったのです。
ショーンの勧めにのってマークはカリフォニア移り、エドゥアルドは東海岸に残ります。
マークとショーンの関係性が構築できたタイミングで、エドゥアルドがカリフォルニアに
やって来るのですが、その地でショーンがビジネス面を仕切ってることを目の当たりに
するのです。資金調達に成果をもたらしているショーンをマークも頼っている。
エドゥアルドは当然なことにそんな状況に
反発心を持つのです。
しかし、ショーンが次々と大型スポンサーをゲットし、4億円もの資金調達に 成功。
「フェイスブック」 の
商品価値は急騰 し、
もはやエドゥアルドの
能力を超えたところ へ
行ってしまったのです。
「手に入れたものが大きくなり過ぎて、そして、マークやショーンのレベルに追いつけず
自分だけが取り残された
エドゥアルドの焦り。
凡人であるボクは痛切に感じることができました。
そんな、うだつが上がらないエドゥアルドは 「フェイスブック」 に資本参入した
大人達の思惑 で、
利権や地位が奪われていくのです。
激高したエドゥアルドはとうとうマークに本音を吐きます。
「フェニックスに入った嫉妬か?」
と。
そうなのです。エドゥアルド は 「フェニックス」 という名の 「ファイナルクラブ」 に
入会していたのです。
マークが入りたいと渇望しながらも入会が叶わなかった 「ファイナルクラブ」 に
自分が入会できたこと への嫌がらせなのか?
とボクが以前感じていたことを吐きだしたのです。
しかし、エドゥアルドのこの発言によって、彼が如何に
現状を把握できていなかったのか
が露呈されてしまったのです。その鈍感ぶりは 「フェイスブック」 の世界から
排除されるのも当然のレベルだったのです。
そのように言い切る理由は2つ。
まずは、1つ目。
ウィンクルボス兄弟の 「ハーバードコクション」 のように、ユーザーがハーバード大学
の学生に限定 された閉鎖的な空間においては、マークの 「負の感情」 という
チッポケなものがサイト全体の方針に
大きな影響を及ぼしていた
ことでしょう。
しかし、他の大学をも取り込み、西海岸まで到達した 「ザ・フェイスブック」 の広がり
を出発点にして、
他資本の参入を得て、イギリスをも巻き込む 「フェイスブック」 に拡大した巨大サイト
にとっては、 個人の 「負の感情」 などというものは
取るに足らないもの
になっていたのだと思うのです。
エドゥアルドが 「ファイナルクラブ」 に入会したことをマークが嫉妬したとしても、
彼個人の 「負の感情」 によって会社役員であるエドゥアルドを失脚させることは、
コーポレイトガバナンスの見地から不可能になってしまったほど、
会社は成長していたのです。
そして、ボクの個人的な見解によると、マークの 「負の感情」 は
サイト拡大の為の行動基盤
である訳ですから
今更、影響力のないエドゥアルドを失脚させたところで、
サイト拡大は見込めるはずもありません。
ですから 「ファイナルクラブ」 に入った嫉妬によってエドゥアルドを失脚させることは、
制作者の文脈では有り得ない。
と確信していたのです。
そして 2つ目の理由は、
「フェイスブック」 がその名に 「ザ」 を付けていた 「ザ・フェイスブック」 の時代
には、「ファイナルクラブ」 という既成の権威もその存在意義を発揮しておりましたが、
今や100万人のメンバー数を誇るサイトのオーナーとなって
自らが新たな権威
となったマークには
「ファイナルクラブメンバー」 という古臭い称号は、もはや
何の価値もなかった
のでしょう。
エドゥアルドが 「ファイナルクラブ」 に入会しようとも、
そもそも、マークには嫉妬などする必要がなかったのです。
「ファイナルクラブ」 の誉れに身を寄せるエドゥアルドと、
そのレベルを遥かに超えていったマーク。
エドゥアルドの 「フェニックスに入った嫉妬か?」 の発言がなされた瞬間に、
二人の間に発生していた
「属性の違い」
が露呈されていったのです。
そもそも、ハーバード大学生限定のサイトを作りたかったウィンクルボス兄弟や
エドゥアルドも、「ファイナルクラブ」 という
選ばれし栄誉 に寄りかかっている 点で、
マークとは根本的に違っていたのです。
選ばれることがなかったマークは
「排他的である」、という呪縛から
解き放たれて いたのです。
それ故、
「拡散」という方向性 を選択することができ、
「拡散」によってサイトも、彼自身も、
今までの殻を打ち破る ことが
できたのでしょう。
このように 「排他」→「拡散」 という方向性を打ち出してきた今作の流れに逆行する
「排他的」 な 「ファイナルクラブ」員
となったエドゥアルドは
今作から排斥される運命
だったのです。
映画の文脈の中では、エドゥアルドの排斥を十分に理解することができましたが、
その場面においてのショーンの描き方に、ボクは次なる興味を持ったのです。
登場当初は若きIT界の先輩として、マークへの影響力を発揮してきましたが、この局面に至っては、
マークの利権に絡みつき、
エドゥアルドの排斥にやっきになる
悪役 となっていたのです。
ショーンの描き方が急変したなと思った途端、彼は女性にだらしないという側面も
訴求されてきたのです。
しかもエドゥアルド排斥の場においての ショーンの横柄な態度に対してマークからは
「やりすぎだ」
と批判されるありさまだったのです。
ショーンに対する激変は表現上だけのことではないはず
と思った矢先にやって来たのは
ショーンの凋落
だったのです。
いかがわしいパーティに踏み込まれ、薬や未成年女性同伴によって、今作から、
そして 「フェイスブック」 の巨大なビジネスからも退場を余儀なくされるのです。
まさしく 「おごれる平氏は久しからずや」 の言葉を思い出しました
こんなショーンの退場劇を見届けて、今作はストーリーを語り終えていったのです。
今作のラストシーンは、訴訟を抱えている現在の時制において、
学生時代の友人エドゥアルドを失い、
信頼していたショーンをも失ったマークが
一人オフィスに残って、
PC画面を見つめている映像
となっていました。
その映像に、訴訟の原告であるウィンクルボス兄弟やエドゥアルドに対して
【 秘密保持の契約を盛り込んで、
訴訟額より大きな金額を和解金として支払う 】
ことで、この訴訟問題を決着をさせた
旨の字幕が挿入されるのです。
結局、彼は訴訟で闘うことはせずに、
金を払って過去の自分を抹殺する ことを
選んだのです。
秘密保持契約というオプションを付けて訴訟額より多い和解金を払い、
ウィンクルボス兄弟には実に50億円もの金額を支払ったのです。
(エドゥアルドは金額非公開)
弁護士が言っていました、「今のあなたには、そんなに大金ではない。」 と
裁判で戦うより、過去の自分を100億円を払って消し去った方が、
今の彼の立場では得策。
との弁護士団の判断だったのです。
100億円払っておいた方が得策、とは想像を絶っするほどの社会的立場なんだなと思いました。
100億円というグロス感に驚かされながらも、結局はそっけなく進行してきた今作の
ラストシーンは、意外にもボクの気持ちを揺さぶっていったのです。
ラストシーンは前述のように
一人オフィスに残って、
PC画面を見つめている映像
となっていたのですが、
そのPC画面が感傷的な思いを持ち込んできたのです。
その画面とは、ある人の「フェイスブック」のページだったのです。
ある人のとは、元のガールフレンド、エリカのページだったのです。
彼女に 「友達になる」 の申請をし、彼女からの 「友達承認」 が届きはしないかと
リロードを 繰り返しているマークの一人ぼっちの姿が、 今作の
正真正銘のラストシーン
だったのです。
彼女のページを眺めるマークの胸の内は切なさで満たされていったことでしょう。
エリカに未練があるという、浮ついた思いも去ることながら
「市民ケーン」の
“バラのつぼみ”
に相当する思いなのだろうと、
感じたのです。
“莫大な遺産” を相続する前の、 ささやかで穏やかな幸せを象徴するのが
“バラのつぼみ” でありましたが、
元のガールフレンドであるエリカが、
マークにとっての “バラのつぼみ”
に相当するのだろうなと
感じたのです。
エリカは、“莫大な遺産” である 「ザ・フェイスブック」 を得る前の、
普通のハーバード大生だったころのマークを知る人物で、
普通の男が味あう失恋の痛手を与え、
大富豪になる前の普通の男の子にとっての
等身大の思い出 を
持たせた女性なのです。
エリカにフラれた腹立ちで、マークは 「写真付き女子学生対戦」 サイトを開発。
その完成度と反響の大きさによって 「ザ・フェイスブック」 を開発することなったことを考えると、エリカは
今日のマークを作り上げた女性
と言えるのかもしれません。
また、エリカとの 「かっこ悪い再会」 によって 「ザ・フェイスブック」 は
「拡散」の方向に走り出した
わけで、その結果、
「ファイナルクラブ」 や 「ハーバードコネクション」 の
閉鎖的な世界から決別 し、
別次元の成功 を果たしたことを考えると、
エリカはささやかで穏やかだった日々を象徴する
“バラのつぼみ” であり、
同時に
“莫大な財産”
をもたらした女性でもあったのです。
今作はそんなエリカとの関係性に救いを求めるマークの姿をラストカットに選んだのです。
莫大な富と名声を手にしたマークですが、 その過程において 自らの極端な性格と、利権に群がる者たちの都合で、
大切な人間関係を失ってきました。
そんな穏やかではなかった過去を彼は
100億円もの金額で封印 したのです。
「孤高の存在」 になってしまったが故に、 等身大の青春を破棄せざるを得なかった マークの 「孤独」 というものは、
“バラのつぼみ” であるエリカに虚ろな表情でメッセージを送る姿に
見事に表現されている と感じたのです。
「孤高の孤独」
とでも言うのでしょう か.........。
あらゆる望みを叶えられる身になりながらも、心を許せる者が誰もいなくなってしまった孤独。
そして、等身大の自分の過去を100億円で消し去らなければならない
「孤高であるがための孤独」
を感じたのです。
そんな現在のマークを取り囲んでいる 「不条理さ」 と、
一個の人間としての 「感傷」
この2つのせめぎ合いに彷徨っている彼の姿を見て、
ボクの心も 刹那的 に揺さぶられていったのです。
( ただし、このラストシーンの表現は理解しづらく、鑑賞当初は、
「メッセージの送信を取り止めた」 と受け取っておりました。
しかし、映像の中に釈然としない動作があったので、他の方のレビューを参照。
やっと上記の流れを理解することができたのです。
そして同時に、ボクと同じ誤解をされている方が多いことも知ったのです。
結局は 「感傷」 に委ねる結末であったことには違いないのですが、
「諦め」 なのか 「助けを求める」 のか、
によって鑑賞者の感情を大きく左右するポイントであったのです。
制作者には主人公の行動をしっかりと伝えて欲しかった。と、
最後に意見を言わせて頂きたいと思います。 )
今作は 「訴訟」 をかかえる現在と、その発端となる4年前の過去が絡み合いながら、
「訴訟」 の原因を探る形態を取っていきました。
しかし、ボクの興味は 「訴訟」 についてではなく
主人公の行動様式が
「劣等感」 から派生し、その 「劣等感」 を逆手に取った
「開放・拡大」路線
であったことに集約されていったのです。
そして、そっけなく進行してきた今作が、一転して
「市民ケーン」 における “バラのつぼみ”
という、
情緒的な落としどころ に終結させてきた
節操の無さ
を楽しんだ鑑賞となりました。 

ツィート 「英国王のスピーチ」 鑑賞中ツィート

通勤時間を利用してのポータブルDVDによる地下鉄内コマ切れ鑑賞を実行中!
そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を
ツイッターで「実況」し始めました。
ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて
「鑑賞中ツィート」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「つぶやき転載」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
まずは、全ての出発点、ツイートを、ここに転載することにします。
第1回目
冒頭、主人公であるヨーク公とベテランアナウンサーの準備風景が交互に写し出される。ベテランアナウンサーは手慣れていて、段取り良くすすんでいくのに対して、ヨーク公の方は明らかに緊張で表情が強ばり、困惑を隠せない。
第2回目
ヨーク公とベテランアナウンサーの準備は違う場所で進んでいくのですが、2つの準備は2つの共通事項があるのです 1つ目は、これから 話す ということ。もう1つは大英帝国博覧会の閉会式スピーチに関係することだったのです。
第3回目
アナウンサーはヨーク公のスピーチをラジオで紹介する為に、一方のヨーク公はそのスピーチ自体を行う為にスタンバイをしているのだが、ベテランアナウンサーの経験に裏打ちされた自信とは対照的にヨーク公の緊張は気の毒なくらいなのです。
第4回目
ヨーク公のシークエンスで印象的だったのが、階段下で夫婦で待機しているショット。正装に身を固め、シルクハットまで被っている。そんなご身分のご仁が、ブロックがむき出しの壁の前に立たされて、ただただ緊張している様が「みすぼらしい」と思えるほどだったのです。
第5回目
準備風景の印象通り、ベテランアナウンサーは見事に仕事をこなし、ヨーク公は無様な醜態を晒す結果となったのです。マイクで拡声された彼のどもり声やスットンキョな声が巨大な会場に響きわたっている様子は悲劇的でした。「マイクにお任せ下さい」と言われていたのに。
第6回目
彼は彼で、治療を受けていたようですが、うまくいかなかったようで、奥方が治療法をヤッキになって探しているようです。一方の本人はモルモットのように様々な治療法を試されるので、イヤ気がさしているようなのです
第7回目
そんな時に、奥方が訪ねて行ったのが、今作のもう一人の主人公であるドクター・ローグです。はあくまでもマイペースで患者との対等な関係を求める老齢な医者でした。ここでは身分の違いが伺える表現として、エレベーターのドアが活用されていたのです。
第8回目
彼の診療室へ行くためのエレベーターの運行方法が、2重トビラとなっており、外側のドアと内側のドアの両方を閉めないと、動き出さないシクミとなっているのです。王室の1員である奥方はその方法がわからず、しばし戸惑うのです。
第9回目
この表現は、王室と医者の属しているテリトリーが違うことを示しているように感じられたのです。その後に提示された医者のポリシー、「患者との対等な関係」が奥方とヨーク公との間に何らかな軋轢が生じていく予感を感じていったのです。
第10回目
老医者のキャラクター付けて興味深いのが、彼は役者志望であるということでした。劇団のオーディションを受ける場面まで用意してあるのです。その際のお題が「リチャード3世」。異形の王位を欲する者の物語りだったのです。
「リチャード3世」は異形の王位を欲する者だが、今作の主人公のヨーク公は、異形ではないが吃音で、王位に野心というよりは、兄に譲渡されて王位に就いててしまった人。似ているようで似ていないキャラクター対比に興味を覚えたのです。
12回目
このオーディションには、医者のオーストラリア訛りの為に、落ちてしまうのです。英語の母国であるイギリスの、しかも王室の人間に、オーストラリア訛りの老医師が吃音の治療を行う図式も提示され、これらの要素が絡まっていくのか見守っていきたいと思います
13回目
いよいよ、ヨーク公が老医師の元を訪ね、治療が始まりました。注目していたら、ありました! 外側のドアを閉めないばかりに、エレベーターが動き出さないシークエンスがヨーク公の場面においても訴求されたのです。ささやかなことですが、うれしくなりました。
14回目
「うまく動かないエレベーター」に象徴されたように、ヨーク公と老医師との初対面は住む世界の違いによって、そして、お互いのポリシーが反発し合って、うまくいきませんでした。でも結局、ヨーク公はライオネルの治療を受けることを決心するのです。
15回目
父親であるジョージ5世によるプレッシャーと、否定しがたい成果をつきつけられて、ヨーク公は再びライオネルの元を訪ねるのです。宣伝で有名となった、お互いに向き合って、顎を脱力させて顔を左右に振ってだらしなくうめき合うカットが始まりました。
16回目
「ロッキー」のトレーニングシーンのような高揚感に包まれながら、二人の治療シーンが展開していきました。新しいことに挑戦していく「パフォーマンス系映画」のような様相を呈してきたのです。ちょっとした躍動感が発揮されていました。
17回目
しばしの高揚感の後、今作は一つの節目を迎えるのです。父親のジョージ 5世界が崩御したのです。題名に 「英国王 」とあるのでヨーク公が王位に就いたかと思うところでしょうころでしょうが、彼には兄がいたのです。
18回目
ヨーク公は次男で、兄が王位を継ぐことになったのです。しかし、この兄も問題をかかえているのです。シンプソン夫人という人妻にゾッコンなのです。伝統を重んじる英国王室ではこの二人の不適切な関係が、後ほど、大きな変化を引き起こしていくのです。
19回目
父王が崩御したことをキッカケに、ヨーク公とライオネルの仲が深まっていきました。そのころまでには、ヨーク公のことをバーティ、とライオネルのことをローグとお互いを呼び合う仲になっていたようですが、ここで初めて、ヨーク公がプライベートな話しをするのです。
20回目
左利きを矯正させられたこと、X脚の矯正ギブスをはめられていたこと、末弟がテンカンで若くして亡くなっていったことや、乳母から虐待を受けたことなど、精神的抑圧と考えられる要因をローグに引き出されるがままに話し出すのです。
21回目
そして同じくローグに開放されるがごとく、相手を罵る汚い言葉をやつぎばやに言い放ち、卑猥な陰語さえも、淀みなく連呼していったのです。ここに今作のテーマが隠されている気がしたのです。
22回目
生まれながらの王族であるヨーク公には、立場というぶ厚いシールドがあり、そのシールドは強固なバリアになると共に、心理的な障壁にもなっていたのでしょう。その障壁を打破してタブーとされている言葉を連呼する彼は精気に満ちていました。
23回目
ヨーク公の隠されていた部分を引き出したローグは彼を散歩に誘います。その描写に興味を持ったのです。会話の内容は、新国王となった兄の、問題ある交際相手に及び、ローグはヨーク公に王位の望みが持てると発言。それに猛反発するヨーク公 というものでした。
24回目
このシークエンスの表現はまるで異次元を彷徨しているような画面だったのです。全体的にハイキーな画面で、背景が飛び気味の露出設定になっているのです。その特別な空間の中でローグが発言した 「王位の継承」が予言のような神秘性を放っていたのです。
25回目
後世のボク達にとっては、それが事実で、歴史となっていることですが、その時代に生きるローグが発言することで、しかも、特別な視覚表現がなされた空間で発言されたことによって、一種のシャーマニズムに近い感情を彼に感じたのです。
26回目
ヨーク公の最もデリケートで踏み入れてはならない心の領域に入り込んだローグを、ヨーク公は遠ざけるのです。しかし、歴史はローグが予見した通りに動いて行ったのです。兄が王位よりも、問題ある交際相手を選んで退位。ヨーク公が即位することになったのです。
27回目
予言の的中もあってか、ヨーク公は再びローグを訪ねてきます。今度は自宅に。国王となれば、スピーチの頻度は増加し、吃音を直す必要性が出てきたからなのです。ローグ宅での微笑ましい場面の後、今作のクライマックスシーンとなる たい冠式 へと突入です。
28回目
戴冠式の直前、問題が噴出します。ローグが医師の免許を持たない、民間療法者であることが露呈したのです。 「役者を目指す医者」ではなく、「医者の役割を演じている役者」の側面に近い人物であることがわかったのです
29回目
医師の資格を持っていないが為に、英王室から解任されそうになったローグは 「大芝居 」に打ってでるのです。ヨーク公が目をそらしている隙に、たい冠式に使われる玉座にゆったりと座っているのです。その不遜な行為に烈火のごとく怒るヨーク公。
30回目
それこそがローグが引き出したいものだったのです。怒りに満ちたヨーク公の言葉は淀みなく発っせられたのです。これは以前、怒りや卑猥な、普段隠された言葉を吐く時に、ヨーク公の吃音が現れないことを知っていたが故の 「大芝居」だったのです。
31回目
実績をあげるローグをヨーク公は採用せざるを得なかったのです。いよいよ、ヨーク公がジョージ6世王となる今作のクライマックス、戴冠式へ進むようです。どのような成果となってスピーチがなされるのか注目です。
32回目
と、思ったら肝心の戴冠式は省略されて、式後に家族で鑑賞しているニュース映画としてスピーチ後の当時の映像がほんの少し出ていただけだったのです。ローグの「大芝居」を準備し、彼の国王としての初めてのスピーチを省略だなんて、大きな驚きだったのです。
33回目
省略という演出を目の当たりにして、今作における本当のクライマックスは他にある。ということを理解することができました。そして、戴冠式のニュース映画の続きにあったのが、ヒットラーの演説シーンだったのです。
34回目
ここでボクは大きな映画的興奮をえることができたのです。今作の主人公、ジョージ6世のスピーチ映像を一切写さないで、ヒットラーの情熱的な演説を提示してきた監督の狙いに大いに反応してしまったのです。
35回目
戴冠式という1つの盛り上がりを放棄して、ヒットラーの演説を替わりに提示してきたことに、今作が目指すクライマックスは、ジョージ6世とヒットラーの関係性において展開することを理解したのです。
36回目
後世の、歴史を知る者からすると、第2次世界大戦においてイギリスとドイツが戦ったことは事実ですから、その大きな流れの中で、今作の映画的なエクスタシーはやって来ることを、直感的に訴求する演出だったのです。
37回目
ドイツとのシリアスな局面はすぐにやってきました。戦争状態に突入していったのです。この難局において、全国民の団結を訴える、国王ジョージ6世の言葉が求められてきたのです
38回目
準備が進む中、ジョージ6世はローグを呼び寄せてスピーチの練習に取り掛かるのですが、国民に力を与えるというプレッシャーによって、うまく話すことができないのです。無情にも時間は迫り、いよいよ放送の時が来たのです。
39回目
政府の要人や放送技師が宮殿に詰め掛けている中、音声収録部屋にはジョージ6世とローグだけが入って行ったのです。その後のスピーチはまさに、二人三脚での協同作業となりました。
40回目
ローグはマイクをはさんでジョージ6世の真ん前に陣取り、まるで、オーケストラを指揮するかのようにスピーチの局面によて、抑揚の付け方や間の取り方を演出している。これが今作のクライマックスと思ったのです。
41回目 12月18日 16:31
当初はぎこちなかったスピーチもローグの指揮の介あって、スムースに動き始めました。宮殿内にいる家族や関係者は成り行きを見守っています。すると画面は宮殿内にとどまらず、外の世界を捉え始めたのです。
42回目 12月19日 17:58
裏ぶれたパブで、ジョージ6世のスピーチに神妙な面持ちで耳を傾ける人々の映像が提示された瞬間に、宮殿内のスピーチという作業が、これから痛みを強いられることになる国民の心に到達し始めたことを悟ったのです。
43回目 12月20日 19:34
そのまま、国王と国民。そしてそのコミュニケーションを繋いでいくローグによってこのクライマックスは進んでいくのだなと確信が持てたところ、今作はその期待を裏切っていったのです。
44回目 12月21日 19:26
裏ぶれたパブの次はどのような英国国民が登場するのか期待していたところ、画面に写し出されたの再び放送室内でスピーチを創出しているローグとジョージ6世。このカットは理解できる。
45回目 12月22日 19:57
送り手→受け手→そして送り手と展開してきたわけだから、スピーチを通じて国難に立ち向かっていく覚悟が交互に醸造される様を見せてくれるものと思ったのです。しかし、放送室内の後はそれとは違っていたのです。
46回目 12月25日 19:29
送り手→受け手→送り手の次は、当然、受け手になるのであろうと思っていたところ画面に写し出されたのは、スタッフである放送技師だったのです。外に向かって行ったはずの方向性がブレてしまい残念に思いました。
47回目 12月26日 6:55
もっと、残念なことが起こりました。放送技師の次に提示されたのが放送に聞き入るローグ家族だったのです。しかも、スピーチがうまくいって喜ぶ表情を捉えていたのです。「違う。」と思ったのです。
48回目 12月26日 21:18
なぜなら、映画は「英国王のスピーチ」がうまく吃らずに話せるかの段階を越えて、「英国王のスピーチ」がどのように国民の胸に響くのかの段階に既に突入していたからなのです。
49回目 12月28日 8:24
裏ぶれたパブでスピーチに聞き入る国民の後に、ローグの指揮によってスムーズにスピーチがこなせたをジョージ6世を捉えた後は、受け手である国民を真っ向から狙えばいいのです。ただそれだけ。だと思うのです。
50回目 12月29日 7:42
スピーチという「目的」のために英国王とローグが奮闘する段階を越えて、スピーチという「手段」によって、国王と国民が国難に立ち向かう覚悟に至る段階に既に突入していたのです。
51回目 1月3日 19:03
それなのに、放送技師を捉え、スピーチがうまくいって喜んでいるローグ一家の様を今さら見せられても、違和感しか持てなかったのです。映画の局面は既に違う方向に進んでいたのです。
52回目 1月4日 8:13
その後の進行は願い通り、国王と国民の真剣な向き合いを描いていました。工場で、ホテルの従業員控え室で、重厚な会議室で、各々の想いを胸に英国王の言葉に聞き入っている英国国民がいる図式となっていきました。
53回目 1月6日 12:16
その後に素晴らしく息を飲むカットに遭遇したのです。少しでもバッキンガム宮殿内の様子を伺いたいと宮殿の門にしがみつきながら、国王の言葉に聞き入る国民を捉えたのです。
54回目 1月6日 19:09
ローアングルで捉えたそのカットは、きらびやかで荘厳な宮殿の正門門扉を捉え、パーンによってその人物を捉えたのですが、よく見るとその男は門扉の上に乗っていることがわかるのです。
55回目 1月7日 7:54
これによって一人だと思われてところ、彼の足元には多くの人々がいる気配を感じたのです。各々の場所で困難を覚悟しただけではなく、発信元のバッキンガム宮殿まで多くの国民がやって来たことを示したのです。
56回目 1月7日 23:12
感動しました。いや感動直前までいきました。このカットは一人を捉え、次に足元にいる多くの人を捉え、そしてパンニングが続いて夥しい数の国民がバッキンガム宮殿に押し寄せている様が、1カットで示される!
57回目 1月10日 18:30
そんなことを妄想して、感動の準備をしていたところ、無情にもプツッと切れてしまったのです。勿体ない。そう思ったのです。この残念な想いは、ほんの少し前に味わったものでした。
58回目 1月11日 7:41
そう。国王と国民のスピーチを介した 対峙 を目の当たりできると期待させておきながら、極私的なローグ家族の安堵という、些細なもので緊張感を損なってしまった勿体なさを思い出してしまったのです。
59回目 1月11日 21:57
「英国王のスピーチ」を介してジョージ6世と全国民が心を一つにする様を、効率的に印象深く訴えるチャンスがありながら、ここでも活かすことができなかったのです。短時間のうちに連続して違和感を感じてしまったのです。
60回目 1月12日 7:24
2つの違和感を抱えながらも、「英国王のスピーチ」の成功は大きな映画的カタルシスをもたらしました。でもそれが、たい冠式というクライマックスを、記録映画でスルーしたこで成し得たとは言い難かったのです。
61回目 1月13日 7:37
隠す必要なかったのでは?と思えてしまったのです。たい冠式スピーチを敢えて省略するメリットを見つけることができなかったのです。見れないショックは確かにありました。でも、それだけだったのです。
62回目 1月14日 13:10
見せなかったことで、この第2次世界大戦への「英国王のスピーチ」が効果的に表現されていたとは思えなかったのです。と、「英国王のスピーチ」自体に対してこのような批判的な発言をしてしまいました。
63回目 1月14日 19:57
この見地は、自分の頭の中をどう考えてみても「英国王のスピーチ」で違和感を感じてしまった、2つの些細な不整合によってなされていったのです。「勿体ないな」と感じたパーツが全体の印象を形作ってしまったのです。
64回目 1月16日 7:33
そしてこの気持ちを払拭することなく、今作は終了していったのです。そして鑑賞後に、関連事項を調べて見たら、本当に「勿体ないな」と感じた事実を知ったのです
65回目 1月16日 19:10
その事実とは、第2次世界大戦の際にジョージ6世はドイツに空襲を受けているロンドンを見捨てることなくバッキンガム宮殿に留まり、国民の士気を鼓舞し続けたこと。
66回目 1月30日 6:51
この見地は、自分の頭の中をどう考えてみても「英国王のスピーチ」で違和感を感じてしまった、2つの些細な不整合によってなされていったのです。「勿体ないな」と感じたパーツが全体の印象を形作ってしまったのです。
67回目 1月30日 18:41
吃音でスピーチが苦手だった王が、ある男の協力で第2次世界大戦に向けての覚悟を国民の心の中に醸造させる。(ここまでは映画で語られていた) そのスピーチをきっかけとして、王は積極的に国民と関わり、
68回目 1月31日 12:01
自らは標的となるも臆さず、バッキンガム宮殿に留まり、国民の精神的支柱となった。一致団結した英国は苦難の末、ついにドイツに勝利し、平和を取り戻した。 そんなストーリーが思い浮かんできたのです。
69回目 1月31日 19:31
平和を取り戻すまでが、1セットであるとどうしても思えてしまうのです。今作でも使われた、後日談としてナレーションやテロップで訴えるだけで、鑑賞後の味わい深さが劇的に違ってくると思うのです。
70回目 2月1日 7:05
映画で語られていたことだけから判断すると、開戦時のスピーチが映画の「目的」であるように思えてしまいますが、戦争中のジョージ6世の行いを知る者からすると、実はスピーチは「手段」でしかないことに気づくのです。
71回目 2月1日 20:07
このスピーチをキッカケとしてジョージ6世の自己変革が成され、英国の求心力となって国難を乗り越えた事実。この事実を素求することが今作のゴールに思えてならなかったのです。
72回目 2月2日 7:10
今作を鑑賞し終えて思ったことは 「勿体ないな」ということでした。それは、終盤の開戦時のスピーチに表れた制作サイドの不徹底からくるものでした。
73回目 2月2日 19:50
クライマックスシーンにおける違和感の連続が映画全体の印象を変え、鑑賞後の発見が映画世界の未完成さを認識する結果となった。終盤10分の処理によって非常に「勿体ない 」映画になってしまったです。
おしまい。
完成! 「悪人」 前半 [DVD 車内鑑賞レビュー]

今作は
【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】。
この2つの、相反するテイストが共存する
味わい深い逸品となっていました。
しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。
この感情はラストにおける
「配慮不足」 という象徴的な事象に
集結 されているようでした。
残念に感じる場面はありましたが、
李監督の大きな成長を 実感し、
彼のさらなる飛躍を 予感
させる作品となっていたのです。
今作のオープニングは
陰鬱で退廃的
でした。
普通だとこのような作品は、鑑賞の意欲が削がれてしまうものですが、
今作は違っていました。
オープニングの、主人公の男が夜道を運転する映像から
「先行き不安なイメージ」が明確に伝わってきたのです。
その後、20代女性保険外交員の同僚同士の薄っぺらい人間関係や、
出会い系サイトの如何わしい人間関係が矢次早に提示されていきます。
もう一度言いますが、平凡な作品であったのなら、ただ嫌気がさしてしまうところでしょうが、
今作は違っていたのです。
キメ細やかな描き方に、ついつい引き込まれていったのです。
(演出に関しては、折に触れて説明をしていきます)
物語は進み、先の20代の保険外交員の女性が死体で発見されます。
その身元確認の経緯も丹念に描かれて、思わず引き込まれるものだったのです。
理髪師である父親が、散髪客と互いの娘についての話しをしている。
鑑賞者はこの理髪師の娘が亡くなってしまったことを知っているので、
お客とのノンビリとした会話を聞かされているだけで、ジレッタイ気持ちに
駆られていくのです。
そこに警察からの電話。受話器を上げる母親。
不安に怯える母親の表情が簾越しでよく認識できない、という演出も目を離せない。
場面は死体安置所に移る。
娘の遺体を確認する父親、
表情一つ変えず、ただ、コクリと頷く。
ふと気付くと遺体に被せているシートから娘のつま先が出ている、
そのシートの乱れを思わず直してしまう父親。
非日常的な事象 に父親の 気持ちが混乱 している様が、
ありありと伝わってきたのです。
そして足早に安置所を立ち去り、廊下で待つ妻の元へと急ぐ。
二人のカットは逆光でシルエットになっている。
表情は影にして見せていないものの、気持ちの中は手に取るように
理解することができる。
その心の動揺はしばしの沈黙を破って
泣き崩れる妻のシルエットに結実
していたのです。
この一連の演出に心動かされていると、画面は突然、
「 バリバリバリ ! 」
と大きな音をたてて、
重機が廃屋を潰すショットが映し出されたのです。
妻夫木聡が演じる主人公の男が解体工であることを説明するカットではあるのですが、
娘を殺されたこの夫婦の、
突然の
「幸福の崩壊」
を連想させる繋がりに
感心しっぱなしだったのです。
気分は重い。しかし、演出は素晴らしく今作は評判通りの傑作に違いない。 と、
開始20分にして確信をしたのです。
殺害された女性のお通夜の席においても、今作は深い映画体験を与えてくれたのです。
親戚の一言に激高した父親がその親戚に掴み掛かっての一悶着の場面。
ちょうど焼香に来ていた刑事を見つけた父親が勢いにまかせてその怒りをぶつけてしまうのです。
「大学生一人捕まえられんで、何が警察か!
こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!
スイマセン ( 頭を深々と下げる ) 」
この一連が、一気に映し出されていったのです。
このような場面では、他の凡庸な作品では
「こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!」
のセリフに一拍おき、
そんなことを言ってしまった自分自身に
驚く小芝居を入れて、
「スイマセン ( 頭を深々と下げる )」
となるところなのでしょうが、
今作はそのようなことはせずに、
ノンストップで当ててきたのです。
それだけ、脳内物質が出まくって、この父親が普通の状態でいられないことを
印象深く訴えていたのです。
それは、娘の死を知る直前の父親と散髪客とのノンビリとした日常を見せられてヤキモキしてしまったものとは、
悲しいほどの対比
を描いていたのです。
「うまくなったなー」
と思い切り上目線で唸ってしまいましいた。
李監督の前作 「フラガール」 を地下鉄内鑑賞をしていますが、
その映画の監督が、まさか、こんな隙のない演出をする監督になるとは、思いもよらなっかたのです。
鑑賞途中ではありますが、李監督は今作で
飛躍的な成長を遂げるに違いない
と確信をしたのです。
そんな幸福感に包まれながら、物語は、やっと今作の主人公 祐一 と、光代 の出会いとなりました。
今作の薄幸のヒロイン 深津絵里 演じる 光代 は、慎ましやかな、誠実な女性として描かれており、佐賀弁がその優しさを醸し出していました。
一方の 妻夫木 聡 演じる 祐一は、初登場から無口で得体が知れない一種の不気味さを漂わせていたのです。
主人公の 祐一 は初対面の 光代 に対して、ぶっきらぼうに男女の関係を求めていきます。
ウブな 光代 はその流れに飲み込まれるようにして、祐一 との関係を受け入れていきます。
「不気味さ」を纏った祐一と、
寛容で誠実な光代
の対比ができたところで、
この二人の関係性はどの方向に動き出すのかを、注目していきたいと思ったのです。
と、ここまではテーマは重いながらも快調な鑑賞となっていたのですが、 その後の処理に対して、疑問に思えたシークエンスが出てきてしまったのです。
20代女性保険外交員が殺害される直前まで会っていた 岡田将生 演じる チャライ大学生との場面。
彼女がチャライ大学生の機嫌を損ねて、夜の峠道で車から蹴落とされる場面が出てくるのですが、その表現に
違和感を感じてしまったのです。
チャライ大学生はろくでもない人間だとは理解していましたが、
それでも暴力的な人間だとは表現されておらず、
それが突然の豹変によって、攻撃的な態度を取り出したのです。
その展開は今作の世界観を表すための
必然性
ではなく、
まるで、これから展開する物語を進行させる為の
必要性
による豹変に感じられ、
どうしも、
制作者サイドのご都合主義的行為、
として捉えられてしまったのです。
こうして、今まで手放しで評価していたボクの気持ちに、一抹の不安が生じていったのです。
不安を孕みながらも、物語は今作の主人公 祐一 と、光代 の再会のシーンとなります。 祐一 が初対面での対応を詫びに来たようなのです。
ボクはこれ以降、祐一 の描き方に激変が生じてきたことに反応し、大いに興味を持ったのです。 それまでは、
「不気味な性格異常者」
のような表現をしていたところ、
「不器用で純粋な男」
として、語り始めようと
路線変更をしてきたのです。
このような 「キャラクター変更」 を含みながら、二人はこのまま逃走劇を演じていくのですが、
祐一 が 光代 に対して自分の犯した罪を告白するシーンは大変、素晴らしいものになっていました。
港の展望が開けている食堂の2階のお座敷において、
1カット目は
初めてのズル休みに、ちょっとウキウキしている光代の様子を捉えながら、
やがて、彼女は目の前にいる祐一の変化に気付く。
この時、画面には光代しか捉えていなく、祐一は画面に入っていない。
2カット目
手前に祐一の後ろ姿、奥に光代を捉えたアングルで、ピントは祐一の後ろ姿に合っていて、光代はピンボケの状態。
1カット目の終わりで、祐一の変化に気付いてっs心配する光代の表情を捉えていたので、 光代の表情がピンボケでも彼女の状態は推測することができます。
そして、ピントが合っている祐一は後ろ姿なので、その表情を伺い知ることはできないのです。
しかし、俯き加減で小刻みに震えている様子から、彼の尋常ではな様がわかるのです。
「俺、 人 殺してしもうた 」
と光代に告白した直後、カメラのピントは 祐一 の後姿から、
光代 の驚いた表情を瞬時に捉えたのです。
3カット目
カメラ位置は今度は 光代 の後ろに位置を変えて、光代の後ろ姿を手前に、奥に祐一の顔を配しています。
祐一の表情が観察できると思いきや、画面は半分ほどがピンボケした光代の後頭部で占められているのです。
その残されたスペースで 祐一の顔半分が伺い見れるという極端なフレーミングのカットとなっています。
殺してしまった女性との関係を話し出す祐一
4カット目
今度はそれを受ける光代の、これも極端なフレーミング。
3カット目を受けるもので、ショットのコンセプトは全く同じものでした。
祐一の後頭部で隠されて光代の顔を半分しか伺い見ることができない。
告白を聞いて呆然としている光代。
5カット目
3カット目と同じアングル。切り替えしで顔半分の祐一のカット。
このようなクセの強いアングルを
連続3カット続ける勇気
に感服しました。
「会いたいなら、金払え」
と、その女性から言われたと告白。
その女の性悪さが露呈した瞬間で、
「会いたいなら、金払え」 のセリフは
ちょっと前から監督が狙っていた祐一の
「キャラクター変更」 に対して
素晴らしい効果を上げていたのです。
それまでは、
「不気味なサイコ野郎」 の描き方をしていたところ、
光代に謝罪してきたあたりから、
「不器用で純粋な男」 としての側面を素求してきたのですが、
ここで、
1つの行為が、
見る角度によって、
全く逆の印象を与えてた
ことに感心したのです。
光代との初対面の際、ぶっきらぼうに男女の関係を結んだ後に、光代にお金を渡した行為によって
「不気味なサイコ野郎」
としての印象を強めていたのですが、
その性悪女に強要されたことを光代にも行っただけ。ということがわかると、
突然に
「不器用で純粋な男」
としての側面が急浮上してきたのです。
「会いたいなら、金払え」 に対応した
一つの行為が、
「不気味なサイコ野郎」 を訴求する表現にもなり、
「不器用で純粋な男」 に早変わりもさせる。
そんな興味深い光景を目の当たりにして
大きな映画的興奮を味わったのです。
そんな幸福に浸っていた矢先に、 【 老練な演出手腕 】 とボクが称賛することになる 「広角ショット」 に遭遇するのです。
「殺人の告白」 の最中にお店の人が配膳に来るのですが、
後頭部と顔半分で構成された閉塞的な空間の直後に配置された
「広角ショット」の意義
に感心をしてしまったのです。
配膳が終わり、再び二人きりになった彼らを捉えたのが、お店の奥から静かに向き合って座っている二人を写した 「広角ショット」 だったのです。
息が詰まるような密度の、圧縮された時空間の後に、
客観的な広い視野
を持ってきたその対比とタイミングに、
また感心してしまったのです。
この 「広角ショット」 は、二人の背景に港町の日常的な町並みを配し、手前には誰も居ない座敷の広い空間が横たわっています。
この映像を見るだけで、
日常の世界から取り残された
「二人のだけの孤独」
を感じることができたのです。
それが、あの畳み掛けるような緊迫感の切り替えしの後に配置されたのですから、その効果は増幅していたのです。
まさしく、
緊迫した時間を創出した
【 フレッシュな演出手法 】 と
オーソドックスな広角表現を活用した
【 老練な演出手腕 】 が
コラージュした、珠玉の瞬間だったのです。
この 「広角ショット」 の素晴らしさについて考察していたら、同様に心に引っ掛かっていた2つの 「広角ショット」 のことを、まざまざと思い出したのです。
1つ目は、祐一と光代の再会のシーン。
祐一が初対面の際の非礼を詫びる為に、光代の勤務先に赴いた時のこと。
彼女の勤務先である巨大なロードサイド紳士服店で再会する二人を
「広角ショット」で捉えており、
膨大な数の紳士服の中に埋もれている彼らを見ていると、
陳列されている紳士服が
フェイクの人間に見えてきて、
そんな膨大な人波の中で
疎外感を抱えた男女が
巡り逢えた「寓話性」
を無意識に感じていたことに
気付いたのです。
そして記憶の中に留めていたもう1つの 「広角ショット」 は、この逃避行の始まりに仕掛けられていました。
場所は光代の部屋、そこにスポーツカーのエンジン音が近づいてくる 。
この段階で鑑賞者は、祐一がやって来たことを推測するのです。
さっとカーテンを開けると、光代の部屋の狭い世界観から、彼女の肩越しに、
駐車スペースという広い空間が2Fの 窓から見下ろせる。
すると、闇の向こうからヘッドライトを輝かせた車が来て、
ピタッと部屋の前で止まる。
その様子を見て、慌てて階下に急ぐ光代。
光代がいなくなったことで画面には、闇に浮かぶ自動車のみが残っている。
不穏感、孤独感、
そして、その負の存在感。
この一連の演出も心に残っていたものでしたが、ここで語りたいのは、その後の 「広角効果」 についてなのです。
ここに至るまでの映像が、祐一の車の中と光代の部屋の中という、両方ともに撮影距離 (カメラと被写体との距離) が近いショットが続いたものですから、
被写体との距離が離れたことによって、
心理的な広角効果
が発揮されていたのです。
暗闇の中に1台だけ、寂しげに佇む自動車を捉えた 「広角ショット」 が、警察にマークされて先行き不安な状態でいる祐一の
心情を、明確に表していたのです。
そして、今まで普通の生活を営んできた光代の人生も、この車に乗り込んだ瞬間に、
祐一と同じ不安に、苛まされる予感
を覚えさせていたのです。
この予感は、頼りなげでありながら、どこか不穏な思いにさせる祐一のクルマを捉えた 「広角ショット」 と、前述の、光代の部屋のカーテンを開けると、その平々凡々な生活に土足で乱入するかのようにクルマがやって来る印象的なショットとの併せ技だったのです。
ついでに言うと、荒々しいエンジン音で祐一がやって来た 「負の気配」 を、予め仕掛けておいた勝利だったと思います。
「広角の効果」 について気付かせた
【 殺人の告白 食堂の2階 】 。
そして先の、
【 二人の再会 紳士服店 】 と、
この
【 逃避行の始まり アパート前の駐車場 】 のように、
効果的な 「広角ショット」 を配置
してきたとろに、
大いに感心してしまったのです。
そして、このようにオーソドックスな技法を駆使した
【 老練な演出手腕 】 に 唸っていた次の瞬間、
若手らしい
【 フレッシュな演出手法 】 の 斬新なシーン変わりに
遭遇したのです。
続きの後半はこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-09-25


完成! 「悪人」 後半 [DVD 車内鑑賞レビュー]

前半はこちらから
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-09-25-1
それは、
【 殺人の告白 食堂の2階 】 の シーンから
次の、死に至らしめる場面への移行カットが、
食事に出されたイカの活き造りの目のクローズアップ画面だったのです。
活き造りのイカがまるで
命を奪われた遺体のように横たわっており、
その見開かれた目が無機質にこちらを見ている。
その黒目の部分に、殺人の映像がオーバーラップで重なっていくのです。
驚きました。
「広角の効果」 というオーソドックスな
【 老練な演出手腕 】 を見せ付けられた次の瞬間に、
若手らしい
【 フレッシュな演出手法 】 を駆使した
斬新な映像までもを
突きつけられた訳ですから、
ただ、圧倒されるしかなかったのです。
このように
緩急使い分けた演出によって、グイグイと引っ張ってきた李監督であったのですが、 この後、続いていく殺害シーンに、
その片鱗を見ることは
残念ながら、できなかったのです。
そのシーンは、20代女性保険外交員を自動車から蹴り出したチャライ大学生の行為に違和感を持った続きの時制にあたります。
二人を尾行し、一部始終を見守り、チャライ大学生に車から蹴落とされていた彼女を助けようとする祐一 に対して、
意固地な態度を取る女。
そんなヤリトリの中で、腕を持つ手に思わず力が入ってしまう祐一。
それに対しての彼女のセリフから、自分の気持ちが冷めていってしまったのです。
そのセリフが
「 人殺し! 」 。
この局面において発せられた言葉が
「人殺し」 ですって?
今作を鑑賞している者は、今までの展開から、この20代女性保険外交員が祐一 に殺害されたことを理解している。 だからと言って、何の工夫もなくただ単純に 「人殺し」 なんて言葉を言わせる局面を提示して、 恥ずかしくないのか?
と大いに疑問に思ってしまったのです。 そして次にこの女が言った言葉、
「警察に言ってやるけん。襲われたと。」
も、ストーリーを展開させる為の強引さが鼻につき、
たかが、祐一に強く腕を掴んだくらいで、
「襲われた、と虚偽の申し立てをしてやる。」 と発言をさせた
制作陣の手抜き
を感じてしまったのです。
好意を寄せていた チャライ大学生 にヒドイ仕打ちを受け、
(前述のように、この流れも不自然に感じています)
軽んじていた相手に、そんな無様な姿を晒してしまった訳ですから、 気が動転しながらも形勢逆転を図った稚拙な行いであった、ことは理解しているつもりです。
でも、「人殺し」 の言葉は不用意な選択として、
制作陣のセンスを疑う瞬間
だったのです。
【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】 の両面で 素晴らしい映像世界を見せてくれた今作ではありますが、場面は前回と同じ 夜の峠のシーンにおいて、賛同しかねる局面に遭遇してしまったのです。
そして、その後の展開も同意しかねることになります
苛立ちの矛先を祐一に決めた女は
「拉致られて、レイプされたと言ってやる。
(中略)
全部、あんたのせいやって言ってやる」
と、祐一から 逃げ出そうとしますが、後ろから
「嘘つくな、俺はなんもしとらんぞ!」
と、祐一は女のこんな妄言を止めるために、
女の口を押さえてもみ合いになっていったのです。
で、気付くと、女は死亡していた、という流れなのです。
この 「発言阻止、殺意なき殺害」 パターンは、1964年公開の内田吐夢監督による 「飢餓海峡」 しか納得することができなかったが為に、人一倍、警戒心が大きかったのかもしれませんが、 この展開を目の当たりにして
諦めの境地に
陥ってしまったのです。
「飢餓海峡」 で示されていた三国連太郎 演じる主人公の、過去に抹殺したい犯罪歴を持つ名士と、過去の彼に恩義を感じる 左幸子 演じる娼婦との不幸な 再会によって生じた
偶発的な殺人
と、どうしても比較してしまうのです。
過去を消し去りたい男の願望と、過去にすがり付きたい女の情愛がブツカリ合った末の、胸を締め付ける殺害シーンと比較してしまうと、 どうしょうもなく
薄っぺらいモノに
感じてしまったのです。
せめて、祐一が 「嘘をつくな」 という言葉を繰り返していたところから、
彼の心の中にある 「嘘をつく」 という脅迫観念を明確にしていたのなら、もう少し感情を動かすこともできたのでしょうが、
(この訴求は、時遅くにして訴求をされてはいました。)
この時点ではその膨らみもなく、ただ、
映画のストーリーをなぞっているだけ
と感じられたのです。
残念に思いました。
しかしながら、同意しかねる峠でのシーンの後、トーンダウンしていたボクの気持ちを再び惹きつける場面に遭遇したのです。
逃走を観念した祐一が自首をしようとするシーン。
降りしきる雨の中、光代を助手席に残したまま、警察署に一人歩いていく祐一。
振り返るとフロントガラス越しの光代が、雨で遮られて滲んでしまっている。
「これは二人の関係性が希薄になってしまうことへの表現」だ、と捉えていたら、
カメラはボクの意に反して車内で泣きじゃくる光代を鮮明に映し出してきたのです。
ちょっと意外に思っていたら、 光代は意を決したように運転席側に体ごと
寄せてきたのです。
その瞬間、 切り替わった祐一の後姿にかぶさったのが、
光代が鳴らした、けたたましい クラクションの音だったのです。
その音に振り返る祐一。
沈黙の中、しばしの距離を隔てて見つめあう二人。
これだけで充分でした。
今までの受身の人生に決別するかのように
祐一の自首を翻させ、
二人の関係をより深くしていく。
光代のこの能動的な行為に
心が動いてしまったのです。
それは、一言の言葉や説明が介在する余地がない、
豊かな映画的境地
だったのです。
そしてこのシークエンスに続くものが、二人の心身ともに深い結び付きを確認する場面となるのですが、
ここでの表現も、初対面の際の受身的なものとは180度違って、 光代の能動的な気持ちが溢れていたのも印象的でした。
精神的にも、肉体的にも深い繋がりを確認した二人は、灯台に逃れて来ます。
この灯台で二人きりの日々を過ごすうちに、祐一のある告白が始まりました。
それは、母親に捨てられた子供時代のこと。
「すぐ戻ってくるから、ここで待っていて」
と言う母親を信じて、灯台を眺めながら待ち続けたが、
結局、母親は戻らず、自分が遺棄された痛みを知ることになったとのことなのです。
ここで初めて、20代女性保険外交員が殺害された際に繰り返えしていた
「嘘をつくな」 の発言の真意が結びついたのです。
しかし、全ては遅きに過ぎたのです。すでに生じてしまった
違和感をリカバリーするほどの、
鮮烈さを持っていなかったのです。
残念に思いました。
この残念な気持ちを引きずりながら、今作は終わりを告げていってしまったのです。
折々に素晴らしい演出をみせてくれた李監督でしたが、終盤は失速していったのです。
しかし、不満点が生じると挽回してくれるのが今作です。
終了間際、ボクの興味を惹く場面を用意していてくれたのです。
警察の包囲網が近づいたことを察知して、 光代は、祐一の自首を妨げ、逃避行へのキッカケを作ってしまったことを詫びます。 そんな彼女に 祐一 は真顔になり
「俺は、あんたが思うとるような男じゃなか」
と突然、光代の首を絞め始めたのです。
首を絞められて苦しむ光代にキスをして、そして力一杯、締め付けてきたのです。
一瞬、ボクの頭の中は混乱をきたし、
そして、そのまま画面に釘付けになったのです。
祐一のキャラクター表現が途中でニュアンスを変えてきたことに興味を持っていましたが、この最終局面において、彼のキャラクターが元に戻っていったことに、驚き、そして、興奮してしまったのです。
冷静になって彼のキャラクター付けの変遷を辿っていくと、
開始当初は、祐一を
「不気味なサイコ野郎」 として表現しておきながら
光代と知り合って、初対面の非礼を詫びるあたりから、
「不器用な純粋な男」 に進路変更。
ずっとそのキャラクターのまま進行していきましたが、
終盤のこの逮捕劇に至って、
実は祐一は最初の印象通り、
相手が苦しむ姿に快感を得る倒錯S の
「不気味なサイコ野郎」 だったことが
わかったのです。
やられた
裏をかかれてしまった!
と、意外な展開に瞠目し、予測を裏切られた快感をボクは得たのです。
(これをボクは 映画的M と呼ばせていただきます)
それゆえ、20代女性保険外交員の殺害シーンはワザと下手に作ったのか。
と、李監督の
予想を上回る急成長ぶりに
感心したのです。
あの殺害シーンは祐一からの光代への告白というカタチであったことを思い出しました。
過失の中で殺めてしまったという 「嘘」 であったからこそ、
ぎこちないシーンに仕立てたんだなと、 大いに納得した瞬間だったのです。
そんなことを感じていたら、そんなボクの納得を翻弄するようなカットが、 すぐさま提示されてきたのです。
( 忙しい! )
警官隊の突入で、祐一が光代の首を絞める行為は阻止されるのですが、
光代が保護され、裕一が身柄を確保され、二人が引き離される瞬間の祐一の行為に、
ボクは目を見張ったのです。
彼は、引き離されていく
光代の手を握ろうとするのです!
このカットで、ボクの頭は またまた混乱 していったのです。
何故なら、先ほどの 「首絞め」 によって、 祐一は実は
「不気味なサイコ野郎」 だった。
という展開で納得がいきそうになった気持ちを、
すぐさま否定 してきたからなのです。
それは、引き離される際に
「首を絞める」 という 危害を加えるのではなく、
「手を握る」 という 慈しみ とも いたわり とも感じ取れる行為を
祐一が取ったことによって、
先ほどの「首絞め」 が
「嘘」 であることを
理解したからなのです。
そして、「不気味なサイコ野郎」 を演じることで、
光代の自分への気持ちを
断ち切ろうとしたことを
理解したからなのです。
しかし、愛おしいという気持ちは隠しきれずに、ダメージを与えてしまった
光代の「手を握る」
という行為に至ったものだ。
と、理解をしたのです。
またまた、 彼のキャラクター付けの変遷をまとめますと
当初は
「不気味なサイコ野郎」 の表現をされ、
殺人の告白から
「不器用な純粋な男」 への急転回の後、継続。
光代の気持ちを断ち切るために
「不気味なサイコ野郎」 を演じ、
でも想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に
「不器用な純粋な男」 を露呈してしまう。
このように、「不気味なサイコ野郎」 と 「不器用な純粋な男」 を
戦略的に行き来していったのです。 そしてこのことに大いに興味をかき立てられたのです。
興味深いシーンに出会うと、その後、同意しかねる場面に遭遇 してしまうのも、今作の特徴のようです。
光代の気持ちを断ち切るために
「不気味なサイコ野郎」 を演じ、
でも、想う気持ちを隠すことができずに、瞬時に
「不器用な純粋な男」 を露呈してしまう。
この変わり身の早い 「キャラクター変換」 については、当初は評価を与えていたのですが、 今作を鑑賞し終えて、冷静になった時に思ったことは、
あのラストシーン を用意していたのなら、
この キャラクター変換のネタバラシを
絶対に
温存するべきであった!
という強い思いだったのです。
あのラストシーン とは、
祐一の逮捕劇の数日後、 殺害現場にやって来た光代。
「 世間で言われよる通りなんですよね。あの人は 『悪人』 なんですよね。
人を殺したとですもんね。 」
と呟やいた後、彼女の意識は邂逅の奥底に沈んで行くのです。
そして彼女の心の中、奥深くに息づいている光景が
今作のラストシーンとなっていったのです。
場所は二人が過ごした灯台。
夕日が海に沈む光景に、心を揺さぶられた日の思い出が
去来してきたのです。
その一瞬の、「儚い美しさ」 に涙する二人。
今作は、この 夕日 に感情を揺さぶられて、ただ涙するしかない裕一のアップ画面によって終わりを告げていったのです。
このラストシークエンスを見て、
裕一は 「不気味なサイコ野郎」 なんかでははなく、
光代の自分への気持ちを断ち切るために、「嘘」 をついた
「不器用な純粋な男」 である
と、鑑賞者は理解していくのです。
ラストにこのような、祐一 の
「人間性復権を象徴するカット」
を配してくるのであれば、
「キャラクター変換のネタバラシ」 を温存して、
「光代の首絞め」 からこのラストカットに至るまでの時間を、
祐一 は 「不気味なサイコ野郎」
であると騙し通しておくべきだったと
主張したいのです。
そうすれば、ラストカットの祐一の涙が、より複雑に、そして、より強く、心に響きわたってくるはずなのに。 と
残念な気持ちになったのです。
そして、
祐一は 「悪人」 で、
「不気味なサイコ野郎」 だったのか?
それとも 「悪人」 ではなく、
「不器用な純粋な男」 だったのか?
という、精神的迷宮に
観客を誘うこともできたのに.........。
と、「配慮不足」 とも思える措置に返す返す、残念な気持ちを持ってしまったのです。
しかも、ラストシーンに、夕日に見入る二人の後姿の
「広角ショット」 を持ってきたのであれば、
なおさらのこと
だったのです。
その「広角ショット」は、
今作にある “映画のルール” 通り、
世間から解き放たれた 「二人だけの世界」
を写してきたのですが、
語ってきた感情は、それまでの
世間から隔絶された 「孤独」 なんかではなく、
二人の心を結ぶ強い 「繋がり」 だったのです。
ラストに、二人の心の 「純粋」 さと、「強固な繋がり」 を直感的に納得させるシーンを用意しておきながら、 それを活用しないなんて.........。
素晴らしい作品であっただけに
大いに 残念に思ってしまったのです。
今作は
【 老練な演出手腕 】 と 【 フレッシュな演出手法 】。
この2つの、相反するテイストが共存する
味わい深い逸品となっていました。
しかし、殺害に至るシーン等、個人的に残念に思った作品でもあったのです。
この感情はラストにおける
「配慮不足」 という象徴的な事象に
集結 されているようでした。
残念に感じる場面はありましたが、
李監督の大きな成長を 実感し、
彼のさらなる飛躍を 予感
させる作品となっていたのです。


ツィート 「ソーシャルネットワーク」 鑑賞中ツィート
通勤時間を利用してのポータブルDVDによる地下鉄内コマ切れ鑑賞を実行中!
そんな鑑賞途中のダイレクトな印象を
ツイッターで 「実況」 し始めました。
ここではタイムラインに分散していた つぶやき を1つにまとめて
「鑑賞中ツィート」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「つぶやき転載」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成レビュー」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を推敲して1つの有機的文章となる
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
まずは、全ての出発点、ツイッターでの 鑑賞中つぶやき をここに転載します。
「ソーシャルネットワーク」1回目。
フェイスブック創始者のマーク・ザッカーバーグの学生時代の物語から始まる。彼はハーバード大学の学生で、ガールフレンドに振られた腹立ちで、写真つきの女子学生対決型ランキングサイトを作ることになるのだが....。
「ソーシャルネットワーク」2回目。
アクセスの集中によってハーバード大学のシステムをダウンさせてしまう。しかも、女子学生の写真データを入手するために、各学生寮のサーバーにハッキングをして入手。この行為が大学当局に知れることになる。
「ソーシャルネットワーク」3回目。
女性たちからは当然のことながら敵視されることになるのだが、逆に彼の能力に注目する者たちが登場。ここで、今作のキーとなるであろう 「ファイナルクラブ」 というものの存在が姿を現すことになる。
「ソーシャルネットワーク」第4回目。
8個の「ファイナルクラブ」というものがハーバードに存在するらしく、ルーズベルト大統領も “ポーセリアン” というクラブのンバーであったという。そして、秀才揃いのハーバード大学の中でも選ばれし者しかメンバーになれないこともわかってくる。
「ソーシャルネットワーク」第5回目。
マークはメンバーには選ばれておらず、エリート意識が強いマークは当然のことながら、このメンバーになることを渇望している。マークのコンピュータ知識に興味を覚えたのがこの「ファイナルクラブ」メンバーのウィンクルボス兄弟という双子だったのだ。
「ソーシャルネットワーク」第6回目。
彼らはハーバード大学生に限定した「ハーバード・コネクション」 という自己紹介サイトの構築をマークに依頼することになる。 「ファイナルクラブ」への興味を顕わにしていたマークは勿論、快諾をすることになります。
「ソーシャルネットワーク」 第7回目。
気づくとここまで書いてきた文章は単純に映画のストーリーを追っかけただけの内容になっていたのです。ストーリー展開や映像表現に対するコメントが皆無なところに、今後、今作を鑑賞する上で、大きな不安を抱き始めたのです。
「ソーシャルネットワーク」 第8回目。
マークは典型的なオタクの風貌で、自己中心的に振る舞っている。残念ながらそんな主人公のキャラクターに(今のところ)興味を持てないでいるのです。演出も前作「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」のような神話的なシーンもなくオーソドックスに進めている。
「ソーシャルネットワーク」第9回目。
今作をこのまま鑑賞をし続けても、何も感じるところがなかったら、どうしようか?なんて危機感を感じてしまっているのです。何かボクの気持ちに引っかかるものを、それが、疑問や不満というマイナス要件でも良いので、現れてくれないかと思っているのです。
「ソーシャルネットワーク」第10回目。
「ファイナル・クラブ」からの「ハーバード・コネクション」の構築を引き受けたマーク・ザッカーバーグですが、次のカットは学生時代から4年が経過した訴訟の調停の場に時空が飛んでいきました。時制の多重化と人間関係が複雑に交錯する訴訟の場になったのです
「ソーシャルネットワーク」第11回目。
単純にエリート・オタク大学生の物語を見せ付けられて、不安を感じていたところに、大学時代とは違った時制、4年後の調停の場 が追加されたことで、ボクの胸の内は大いに安堵をし、映画が動き出したことを直感していったのです。よかった、よかった。
「ソーシャルネットワーク」第12回目。
新しい時制には 「ハーバードコネクション」 を依頼してきたウィンクルボス兄弟がおり、マークと係争中のようです。そしてこの新たな時制には、新たな人物、エドゥワルド が登場してきました。彼の登場によって、今作に興味深い「謎」が生じてきたのです。
「ソーシャルネットワーク」第13回目。
エドゥワルド は マークのハーバード大での友人で、マークは彼と「ハーバード・コネクション」の基本コンセプトを流用して、彼らのサイト 「ザ・フェイスブック」(「フェイスブック」の前身)を構築することになるのです。
「ソーシャルネットワーク」第14回目。
なんと、新登場したエドゥワルドが、この訴訟の原告であることがわかるのです。「ハーバードコネクション」のコンセプトを盗用されたウィンクルボス兄弟が訴えることは理解できても、漁夫の利を得たエドゥワルドが原告であることに興味を惹かれたのです。
「ソーシャルネットワーク」第15回目。
でも、この「謎」は鑑賞していくうちにエドゥワルドの行動の意味を知ることで、たやすく解決することに気づいていたのです。でもボクは思ったのです。物語の流れにスルーしてしまっていましたが、もっと大きな根源的な「謎」が存在していたことを。
「ソーシャルネットワーク」第16回目。
大きな「謎」。別に大層なものではありませんが、まだ解決されそうもない「謎」を思い出したのです。それは何故マークはウィンクルボス兄弟を裏切って、エドゥワルドと組んで「ザ・フェイスブック」を立ち上げたのか? という素朴な疑問だったのです。
「ソーシャルネットワーク」 第17回目。
これまでの経緯を考えると、コンプレックス がそうさせたのかな、と思い当たることがありました。今作の冒頭、ガールフレンドに振られるシーンにおいて、彼女の憧れの男性像としてボート部 が例に挙げられていたことを思いだしたのです。
「ソーシャルネットワーク」第18回目。
ウィンクルボス兄弟はボート部のスター選手なのです。そしてハンサム。ましてや「ファイナルクラブ」のメンバーなのです。オタクでパッとしない外観、そして「ファイナル・クラブ」に入れないマークが、ウィンクルボス兄弟に反感を持つことは理解できます。
「ソーシャルネットワーク」第19回目。
マークの行動様式が理解できた気になりました。今作の冒頭、ガールフレンドから振られるシーンにおいての「負の感情」が、サイト開発(この時は「写真つきの女子学生対決型ランキングサイト」)を推し進める原動力になっていたことを思い出したのです。
「ソーシャルネットワーク」第20回目。
「負の感情」がマークのサイト開発を推し進める原動力だと仮定すると、「ザ・フェイスブック」を開発させたマイナスパワーはこの、選ばれしハーバード大学生であるウィンクルボス兄弟の鼻をあかすことだったのではないかと思えたのです。
「ザ・フェイスブック」は初めは、ハーバード大学生に限定されたサイトでした。しかし、マークの判断によって、エール大学や、コロンビア大学などにも開放する方針となっていきました。そこには、マークの極私的な感情が隠されていたのです。
「ソーシャルネットワーク」第22回目。
ガールフレンドに振られた「負の感情」が「写真付き女子学生ランキングサイト」の、ウィンクルボス兄弟への「負の感情」が「ザ・フェイスブック」の原動力だと信じる者としては、「ザ・フェイスブック」の他大学への拡張も同じ理由だと思いたいのです。
「ソーシャルネットワーク」第23回目。
「ザ・フェイスブック」の他大学への拡張化はまさしく元カノとの再会の際に、彼女から大人の対応で拒絶されたという「負の感情」が起因になったようなのです。自分をあしらった元カノに自分の成果を見せ付けたい そんな衝動に駆られたのでしょう
「ソーシャルネットワーク」第24回目。
サイト構築の原動力が恋人に振らたことや、ウィンクルボス兄弟に対する劣等感のようなものや、元恋人との気まずい再会であったりと、彼の中 に湧いた「負の感情」であったことに、やっと今作においての鑑賞目的を見つけることができたのです。
「ソーシャルネットワーク」第25回目。
今後、サイトは爆発的な広がりを見せ、それと共に、マークは大きな名声と莫大な富を手に入れることになるのですが、その裏に「負の感情」が隠されて、「成功←→負の感情」の映画のルールが存在していくのかを注目していきたいと思ったのです。
「ソーシャルネットワーク」第26回目。
「ザ・フェイスブック」が西海岸のスタンフォード大学まで拡張された時に、新たな重要人物が登場してきました。10代で音楽無料配信会社を立ち上げたショーンという人物。マークと同年代であるのだが、すでにIT業界では時代の寵児として有名な人物らしい。
「ソーシャルネットワーク」第27回目。
ショーンとマーク。そしてエドゥアルドは会談を持つのですが、ここで興味深いことが起きていたのです。自己中心的な描かれ方をしていたマークの表現を新登場のショーンがそのまま引き継いでいったのです、マークは、ショーンの言葉をおとなしく拝聴しています。
「ソーシャルネットワーク」第28回目。
マークとショーンは「ザ・フェイスブック」に広告を持ち込まないことで意気投合。広告収入をあげたいエドゥアルドとは反する立場を取るのです。エドゥアルドがマークを訴えたのは、ショーンによって二人の違いが明確になったことが始まりのように思えました。
「ソーシャルネットワーク」第29回目。
マークとショーンの急接近を示す象徴的なものが、「ザ・フェイスブック」の「ザ」を削除して 「フェイスブック」に改名すべき。というショーンに、マークが従ったことに表れていました。サイトの名前が変わっただけではない、大きな変化を予感させていました。
「ソーシャルネットワーク」第30回目。
エドゥアルドが訴訟を起こした理由が分かってきました。途中で解雇をされたようなのです。エドゥアルドが「ファイナル・クラブ」に入会して、おちゃめな儀式をもとに彼は攻撃を受けることになるのです。マークの「負の感情」がなせる業だったのでしょうか?
「ソーシャルネットワーク」第31回目。
「ウィンクルボス兄弟を裏切った理由は、マークの劣等感だ」と思っている者としては、エドゥアルドから訴えられた理由、解雇の根源には、マークが入会することができなかった「ファイナル・クラブ」の呪縛があると思いたいのです。
「ソーシャルネットワーク」第32回。
IT界の寵児ショーンの存在が大きくなってきました。彼の勧めでマークはカリフォルニアに移り、エドゥアルドは反して東海岸に残ります。そのタイミングでのマークとショーンの再会ですから、彼は天才然と振舞うショーンに大きな影響を受けるのです。
「ソーシャルネットワーク」第33回目。
今回のウィンクルボス兄弟のシーンは象徴的なものでした。イギリスでのボート競技で彼らは惜敗をするのですが、その際に、ここイギリスでも「フェイスブック」の進出を知るのです。ボートの敗北と「フェイスブック」のイギリスへの拡大が提示されたのです。
「ソーシャルネットワーク」第34回目。
ウィンクルボス兄弟のボートにおける敗北と「フェイスブック」のイギリスへの拡大が同時に提示されたことによって、ウィンクリボス兄弟の根本的な問題、訴訟での敗北を予見したのです。今後この思いが実現するのか否かを見守っていきたいと思います。
「ソーシャルネットワーク」第35回目。
エドゥアルドがカリフォルニアのオフィスにやって来るのですが、その地でIT界の寵児ショーンがビジネス面を仕切ってることを知るのです。資金調達に成果をもたらしているショーンをマークも頼っている。エドゥアルドは当然なことに反発心を持つのです。
「ソーシャルネットワーク」第36回目。
しかしエドゥアルドは急速に影響力を削がれていくのです。ショーンが次々と大型スポンサーをゲットし、4億円もの資金調達に成功。「フェイスブック」の商品価値は急騰し、もはやエドゥアルドの能力を超えたところへ行ってしまったのです。
「ソーシャルネットワーク」第37回目。
「手に入れたものが大きくなり過ぎて、しかも、マークやショーンのレベルに追いつけず、自分だけが取り残されたエドゥアルドの焦りを理解することができました。そして、エドゥアルドは予想とおり、「フェイスブック」に新規参入した大人達の思惑で、彼の利権や地位が奪われていくのです。
「ソーシャルネットワーク」第38回目。
激高したエドゥアルドはとうとう本音を吐くのです。「フェニックスに入った嫉妬か?」 と。マークが入りたいと渇望しながらも入会が叶わなかった「ファイナル・クラブ」に自分が入会できたことへの嫌がらせか? とボクが以前感じていたことを聞いたのです。
「ソーシャルネットワーク」第39回目。
「フェイスブック」がその名に「ザ」を付けていた「ザ・フェイスブック」の時代には、そのような感情をボクも持っていたのですが、このような巨大な力を手にしたマークには「ファイナル・クラブメンバー」という称号はもはや何の意味も持たないのでしょう。
「ソーシャルネトオワーク」第40回目。
「ファイナル・クラブ」の誉れに身を寄せるエドゥアルドと、そのレベルを遥かに超えていったマーク。 エドゥアルドの 「フェニックスに入った嫉妬か?」 の発言がなされた瞬間に、二人の間に発生していた 「意識の違い」を痛感していたのです。
「ソーシャルネットワーク」第41回目。
ウィンクルボス兄弟の「ハーバード・コネクション」のように、ユーザーがハーバード大学の学生に限定された閉鎖的な空間においては、個人の「負の感情」というチッポケなものがサイト全体の方針に影響を及ぼすこともあるのでしょう。
「ソーシャルネットワーク」第42回目。
他の大学をも取り込み、西海岸まで到達した「ザ・フェイスブック」の広がりの頃から、そして、海を越えたイギリスをも巻き込む「フェイスブック」に拡大した巨大サイトにとって、個人の「負の感情」などというものは小っぽけな存在になっていたのでしょう。
「ソーシャルネットワーク」第43回目。
ハーバード大学生限定のサイトを作りたかったウィンクルボス兄弟やエドゥアルドも、「ファイナル・クラブ」という選ばれし栄誉に寄りかかっている点で、マークとは根本的に違っていたのです。選ばれなかったマークは排他的な呪縛から解き放たれていたのです。
「ソーシャルネットワーク」第44回目。
サイトの「拡散」が今日の成功の礎となったマークですが、「限定」よりも「拡散」を選んだキッカケは元恋人とのかっこ悪い再会という「負の感情」ではあったのです。動機は下衆だったかもしれませんが、「拡散」という方向性が彼の全てを変えたのです。
「ソーシャルネットワーク」第45回目。
「拡散」によってサイトも彼自身も、今までの殻を打ち破ることができたのでしょう。このように「限定」→「拡散」と展開してきた今作において、「限定」された「ファイナル・クラブ」員であるエドゥアルドは今作から排斥される運命だったのです。
「ソーシャルネットワーク」第46回目。
エドゥアルドが排斥されるシーンにおいての、ショーンの描き方が気になりました。登場当初は若きIT界の先輩として、マークへの影響力を発揮してきましたが、エドゥアルド排斥のシーンではマークの利権に絡みつき、排斥にやっきになる悪役になっていました。
「ソーシャルネットワーク」47回目。
ショーンの描き方が急変したなと思った途端、女性にだらしないという側面も訴求されてきたのです。しかもエドゥアルド排斥の場においてのショーンの横柄な態度についてマークからは「やりすぎだ」と批判されるありさまだったのです。
「ソーシャルネットワーク」第48回目。
ショーンに対する激変は表現上だけのことなのか、それとも、もっと大きなところに波及していくのかについて、見守りたいと思ったのです。 と思った次にやって来たのはショーン凋落のシーンだったのです。予見通りに進行してビックリしました。
「ソーシャルネットワーク」第49回目。
いかがわしいパーティに踏み込まれ、薬や未成年女性同伴によってショーンも凋落。今作から、そして「フェイスブック」の巨大なビジネスからも退場を余儀なくされるのです。まさしく「おごれる平氏は久しからずや」の言葉を思い出しました。
「ソーシャルネットワーク」第50回目。
今さらながら、ショーンが現在の 訴訟の場 にいないことに気づきました。ビジネスの場から退場させられても株の7%の保有で、金に不自由せず。また、自業自得でマークを訴える理由もなく、ショーンは現在の時制では不要な、過去の存在となっていたのです。
「ソーシャルネットワーク」第51回目。
ショーンの退場を見届けて今作は終結していきました。ラストシーン、一人オフィスに残ったマークがPC画面を見つめている映像に、秘密保持の契約を盛り込んで訴訟額より大きな金額を和解金として支払うことで決着した旨の字幕が挿入されるのです。
「ソーシャルネットワーク」第52回目。
結局、彼は過去の自分を抹殺する為に、秘密保持契約というオプションを付けて訴訟額より多い和解金を払ったのです。ウィンクルボス兄弟には実に50億円もの金額を支払ったのです。(エドゥアルドは金額非公開)
「ソーシャルネットワーク」第53回目。
弁護士曰く「今のあなたには、そんなに大金ではない。」と、裁判で戦うより、過去の自分を100億円を払って消す方が、今の彼の立場では有利。との弁護士団の判断だったのです。100億円払っておいた方が有利とは、すごい社会的立場だなと思いました
「ソーシャルネットワーク」第54回目。
ラストシーン。マークが見ていたPC画面が印象的でした。それはある人の「フェイスブック」のページ。元のガールフレンドのエリカのページだったのです。彼女にメッセージ送ろうか逡巡して止めるマークの一人ぼっちの姿を今作はラストシーンに選んだのです。
「ソーシャルネットワーク」第55回目。
マークの胸の内は切なさで満たされていったことでしょう。エリカに未練があるという、浮ついた思いではなく、(もしかしたらそんな思いもあったかもしれませんが)「市民ケーン」の“バラのつぼみ”に相当する思いなのだろうと感じたのです。
“莫大な遺産”を相続する前の、ささやかで穏やかな幸せを象徴するのが“バラのつぼみ” でありましたが、元のガールフレンドであるエリカが、マークにとっての“バラのつぼみ”に相当するのだろうなと感じたのです。
「ソーシャルネットワーク」第57回目。
エリカは、“莫大な遺産”である“ザ・フェイスブック”を得る前の、普通のハーバード大生だったころのマークを知る人物で、普通の男が味あう失恋の痛手を与え、大富豪になる前の普通の男の子にとっての等身大の思い出を持たせた女性なのです。
「ソーシャルネットワーク」第58回目。
エリカにフラれた腹立ちで、マークは「写真付き女子学生対戦」サイトを開発。その完成度と反響の大きさによって「ザ・フェイスブック」を開発することなったことを考えると、エリカは今日のマークを作り上げた女性と言っても良いのかもしれません。
「ソーシャルネットワーク」第59回目。
エリカとの「かっこ悪い再会」によって「ザ・フェイスブック」は「拡散」の方向に走り出したわけで、その結果、「ファイナル・クラブ」や「ハーバードコネクション」の閉鎖的な世界から決別し、別次元の成功を果たしたことを考えると、
「ソーシャルネットワーク」第60回目。
エリカはささやかで穏やかだった日々を象徴する「バラのつぼみ」であり、同時に「莫大な財産」をもたらした女性でもあったのです。今作はそんなエリカにメッセージを送ろうとし、逡巡して止めるマークの姿をラストカットに選んだのです。
「ソーシャルネットワーク」第61回目 。
莫大な富と名声を手にしたマークですが、 その過程において 自らの極端な性格と、利権に群がる者たちの都合で、 大切な人間関係を手放してきました。 その穏やかではなかった過 去を清算するために、 100億円もの金額で自分の過去に封印したのです
「ソーシャルネットワーク」第62回目。
「孤高の存在」になってしまったが故に、 等身大の青春に封印せざるを得なかったマークの「孤独」は、「 バラのつぼみ 」であるエリカにメッセージを送ろうかと逡巡して、結局は 取りやめる彼の姿に見事に表れていると感じたのです。
「ソーシャルネットワーク」第63回目。
「孤高の孤独」とでも言うのでしょう か。 あらゆる望みを叶えながらも、心を許せる者が一人もいない孤独に加えて、自分 の等身大の過 去を100億円で抹殺しなければならないほどの地位に独り登りつめてしまった「孤高の孤独」 を感じたのです。
「ソーシャルネットワーク」第64回目。
今作の序盤はストーリーのみを追いかけさせられて、正直に言って興味が持てるものではありませんでした。しかし、「 負の感情」による推進力を見出してから は徐々に引き込まれ、 そして「限定」と「拡散」の対比のおもしろさを味わったのです。
「ソーシャルネットワーク」第65回目。
しかし、今作の落としどころである「孤高の孤独」 については、肝心の彼の孤独感よりも、常識の範疇をこえた100億円という金額に驚き、「滑稽さ」 を感じてしまったのです。常識との乖離が彼の尋常ではない立場を理解することはできるのですが....。
「ソーシャルネットワーク」第66回目。
結びとして、制作者の意図によって感情を投影しにくい特異なキャラクター付けを主人公に施した為に、素直な感情の発露は望むべくもなく、構造的なストーリー展開のみを楽しむ観賞となったのです。感情を直接的に揺さぶる何かが欲しかったと思ったのでした。
完成! 「ディア・ドクター」 前半 [DVD 車内鑑賞レビュー]

失踪した 医者・鶴瓶を巡って、
【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして
【 間接的人物像 】 を。
【 少し前の時制 】 では、医療に従事する姿を直接目撃することで
【 主観的人物像 】 を。
それぞれ、2つの時制 によって提示される、この 2つの人物像 を
足掛かりにして、今作に発生していく
【 失踪の謎 】 と 【 診断の謎 】 。
この 2つの 「謎」 を 推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。
また、
「問題提起」 は、する。
↓
でも、「暗い」 まま終わらせない。
↓
しかし、「問題解決」 は、しない。
というユルイ立ち居地が、何故かしら心地良く感じた。
そんな不思議な映画でした。
無医村に赴任していた医者が姿を消し、彼に医療を支えられていた村人達や、行方を捜索する刑事、そして、共にこの村の医療に携わっていた看護士と研修医が彼を探すところから物語は始まります。
姿を消すことになる医者を 笑福亭鶴瓶 が
“人間味溢れる” 部分を基調にして、
姿を消すことになる
“謎” の部分を醸し出しながら
演じていきます。
ベテランの看護士は余貴美子。 アカデミー外国語映画賞を受賞した 「おくりびと」 で演じた役柄を思い出しました。
「おくりびと」 では、主人公の モックン と、葬儀社の社長 山崎務 の2世代間を繋いでいく役どころでしたが、今作においても、 鶴瓶 演じる姿を消す医者と、都会的な匂いを発散させながら登場する若き研修医との、
2世代間の隙間を埋めていく役どころ
になるのか注意していきたいと思ったのです。
で、研修医は赤いスポーツカーに乗って 瑛太 がやって来たのです。
この医療スタッフに、村人達。そして、行方を捜索する刑事達を織り交ぜながらストーリーは展開していきます。 映画が進んでいく中で鑑賞者は、
【 現在の時制 】 において、 失踪した 医者・鶴瓶 に対する、
第3者からの証言を元に、医者・鶴瓶 という人間の
【 間接的人物像 】 を形作り、
【 少し前の時制 】 では、 看護士、研修医と共に農村医療に
従事していく姿を直接目撃しながら、医者・鶴瓶 の
【 主観的人物像 】 を創出していくのです。
そして、
【 2つの時制 】 の行き来で生成した、この 【 2つの人物像 】 を手掛かりにして、今作に発生していく 【 2つの謎 】 を追いかけることになるのです。
まずは、第1の謎 ”なぜ 医者・鶴瓶 は失踪してしまったのか?”
という 【 失踪の謎 】 に取り掛かる訳ですが、
【 少し前の時制 】 において、興味深いシークエンスがあったので、言及してみたいと思います。
老人の臨終の席において、延命機器を装着しようと提案する 医者・鶴瓶 に対して、
その措置を家人が辞退。
その後、明らかに、その老人の介護を押し付けられていたと思われる、地味で薄幸そうなお嫁さんの
怯えたような複雑な表情
を今作は捉えたきたのです。
これは、
「長寿」 という美辞のウラに存在する
「老人介護」 という問題 が
姿を見せた瞬間だったのです。
しかし、この場面で
「問題提起」 は、する。
↓
でも、「暗い」 まま終わらせない。
↓
しかし、「問題解決」 は、しない
という、今作を貫いている ユルイ立ち居地 を
発見したのです。
「老人介護」 という問題が提起された次の瞬間、臨終したと思われた老人の口から、喉に詰まったモノが出てきたことによって彼は蘇生をするのです。
コメディーのような展開に亞然としていたら、偶然による、しかし、神がかり的なこの成果に興奮した村人たちが 医者・鶴瓶 を讃えながらお祭り騒ぎをするという、これまたドタバタ喜劇のような展開を見せていったのです。
「老人介護」 という 「問題提起」 はする。
↓
でも、コメディー的な “蘇生” と、その後の “お祭り騒ぎ”
によって、このシーンを 「暗い」 いままには終わらせない。
↓
しかし、「老人介護」 という 「問題解決」 は、しない 。
このような、ユルイ立ち位置で、 「陰」 に曇りがちそうな流れを、半ば強引に 「陽」 に転換してきたのです。
この様子を興味深く見ていたら、この ユルイ立ち位置 が実は、開始早々から提示されていたことに気付いたのです。
「医師 失踪」 という 「問題提起」 があった。
↓
でも、医者・鶴瓶 の飄々としたキャラクターが語られたことで、
緩やかな気分を創出。
そのシーンを 「暗い」 ままには終わらせない。
↓
しかし、 気分は 「陽」 に転換しながらも、
「医師 失踪」という 「問題解決」 は、していない。
前述の 「老人介護問題」 の後の "お祭り騒ぎ” は、実に、こんな風合いのもと展開されていたのです。 その一方でストーリーは、鑑賞者に対して 医者・鶴瓶の
【 間接的人物像 】 を 【 現在の時制 】 において形作り、
【 主観的人物像 】 を 【 少し前の時制 】 で描かせていきます。
医者・鶴瓶 という人間を、このように多重的に表現してきたからには、
良好に築き上げてきた、彼の人間像が
一気に覆えされる 予感
を逆説的に持たざるを得なくなったのです。
と感じていたら、中盤以降、徐々にその 予見 が実現されることになるのです。
病院を転々としてきた事実。
父親の職業を偽っていた事実。
今は小さな事実が露呈されたに過ぎませんが、
【 間接的人物像 】 と 【 主観的人物像 】 という。
2つの側面 から語られてきた 医者・鶴瓶 の人物像が、
事実から
大きく乖離していく事 を
鈍く、確実に、実感 させてきたのです。
今作は、このような前フリを経て、いよいよ 医者・鶴瓶像 が崩壊する瞬間を迎えてたのです。
その表現が大変、素晴らしい。
今まで慣れ親しんできた、山村の風景から一転して、いきなり都会の高級マンションの外観が写し出されてきたのです。
カメラはゆっくりとズームインしていきます。
一部屋だけバルコニーに人がいて、そこにターゲットを定めているようです。
そして、その映像に電話の会話音がかぶさっていきます。
医者・鶴瓶 の行方を捜している刑事の声です。
どうやらこの部屋に 医者・鶴瓶 の母親が暮らしており、バルコニーで布団を取り込んでいるのが母親本人であることがわかります。
ズームインしていくうちに奥に、父親もいることもわかってきます。
電話の刑事は 失踪の件を伝え、情報を得ようとしますが、会話が母親とかみ合っていきません。
そのすれ違いは 鶴瓶 が医者であることの認識に集結してくるのです。
鶴瓶 が医者として働いていたことに驚きを隠せなく、思わず電話を切ってしまう母親。
その行為に、
全ての納得がいったのです。
そして、驚くことに、このシークエンスは、ゆっくりとズームインし続ける
1カット だけで構成されていたのです。
何と芳醇な 1カット であったことでしょう。
ボクは、映像と音声が絶妙に絡み合うこの1カットを高く評価したのです。
【 現在の時制 】 においてニセであることが判明した途端、
医者・鶴瓶 いや、
ニセ医者・鶴瓶
の奇行が映し出されていきました。
失踪前の 【 少し前の時制 】 において、村の美老女である八千草薫の胃癌を隠し通し、他人の胃潰瘍の胃カメラ写真までわざわざ撮影して、
彼女は胃癌ではなく、胃潰瘍であると、
主張し始めるのです。
【 ニセ医者・鶴瓶 の失踪 】 という 「謎」 に刑事達の捜索によって、手掛かりが見つかった (患者の家族とのトラブル という言葉や、医者・鶴瓶 がニセ医者であったことが判明) してきたところに、
【 診療の謎 】 という
新たな 「謎」 が生まれてきたのです。
この新たな 「謎」 が発生してきたことに呼応して、登場人物の心の中においては、
新たな感情が
芽生えていたことが披露されました。
華やかな登場シーンとは裏腹に、それ以降、存在感が薄くなっていた 若き研修医 瑛太 が、研修期間が終了しても、この診療所に残りたいと、(ニセ)医者・鶴瓶 に訴えてきたのです。
このような展開になるのは、
なんとなく感じてはいました。
登場当初は都会的な雰囲気を強調していたものだから、医者・鶴瓶 との
ちょっとした 対立 や 葛藤 があるのかな?
それを、ベテラン看護士が埋めていく構造になるのかな?
と期待していたのです。
しかし、そんな局面を待っているうちに、研修医・瑛太 が子供の往診に行った際の行為を目撃したことによって
その考えを放棄していたのです。
それは診察後、その子供が寝付けるように絵本を読んで聞かせる彼の姿 だったのです。
結局は、医者・鶴瓶 との対立や葛藤も、勿論、ベテラン看護士の見せ場も無く、若き研修医・瑛太 は飼い慣らされたごとく、この田舎に同化したいと言い出したのです。
余りにも素直すぎるストーリーに、
拍子抜けしてしまいました。
(でもこの布石は、後ほど興味深い展開をもたらすのです。)
そんな空振りを放った今作ではありますが、いよいよ 【 少し前の時制 】 において、ニセ医者・鶴瓶 が失踪する瞬間に至ったのです。
八千草薫の娘が、(本当の)女医という設定になっており、帰郷してきたその女医が母親の病状を確認するために、診療所を尋ねてきた来たのです。
そんな場面において、 ニセ医者・鶴瓶 は嘘を貫き通し、逆に女医の納得まで勝ち取ってしまうのです。
しかし、 女医の次なる帰郷が 1年後になると聞いて、
「1年後って、あなた.......。」 と絶句をするのです。
呆然としながら 「すぐ戻ります」 と言い残して バイクに飛び乗って
そのまま失踪 してしまったのです。
恐らく、
”このままの処置だと 1年後には女医の母親である八千草薫は死んでしまう。
そして、その事実に娘であるこの女医は関わることがない”
そんな将来的事実に対して、ニセ医者・鶴瓶 の中に
何らかの感情 が生じたのでしょう。
必死になって、バイクで村から逃げていく ニセ医者。
途中で八千草薫に白衣を脱ぎ捨てる姿を見せ、
医薬品会社の人間に彼女の本当の資料を渡して、そして逃げていったのです。
この 【 失踪の謎 】 が発生したシークエンスにおいて、今作は特徴的な演出を提示し、ボクの 映画的興味を刺激してきたのです。
それは
ニセ医者・鶴瓶 の失踪していく姿を
「ロングショット」 と 「後姿」
でしか捉えない演出だったのです。
このような表現を用いることで監督は ニセ医者・鶴瓶 の
表情を追うことを
意識的に避けてきたのです。
これによって今作は、ニセ医者・鶴瓶 は どのような気持ちでこの村を後にしたのか、
何故、胃癌を隠していたのか を 「謎」 のままに引き伸ばすことができたのです。 言わば
「謎」 の持続に
成功することができたのです。
その結果、
胃癌を隠し通した 「謎」 と
失踪の真意 という 「謎」 を
エサにして
鑑賞者の気持ちを、終盤まで引っ張っていくことができるのです。
上手いな。 と感心したのでした。
医者・鶴瓶 が ニセ医者 であることが判明した後の村人の反応は、一様に 批判的なもので、 ここにきて、医者・鶴瓶 失踪後の 村人たちによる評価という
【 間接的人物像 】 に、
激変が生じたのです。
一方の 失踪前の彼の医療の関わる姿を見てきたボクの
【 主観的人物像 】 に対しては、
彼がニセでろうと基本的には変わることも無いのですが、
唯の1点、
何故、胃癌を隠し通そうとしたか の
【 診療の謎 】 だけが、 纏わり付いているのです。
続きはこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-06-11


完成! 「ディア・ドクター」 後半 [DVD 車内鑑賞レビュー]

前半からの続き
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-06-11-1
やがて、ニセ・医者 であることが判明した後の登場人物の発言で ボクの映画的興味を強く惹いてきた場面がやってくるのです。 刑事と 研修医・瑛太 との会話。
研修医・瑛太 は、医者・鶴瓶 に対して
「違和感を持っていた」
と言い出すのです。
この言葉を聞いた瞬間に、ボクの頭の中にこそ、
大きな 「違和感」 が
生じていったのです。
何故なら、過疎地の診療所に勤務している 医者・鶴瓶 と 都会からの 研修医・瑛太 との何らかの対位律は、今作の開始当初から、ボクが望みながらも、活用されなかった要素だったからなのです。
研修医・瑛太 は、医者・鶴瓶 の医療活動に従順にも同化し、ついには、研修後もこの診療所に残りたいとまで訴えるようになったではないですか。
この診療所に残ると言い出したのは 医者・鶴瓶 の医師としての姿勢に感銘を受けたからだと思うのですが、 医者・鶴瓶 が ニセ医者 であったことが判明した途端に、
医者・鶴瓶 に 「違和感 を感じ」、
「目を光らせていた」
とまで言っているのです。
おもしろいな と思いました。
【マンションの1室、母親への1カットズーム・アップ 】 や
【失踪する ニセ医者・鶴瓶 の表情を排除したシークエンス】 と
ビジュアル表現で興味深い場面を提示してきた今作でありました。
しかしながら、登場人物の言動の中で、興味を惹かれる場面に遭遇しなかったものですから、
今作は吉田美和監督作品なのに........。 と、
別の 「違和感」 を
感じていたところなのです。
( と言っても、彼女の作品は 「ゆれる」 しか観ていないのですけれどね )
「ゆれる」 では表面上の人間関係と そのウラハラに心の奥底にある 「闇」 を常に感じていたので、
研修医・瑛太 のこの言動の不整合の局面を見て、
やっと来たか! と
喜んでしまったのです。
そのぐらい、研修医・瑛太 のこの発言は、ボクにとっては、映画的興味を刺激するものだったのです。
何故なら、医者・鶴瓶 と同化して、診療所に残りたいとまで訴えた 研修医・瑛太 が、 医者・鶴瓶に対して 「違和感」 を持っていたなどとは、とうてい思えなかったからなのです。
ましてや 医者・鶴瓶 は、 「医者の資格が無い」 とまで告白をするのですが、
「違和感」 など微塵にも持たない 研修医・瑛太 は
「医者の資格が無い」 の意味を
「医者としての資格が無い」 の意味に履き違えて、
自分の父親こそ、病院経営にしか興味を持たない
「医者としての資格が無い医者」 として、
その対極にいる医者・鶴瓶 の姿勢を
讃えてさえいたのではないでしょうか?
本心を悟られないための小芝居
一言で言うと、そんなところなのでしょう。
研修医 と言えども、医大に受かって、医師免許を取得した訳なのですから、そんなプライドが言わせた言葉だったのでしょう。
心酔してしまった医者が、医大にも通わず、医師免許を持たない ニセ医者 であったわけですから、
ましてや、「医者の資格がない」 「ニセモン」 だと告白されても、その真意に近づけもしなかった訳ですから、プライドを守るための防衛本能が働いたとしても、おかしくはないのでしょう。
研修医・瑛太 に対するこの推測には確信を持っていましたが、次にインサートされたシークエンスが、ボクのこの考えを強固にしてくれることになったのです。
それは、夜の田んぼを掻き分けるようにして (ニセ)医者・鶴瓶 を探す、研修医・瑛太 の姿だったのです。 必死になって探している様子を見ると、 失踪当初の、まだ、鶴瓶がニセ医者であることが
バレる前の時制のシーン
であることが予測されます。
研修医・瑛太 による 「違和感」 を感じ、 「目を光らせていた」 と言った
小芝居の直後に、
ストーリー的に脈絡もなく、
時制的にも何の繋がりもない
このカットが配置されたことによって、
「違和感」 発言に対応した 研修医・瑛太 の
心象を表すシーンに違いない。
と、ボクには受け止められたのです。
刑事には、ニセ医者・鶴瓶 を慕っていたという 本心を悟られないように、 「違和感」 や 「目を光らせていた」 という言葉を吐いてはみたものの、
良心の呵責に耐えかね、
贖罪の気持ちを持ったからこそ、
今は姿が見えない (ニセ)医者・鶴瓶 を探すという行為がここに挿入されてきた。
と感じたのです。
その行為は、人を探すというよりは、物体を探すような仕草だったことも 興味深く感じたのです。 まるで 遺体 を捜すように思えたのです。
鶴瓶 が脱ぎ捨ててしまった
「医者・鶴瓶 のヌケ殻」 を
探しているように思えたのです。
「違和感」 発言の直後に時制的に昔となる この 「探す」 シークエンスがわざわざ配置されたことで、研修医・瑛太 は 医者・鶴瓶 に
「違和感」 など感じていなかった。
と確信したのです。
今作はこのように人の言動においても興味深いシークエンスを訴求してきました。しかし、その後に続く、ニセ医者・鶴瓶 が 実家に電話を掛けるシーンは興ざめ以外の何物でもありませんでした。
【失踪する ニセ医者・鶴瓶 の表情を排除したシークエンス】
という素晴らしい表現を示しておきながら、ここにきて彼の顔を映す
必要性を感じなかったのです。
( しかも、あのラスト・カットを用意しているのなら、
全くの蛇足に過ぎないのではないか? )
そして、秀逸だった 【マンションの1室、母親への1カットズーム・アップ 】
において既に、母親や父親の存在を鮮烈に訴求していたのに、再登場させたメリットが
理解できずにいたのです。
そして、名門医科大学を卒業した 父親への コンプレックスを今さら言及されても、それまでの表現の中で充分に感じ取れていたのに......。
そして、父親の痴呆症状も、【マンションの1室、母親への1カットズーム・アップ 】 において、ダイニングの奥で、母親と刑事の会話をよそに、ポカーンと座っている姿を見ることで、十分に推察することができたと言うのに。
全くをもって 蛇足 。
としか思えなかったのです。
【 「違和感」 発言 のちょっとした波乱 】 とその後の
【 時制をこえた 「探す」 心象カット 】 の秀逸さに比べて、
【 公衆電話の蛇足 】 は
記憶から消してしまいたいほど不要。
そう断言をさせて頂きます。
そしていよいよ今作は、2番目の 「謎」 である 【 診療の謎 】 についての解答がなされていったのです。
何故、ニセ医者・鶴瓶は 八千草薫 の病状を 胃潰瘍であると 嘘をつき通したのか?
この謎は、八千草薫の娘である女医のこのセリフによって明らかにされていくのです。 失踪騒ぎが一段落して八千草薫は、今や娘の勤務する大病院に転院しているのです。その母親のことを思いながらつぶやく言葉。
「あの先生なら、どんな風に母を死なせたのかな?.......。」
そうか.........、胃癌 は発見された時にはもはや、
手遅れ の状態だったのか........。
その瞬間に、ニセ医者・鶴瓶 に対するボクの 気持ちが完全に元に戻って行ったのです。 死んでいく 八千草薫 に
精神的苦痛を与えないように、
胃潰瘍である 「嘘」 をついていたのだ。
と 、理解したのです。
そして、彼の 【 失踪の謎 】 もこのつぶやきによって解明されたのです、
ニセ医者 であることがバレたから失踪したのではなく、
八千草薫の最期を
娘である女医に看取ってもらいたい。
と、願ったからこそ、
胃癌の事実がわかるようにして身を隠したのだ。
という思いに至ったのです。
この局面こにきて、今作に生じていたの2つの謎 、
【 失踪の謎 】 と 【 診療の謎 】 が、堰を切ったように、一気に納得していったのです。
ニセ医者 であることが判明した時点で、彼に対する、第3者からの 【 間接的評価 】 は地に落ちた訳ですが、ボクの彼に対する 【 主観的評価 】 は、 【 診療の謎 】 に翻弄されながらも、この2つの謎を知りえた者の正当な反応として、変わることはなかったのです。
このように、今作における大きな鑑賞目的であった 【 2つの謎 】 が解き明かされていきました。この後は、残りの時間を使って、どのよう内容を語りながら、どのようにして終結していくのかが、終盤にかけての鑑賞目的になっていきました。
そんな鑑賞目的に呼応するように、
胸を鷲づかみにされながら、
記憶を呼び覚まされたシーンが提示されていきました。
それは、診療所が閉鎖された後のシークエンス、
ベテラン看護士・余貴美子 の息子が 喘息の発作に苦しんでいる場面において、
医療行為が許されない母なる看護士は、ただ、息子の背中をさするながら
「よくなーれ」 「よくなーれ」 とおまじないを念じるシーンが提示されてきたのです。
これは、ニセ でも 医療行為をしてくれる者の存在が、この無医村には
いかに有難がたかったのか
を再確認した瞬間だったのです。
そして同時に、中盤に挿入されていたエピソードを思い出したのです。
村の青年が事故で診療所に担ぎ込まれた際、
処置に戸惑っている (ニセ)医者・鶴瓶 に対して、この ベテラン看護士 は救急救命室にいたその経験から、処置法を (ニセ)医者・鶴瓶 に詳細に教示をするのですが、 そのシーンにおいて、
看護士は医療処置をすることができない
そんなジレンマを伝えていたのです。
いくら豊富な医療知識があったとしても、医療処置が許されない看護士である母にとって、 たとえ
ニセ であっても医療処置をしてくれる者の存在は
大きな救い
であったのです。
医療処置が許されない母に出来ることは、息子の回復を願いながら、背中をさすり 、効き目がおぼつかない 「よくなーれ」 という呪文を唱えるしかなかったのです。
非常に、胸に刺さる 1シークエンスだったのです。
【 2つの謎 】 を解明した今作は、作品全体の問題意識の再訴求に充実の時間を当ててきたのです。
と感心していたら、理解不能な 駅でのシークエンスに繋がっていったのです。
この局面に際して 【 公衆電話の蛇足 】 と同じことを言いますが、
【失踪する ニセ医者・鶴瓶 の表情を排除したシークエンス】 からは、
ラストのあのタイミングになるまで、
ニセ医者・鶴瓶 の存在を匂わす表現は、
一切、必要ない
と強く主張いたします。
そんな蛇足なシークエンスを経て、今作は、
今作の真骨頂の境地で終えていくのです。
娘が勤めている病院において、八千草薫 が気だるくベッドに寝ているところに、
お茶をサーブする病院係員がやって来ます。
お茶を受け取る彼女がその係員の顔を何となしに見た表情が、驚きの表情に変わりました。
「 ......?..... 、 ! 」 と。
「 ..何?..... 、 そうか! 」 と、 気付いた瞬間。
その係員は ニセ医者・鶴瓶 であったのです。
給仕服に身を包んだ 元ニセ医者・鶴瓶 が目の前にいたのです
最初は愕きの表情の 八千草薫。 そこには警戒の色も伺えます。
でも次の瞬間
今作の真髄とも言うべき瞬間が
やって来るのです。
元・ニセ医者、 現・病院係員の 鶴瓶 は 八千草薫 が自分のことを認識した瞬間に、どうしてもこらえきれずに
人なつこい笑顔になったのです。
その笑顔につられて、八千草薫 も
カワイらしい笑顔を見せたのです。
ホッコリ としたこの絶妙のタイミングを図って、
プツッ と
今作は終わっていったのです..........。
実に、今作らしい終わり方だな。
そう思いました。
今作の序盤、 医者・鶴瓶 の失踪という、ちょっと重い始まり方をしながらも、医者・鶴瓶 の飄々とした性格に救われもしたのです。 しかしホッとしても 「失踪」 という問題が消えたわけではありませんでした。
また、老人のご臨終の席において 老人介護の重い現実を見た思いになったら、いきなりの蘇生で、しばしの笑顔になっても、 「老人介護」 という問題が消えたわけではなかったのです。
八千草薫 が末期の胃癌というシリアスな局面において、鶴瓶 の登場に、思わずホッコリとしながら今作は終わる
のですが、よく考えてみると、胃癌が無くなったわけではないのです。
いずれも独特の世界観で、 「陰」 から 「陽」 への転換がなされていったのです。
「問題提起」 は、する。
↓
でも、「暗い」 まま終わらせない。
↓
しかし、「問題解決」 は、しない。
このユルイ立ち居地が 何故か心地よく、
今作のこの終結方法も、納得のいくものになっていたのです
しかし【 現病院係員・鶴瓶 の笑顔につられて微笑む 八千草薫 】
で今作が終結していくのなら、
何度も主張するように、
【失踪する ニセ医者・鶴瓶 の表情を排除したシークエンス】 以降は
姿は勿論、存在を匂わす表現までもを、
自粛するべきだった
と思うのです。
第3者による評価という 【客観的事実】 を頼りに、ニセ医者・鶴瓶 の本性を模索し続け、
あのラストの一瞬にだけ ニセ医者・鶴瓶 は実体を表し、そのひと時の存在感だけで、
元・ニセ医者、
現・病院係員 鶴瓶 の 【主観像】 を
鑑賞者が創出できた刹那に終わっていく.......。
そんな終わり方にして欲しかったのです。
きっと 鶴瓶 は 医者としては無理だったけど、病院係員という身近で等身大の立場で、八千草薫 を
看取ったのでしょうね。
そう思うと 静かに心が熱くなっていったのです。
失踪した 医者・鶴瓶を巡って、
【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして
【 間接的人物像 】 を。
【 少し前の時制 】 では、医療に従事する姿を直接目撃することで
【 主観的人物像 】 を。
それぞれ、2つの時制 によって提示される、この 2つの人物像 を
足掛かりにして、今作に発生していく
【 失踪の謎 】 と 【 診断の謎 】 。
この 2つの 「謎」 を 推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。
また、
「問題提起」 は、する。
↓
でも、「暗い」 まま終わらせない。
↓
しかし、「問題解決」 は、しない。
というユルイ立ち居地が、何故かしら心地良く感じた。
そんな不思議な映画でした。


メモ 「悪人」 [DVD 車内鑑賞メモ]

通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてモバイルPCを使っての車内執筆を実行中。
地下鉄内での通勤時間を活用してのコマ切れ鑑賞となっているため、
鑑賞中の折々なストレートな印象を、同時進行的に3回に分けて、
「鑑賞中メモ」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中メモ」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成 感想文」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を1つのものに推敲して
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
3回に分けてアップしていた 「鑑賞中メモ」 を1つにまとめたものです。
第1回目 (4月18日 アップ分)
今作のオープニングは陰鬱で結構退廃的な雰囲気です。
通常ならばこのような作品は先が思いやられてしまうと思うのですが、
今作は、ちょっと違いました。
主人公の男が夜の道を運転する画像からして
先行き不安な暗黒の中を疾走していく
その後の20台女性保険外交員の同僚同士の表面上だけの薄いぺっらい人間関係や、
出会い系サイトの如何わしい人間関係が矢次早に提示される。
もう一度言いますが、平凡な作品であったのなら、ただ単純に嫌気がさすのでしょうが、
今作は違いました、そのキメ細やかな描き方に、ついつい引き込まれていったのです。
物語は進み、先の20台の保険外交員の女性が死体で発見されました。
その身元確認の経緯も丹念で思わず引き込まれるものだったのです
理髪師である父親が、お客とお互いの娘の話しをしている。
鑑賞者はこの父親の娘が亡くなっていることを知っている中で、のんびりした会話を聞かされて気が気ではない思いに駆られていくのです。
そこに警察からの電話を受ける母親。不安に怯える彼女の顔が すだれ越しでよく観察できないという演出も目を離さない。
場面は死体安置所に移る。
娘の遺体を確認する父親、表情一つ変えず、ただ、うなずく。
ふと気付くと遺体に被せているシートからつま先が出ている、そのシートの乱れを思わず直してしまう父親。 そんなところに父親の非日常な流れに気持ちが緊張している様が、ありありと表現できて感心しました。そして足早にその場を立ち去り、妻の元に急ぐ。
二人のカットは逆光でシルエットになっている。詳細はシルエットで見せていないものの、心の動揺は手に取ってみることができる。
その心の動揺はしばしの沈黙を破って泣き崩れる妻のシルエットに結実していたのです。
そして、画面は突然、廃屋を潰す重機が映し出されていきます。
妻夫木聡が演じる主人公の男が解体工であることの必然性のあるカットではあるのですが、娘を亡くしたこの夫婦の晴天の霹靂具合と幸福の崩壊を連想させる繋がりに感心しっぱなしだったのです。
気分は重い。しかし、演出は素晴らしく今作は評判通りの傑作に違いない。
と、開始20分にして確信をしたのです。
女性のお通夜の席、親戚の一言に激高した父親がその親戚に掴み掛かっての一悶着の場面。ちょうど焼香に来ていた刑事を見つけ、勢いにまかせてその怒りをぶつけてしまうのです。
「大学生一人捕まえられんで、何が警察か!
こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!
スイマセン (頭を深々かと下げる)」
この一連が一気に映し出されていったのです。
このような場面では、他のあまたの作品では
「こんなとこで暇つぶしてようなら、早う捕まえてこんかい!」
の後に一拍あって、そんなことを言ってしまったことに自分自身が驚く芝居を
入れて、
「スイマセン (頭を深々かと下げる)」
となるところなのでしょうが、
今作はそのようなことはせずに、ノンストップで語ってきたのです。
それだけ、異常なほどの脳内物質が出まくって、普通の状態ではないことを
印象深く訴えていたのです。
それは、娘の死を知るシーンにおける父親のノンビリとした日常を見せられてヤキモキしてしまったものとは、悲しいほどの対比を描いていたのです。
「うまくなったなー」 と思い切り上目線で唸ってしまいましいた。
李監督の前作 「フラガール」 を地下鉄内鑑賞をしていますが、
見るべき点のある作品ではありましたが、その映画の監督が、まさか
こんなに隙のない演出をする監督になるとは、思いもよらなっかたのです。
鑑賞途中ではありますが、李監督は今作で飛躍的な成長を遂げる違いないと確信をしたのです。
そんな幸福感に包まれながら、物語は、やっと今作の主人公 祐一 と、光代 の出会いとなりました。
今作の薄幸のヒロイン 深津絵里 演じる 光代 は、つましやかな、誠実な女性として描かれており、佐賀弁がその優しさを醸し出していました。妻夫木 聡 演じる 祐一は、初登場の場面から無口で得体が知れない一種の不気味さを纏っていたのです。
主人公の 祐一 は初対面の 光代 に対してぶっきらぼうに男女の接触を求めていきます。
ウブな 光代 はその流れに飲み込まれるようにして、祐一 との関係を受け入れていきます。
影どころではない、不気味さを持った祐一と、寛容で誠実な光代の対比ができたところで、
この二人の関係性はどの方向に動き出すのかを、注目していきたいと思ったのです。
と、ここまでは、今後の展開に期待をよせる鑑賞となったのですが、
その後の処理にちょっと疑問に思えたシークエンスが出てきてしまったのです。
娘が殺害される前に会っていた 岡田将生 演じる チャライ大学生との場面。 チャライ大学生の気に障って、彼女が夜の峠道で車から蹴落とされる場面が出てくるのですが、その表現に納得がいかなかったのです。
チャライ大学生はろくでもない人間だとは理解していましたが、それでも暴力的な人間だとは思っておらず、それが突然の豹変によって、攻撃的な態度を取り出したのです。
まるで、これから展開する物語を進行させるための豹変に思えてしかたなかったのです。
それも、男の自動車に軽々しく乗る彼女の尻軽さや、自分の母親と比べての彼女の至らなさを口実に攻撃を加えるのです。 口では道徳的なことを言いつつ、その反面、彼女には非道徳的な行為に至る違和感も感じたのです。そのような側面の前フリがあれば、狼狽せずに鑑賞することができたでしょうに、今後、このチャラ男が今作に関与し、この違和感の着地点を作ってくれるとでも言うのでしょうか?
心配しながら鑑賞を続けることにします。
第2回目 (5月5日 アップ分)
今作の主人公 祐一 と、光代 の再会の場面となりました。
初対面においての対応を詫びに来たようなのです。
これ以降、祐一 の描き方が変わっていきました。
それまでは、不気味な性格異常者のような捉え方をされていたところ、
不器用で純粋な男として、語ろうと路線を変更してきたような気がするのです。
今作の転換期であると 予見 したのです。
二人はこのまま逃走劇を演じていくのですが、祐一が光代に対して
自分の行いを告白するシーンも素晴らしいものでした。
港の展望が開けている食堂の2階のお座敷において、
1カット目は
初めてのズル休みに、ちょっとウキウキしている光代の様子を捉えながら、
やがて、彼女は目の前にいる祐一の変化に気付く 。
この時、画面には光代しか捉えていなく、祐一は画面に入っていない。
2カット目
手前に祐一の後ろ姿、奥に光代を捉えたアングルで、ピントは祐一の後ろ姿に合っていて、光代はピンボケの状態。
1カット目の終わりで祐一の変化に気付いて、心配する光代の表情を追っていたので、
光代の表情がピンボケでも、彼女の状態はわかります。
でも、ピントが合っている祐一は後ろ姿なので、その表情を伺い知ることはできない状況でありながらも、俯き加減で小刻み震えている様子からは、尋常ではないことがわかります。
「俺、 人 殺してしもうた 」 と光代に告白した直後、カメラ位置はそのままでピントは祐一の後姿から、光代の驚いた表情を捉えたのです。
3カット目
カメラ位置は180度切り替わって、光代の後ろ姿を手前に、奥に祐一の顔を配しています。祐一の表情が見れると思いきや、画面の半分ほどがピンボケした光代の後頭部で占められており、祐一の顔も、光代で隠されて半分ほどしか確認することができない、異常なカットで、 殺してしまった女性との関係を話し出す祐一
4カット目
今度はそれを受ける光代の、これも異常なカット。
3カット目を受けるもので、全くそのショットのコンセプトは同じものでした。
祐一の後頭部で隠されて光代の顔が半分しかみれないのです。
その告白を聞いて呆然としている。
5カット目
3カット目と同じアングル。切り替えしで顔半分の祐一のカット。
このようなクセの強いアングルを連続3カット続ける勇気に感服しました。「会いたいなら、金払え」 と、その女性から言われたと告白。
その女の性悪さが露呈した瞬間で、ちょっと前から監督が狙っていた祐一のキャラクター変更がここで、「一定の効果」を上げていました。
それまでは、「不気味なサイコ野郎」 のような描き方をしてきたところ、光代に謝罪してきたあたりから、「不器用で純粋な男」 としての側面を強調してきたことを理解したのです。
光代との初対面の際、ぶっきらぼうに男女の関係を結んだ後に、光代にお金を渡した行為によって、「不気味なサイコ野郎」 という印象を与えていたのが、その性悪女に強要されていたことを光代にも行っただけだということがわかると、一つの行為が、「不気味なサイコ野郎」 を訴求する表現にもなり、「不器用で純粋な男」 にもなるマジックを目の当たりにしたのです。
次の瞬間、お店の人が食事を運んで来たのですが、二人の後頭部と顔半分の閉鎖的な空間の切り替えしの後に提示された、広い空間を取り入れた広角ショットに感心をしたのです。
殺人の告白 という閉塞感に苛まされた空間を作った次には、お店のオバちゃん二人が食事を持って来て、去るカットが挿入のですが、そこに、カメラはお店の奥から、二人が向き合って座っている姿を捉えた、広角映像をポンと提示してきたのです。
密度の濃い、緊迫した時空間の後に、客観的な視線を持ってきたその対比とタイミングに、また感心してしまったのです。
二人の背景には港町の日常的な町並みが見え、手前には、誰も居ない座敷の広い空間がある。日常の中において、取り残されたような二人だけの孤独を感じることができたのです。 この広角画面の使い方について考えていたら、このような思いにさせた2つの広角カットを思い出しました。
1つ目は、祐一が初対面の際の非礼を詫びる為に、光代の勤務先に赴いた時に提示されていました。巨大なロードサイド紳士服店の膨大な紳士服に囲まれて再会する二人を考えてみると.陳列されていた紳士服がフェイクの人間に思えてきて.その膨大な人の中で疎外感を抱えていた男女が巡り逢えたこ寓話性を無意識に感じていたことに気付いたのです。そしてもう一つ、この逃避行の始まりで見た広角画像を思い出しました。
自分の部屋に居る光代、そこにスポーツカーのエンジン音が近づいてくる
ここで鑑賞者は、祐一がやって来たことを知る。
光代の部屋という狭い世界観から、サッとカーテンを開けると、光代の肩越しに、外のやや広い空間が2Fの窓から見下ろせる。そして闇の向こうから車がやって来て、ピタッと部屋の前で止まる。慌てて階下に行くために窓から離れる光代。光代がいなくなったことで画面には自動車のみが残っている。
この一連の演出も心に残っていたものでしたが、ここで語りたいのは、その後の 広角カット。 それほどの広角カットでもなかったのですが、ここまでに、祐一の車の中と先の光代の部屋と、やや撮影距離(カメラと被写体との距離)が短めのショットが続いたものですから、心理的な広角効果が発揮されていたと感じたのです。
闇の中でポツンと頼りなさげに佇む自動車が、警察にマークされて先行き不安な状態でいる祐一の心情を良く表していたのです。そして、今まで普通の生活を営んできた光代の人生も、この車に乗り込んだ瞬間に、祐一と同じ不安に苛まされる予感を覚えさせていたのです。この思いは、この広角ショットと、前述の光代の平々凡々な部屋のカーテンを開けると、真っ暗の中を祐一の車が乱入してくるようなショットの併せ技だったのです。
ついでに言うとその1カット前に祐一が姿を見せる前に荒々しいエンジン音で負の気配を予め用意しておいたことの勝利だと感じたのです。
「広角の効果」 について顕在化させてきた 【殺人の告白 食堂の2階】 。
そして、【二人の再会 紳士服店】 と、この 【逃避行の始まり アパート前の駐車場】 のように、味のある広角ショットを効かせてきたとろに、大いに感心してしまったのです。
老練なその演出力に唸っていた次の瞬間、若手らしい斬新なシーン変わりをも提示してきたのです。
それは、 【殺人の告白 食堂の2階】 に際して、死に至らしめる経緯の画像が映しだされるブリッジが、食事に出されたイカの活き造りの目のクローズアップ画面だったのです。
活き造りのイカがまるで命を奪われた遺体のように横たわっており、その見開かれた目が無機質に
その目の黒い部分に、殺めてしまった時の映像がオーバーラップで重なっていくのです。
凄いな、と思いました。老練な「広角の効果」 を見せ付けられた次の瞬間に、若手らしい斬新映像までもを突きつけられた訳ですから、
ただ、圧倒されてしまったのです。
このように 李監督の技量に圧倒されていた今作ですが、肝心の殺害の経緯シーンでは
急激なトーンダウンをみせてきたのです。
その説明は次回にすることにします。
第3回目 (5月16日 アップ分)
これから続く場面は、
20代の女性保険外交員を峠に連れ出して、自動車から蹴り出す チャライ大学生の行為にリアリティを感じる取ることができず、違和感を感じていたシーンの続きの時制になります。
他の場面では緩急使い分けた演出によって、グイグイと引っ張られてきたのですが、
女性外交員の受難のシーンは、全然納得のいくものではありませんでした。
チャライ大学生 に車から蹴落とされていた彼女を送ってあげようとする 祐一 に対して、意固地な態度を取る女。そのヤリトリの中で思わず腕を持つ手に力が入ってしまい女にダメージを与えてしまう 祐一。
これに対しての女のセリフから、自分の気持ちが冷めていってしまったのです。
「人殺し」
この局面において発せられた言葉が
人殺し ですって?
今作を鑑賞している者は、今までの流れから、この20代 女性保険外交員 が 祐一 に殺害されたことを察知している。 だからと言って、鑑賞者の認識レベルにこのシークエンスが追いつくタイミングだからといって、このように単刀直入に 「人殺し」 なんて言葉を言わせて恥ずかしくないのか?
と大いに疑問に思ってしまったのです。そして次にこの女が言った言葉は、
「警察に言ってやるけん。襲われたと。」
これだと、ちょっとは納得に近い気持ちになりました。
でも、それはあくまでも、比較の問題であり、この経緯において「人殺し」
よりはマシ。というレベルなのです。
たかが、祐一 が強く腕を掴んだくらいで、
「襲われた」 と虚偽の申し立てをしてやる。 となるのかなと、大いに疑問に思えてしまったのです。
好意を寄せていた チャライ大学生 に、ヒドイ仕打ちを受け、(前述のように、この流れも不自然に感じています)
軽んじていた相手に、そんな無様な姿を晒してしまった訳ですから、気が動転しながらも、形勢逆転を図った稚拙な行いであったことは理解しているつもりです。
でも、「人殺し」 の言葉は稚拙な選択として、制作陣のセンスを疑う瞬間だったのです。
その後の展開も同意しかねることになります
苛立ちの矛先を祐一に決めた女は
「拉致られて、レイプされた言ってやる。
(中略) 全部、あんたのせいやって言ってやる」と 祐一 から
逃げ出そうとしますが、後ろから
「嘘つくな、俺はなんもしとらんぞ!」
と言って、そのような言葉を阻止するために、祐一は女の口を押さえて
もみ合いになり、気付くと、女は死亡していた、というパターンなのです。
個人的にはこのパターンは、 1964年製作の 「飢餓海峡」 以外の映画やドラマで納得できた経験がなかったもので、人一倍、警戒心が大きかったのかもしれませんが、
非常に気恥ずかしい気分になっていたのです。
「飢餓海峡」 で示されていた三国錬太郎が演じる主人公の、今は名士入りを果たしたが、過去に抹殺したい犯罪歴を持つ男 と その彼に恩義を感じる 左幸子 演じる娼婦との不幸な再会によって、過去を消し去りたい男の願望と、過去にすがり付きたい女の情愛がブツカリ合ったことで生じる 偶発的な殺人 と、どうしても比較してしまうのです。「飢餓海峡」 の胸を締め付ける悲しい殺害シーンと比較してしまうと、どうしょうもなく薄っぺらいモノに感じてしまったのです。
せめて、祐一 が 「嘘をつくな」 としきりに言っていたところから、彼の脅迫観念の中に、「嘘をつく」 という伏線があったのなら、もう少し興味深く見るこよができたと思うのですが、それも見つけられることがなく、ただ、映画のストーリーをなぞっていくだけに思えてしまったのです。
同意しかねる 峠でのシーンの後、今作はまたボクの興味を惹きつける場面を用意してきたのです。 祐一 が自首しようとする場面。 降りしきる雨の中、光代を車内に残したまま、一人、警察署に歩いていく 祐一。振り返るとフロントガラス越しの光代が、雨で遮られて滲んで見える。これは二人の関係性が希薄になっていくことへの表現なのかな、と思っていたら、カメラはボクの意に反して車内で泣きじゃくる 光代 を映し出してきたのです。ちょっと意外に思っていたら、光代は意を決したように運転席側に手を伸ばしたと思った瞬間、切り替わった祐一の全景にかぶさってきたのが、光代が鳴らしたクラクションの音だったのです。その音に振り返る祐一。
しばしの沈黙。
これだけで充分でした。
今までの受身の人生に決別すかのような光代の行いによって、祐一の自首を翻させて、二人の関係をより深くしていく、光代のこの能動的な行為に心が動いてしまったのです。
それは、一言の言葉や説明が介在する余地がない、豊かな映画的境地だったのです。
この後の二人の関係性は、もしかすると 光代がイニシアチブを取ってなされる予感にも満ちていたのです。
そしてこのシークエンスに続くものが、二人の深い結び付きを確認する場面となるのですが、ここにいおいての表現が、初対面のそれとは全く違い、光代の能動的な気持ちが表れていたのも印象的でした。
精神的にも、肉体的にも深い繋がりを確認した二人は、灯台にやって来ます。
このシュチュエーションが良いなと思いました。
灯台は陸地の端っこ、岬の突端に立地していますので、二人の存在できる場所が陸地の果てに追いやられている様を理解することができ、そして、陸地の水平方向への終着であるが為に、違う方向である、垂直方向(高さ)方向へ伸びていく様が二人の今を暗示しているようで心に響いたのです。
この灯台で日々を過ごすうちに、祐一のある告白が始まりました。それは、母親に捨てられた時のこと。「すぐ戻ってくるから、ここで待て居て」 と言われ、彼は灯台を眺めながら、母親の言葉を信じていた。とのことなのです。
結局、母親は戻らず、自分が遺棄されたことの痛みを知ることになったようなのです。
ここにきて、20代女性保険外交員を殺害された際に強調していた 「嘘をつくな」 が
ここで結びついたのです。 しかし、このタイミングでの 「嘘をつくな」 の関連性を持って来られても、すでに生じてしまった 違和感をリカバリーするほどの、鮮烈さを持っていなかったのです。残念に思いました。
この残念な気持ちを引きずりながら、今作は終わりを告げていってしまったのです。
折々に素晴らしい演出をみせてくれた李監督でしたが、終盤は失速しての終わりとなりました。しかし、一点、興味を惹く場面がありました。
警察の包囲網が近づいたことを察知している中で、光代 は自首の妨げをし、逃避行のキッカケを作ってしまったことを詫びます。そんな彼女に祐一は真顔になり
「俺は、あんたが思うとるような男じゃなか」
と突然、光代の首を絞め始めたのです。
首を絞められて苦しむ光代にキスをして、力一杯締め付けてきたのです。
一瞬、ボクは混乱をしたのですが、すぐに画面に釘付けになったのです。
最初、祐一を 「不気味なサイコ野郎」 として表現しておきながら
途中で 「不器用な純粋な男」 に進路変更をし、そのキャラクターとして受け止めてきたのですが、彼の本性は、相手が苦しむ姿に快感を得る 倒錯S の 「不気味なサイコ野郎」 だったのか! と思い。裏をかかれてしまった。という快感をボクは得たのです
(これをボクは 映画的M と呼ばせていただきます)
だから、殺害シーンはワザと下手に作ったのか。 と李監督の予想を上回る急成長ぶりに
感心したのです。あの殺害シーンは祐一の光代への告白というカタチであったことを思い出しました。過失の中で殺めてしまったという 「嘘」 をついたからこそ、ぎこちないシーンに仕立てたんだなと、大いに納得した瞬間だったのです。
そして警官隊の突入でその行為は阻止されるのですが、光代が保護され、裕一 が身柄を確保される瞬間に、ボクは目を疑ったのです。何と祐一は、手を引き裂かれていく 光代 の手を握ろうとするのです。
この有様を見て非常に複雑な気分になったのです。
祐一 は実は 「不気味なサイコ野郎」 の訴求で納得がいったボクの気持ちを揺さぶってきたからなのです。
何故なら、この行為によって、 雄一が 光代 の自分への気持ちを断ち切るために 「不気味なサイコ野郎」 を演じ、 "「嘘」 をついた” ことを理解することができたからなのです。
矢継ぎ早の 「不気味なサイコ野郎」 から 「不器用な純粋な男」 への訴求を当初は感心していたのですが、今作を鑑賞し終えた時に思ったことは、あのラストシーンを用意しているのなら、もうちょっと、このネタバラシを温存するべきであった。 ということだったのです。
灯台での逮捕劇の数日後、第三者とのヤリトリの中で、光代は
"世間で言われよる通りなんですよね。あの人は 「悪人」 なんですよね。
人を殺したとですもんね”
と思はず呟やいてしまった後、彼女の意識は邂逅の奥底に潜っていくのです。そしてその邂逅で今作は終わりを告げていったのです。
場所は二人が過ごした灯台
彼女の脳裏には、灯台から二人で見た夕日の美しさに心を打たれた日の思い出が去来してきたのです。その一瞬の儚い美しさに涙する二人。
今作は、この 夕日 に感情を揺さぶられて、ただ涙するしかない 裕一 のアップ画面によって終結をしていったのです。
このシークエンスを見れば、 裕一は 「不気味なサイコ野郎」 でなはなく、 光代 の自分への気持ちを断ち切るために、 "「嘘」 をついた”
「不器用で純粋な男」 であることの訴求がされたと理解をしました。
ラストにこのような、祐一 の「人間性復権を象徴するカット」 を持ってくるのであれば、 「光代の首絞め」 からこのラストカットに至るまでの時間を、
祐一 は 「不気味なサイコ野郎」 との認識を持たせたままでいた方が、ラストカットの 祐一 の涙が利いてくるものでしょうに。
また、祐一 は「悪人」で 「不気味なサイコ野郎」だったのか、それとも「悪人」 ではなく、「不器用で純粋な男」 だったのかという、精神的迷宮に観客を誘うこともできたのに。と強く思ってしまい。残念な気持ちに覆われてしまったのです。
今作は老練な演出手腕とフレッシュな演出手法の硬軟取り混ぜた見事な演出に感服した逸品でした。
しかし、殺害に至るシークエンス等、個人的に残念な思いをした部分もあったのです。
その思いはラストにおける配慮不足という象徴的な事象に表れているようでした。
残念に感じる場面はありましたが、李監督の大きな成長を実感し、彼のさらなる飛躍を予感させるものでした。
この文章を元にリライトした 完成レビューはこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-09-25-1
完成! 「ハート・ロッカー」 前半 [DVD 車内鑑賞メモ]

今作は、冒頭に掲げた言葉、 「戦争は麻薬である」 を
セミマクロな “ヴィジュアル・インパクト” や
おぞましい “ストーリー・インパクト” を駆使して
多重的に訴えてきました。
そして、苛立ちを覚えた
「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」 ことや
ヌルイ と感じてしまった展開 こそが
【 ( 「戦争は麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、
観る者のモラルを壊していく 劇薬 】
であったことを、
深く、 にぶく、 訴えてきたのです。
このように、戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという側面においては、
比類のない映像作品だった。
と、評価を致します。
映画史における 戦争モノ をステロタイプに言ってしまうと
■ 第二次世界大戦は、
“華やかな勝利” に沸き立って
「史上最大の作戦」 「ナバロンの要塞」 「バルジ大作戦」 などの、戦争スペクタクル というジャンルを創出。 愛国心を煽って、高揚感をもたらしました。
( しかし、 1953年 の段階で 第2次世界大戦の戦勝国でありながら、
軍隊内のモラル崩壊を訴求してきた 「地上より永遠に」 という先駆的な
作品があったことを追記しておきます。 )
■ ベトナム戦争は
“泥沼の末の撤退” の汚辱を受けて
「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 「プラトーン」 等のビッグネームによって
阿鼻叫喚の中での “精神崩壊” が盛んに訴求されました。
■ この流れを汲んで今作が捉えた、イラク戦争映画というものは
“戦争後の、自爆をも視野に入れたテロ攻撃”
を受けての
“自我の変質” や “性格の急変”
という
「 人格変容 」
が訴求された。
と受け取ったのです。
ここには、第2次世界大戦における輝かしき “勝利の興奮” の 華々しさ や、
ベトナム戦争における エキセントリックな “精神崩壊” という毒々しさもありません。 直接的な戦いが比較的短期間に終結。 しかし、その後の
“自爆をも視野に入れたテロ攻撃”
に晒された結果の、
“自我の変質” や “性格の急変”
という
地味な、
「 人格変容 」
に見舞われただけ
だったのです。
しかし、今作において一番興味深く感じたのは、 この
「 人格変容 」 は
“映画の中の人間” のみならず、それを見ている
“映画の外の人間” をも、
蝕んでいったことだったのです。
今作はしょっぱなから、「地獄の黙示録」 における “ワルキューレのヘリコプター攻撃” のシーンが展開されていきました。
所謂、
“ヴィジュアル的訴求点” として、
予告編で多用されるシーンなのですが、
今作はその “ヴィジュアル的訴求点” を
開始早々に
使い果たしてしまったのです。
通常であれば、このようなマーケティング的に重要なアイキャッチは、
練りに練って、中盤以降に登場させてくるものなのですが 、
開始早々に
気前良く放出してしまったところに、
まず、 ボクは興味を持ったのです。
“ヴィジュアル的訴求点” を使い果たしてしまい、今後、この場面を越えるモノ を提供することができるのだろうか? それとも、 この場面を越えるモノ を用意することが出来ずに、
寂しいクライマックスを迎えてしまうのか?
そんなところを注目していきたい、
と思ったのです。
しかし、今作の “ヴィジュアル的訴求点” そのものは、大変素晴らしい出来となっていました。
町に仕掛けられた爆弾が爆発して生じる 強い衝撃 を
セミマクロ的な視角において
スローモーションで表現してきたのです。
【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、
道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が、
振動によって空気中に拡散していった 】
のです。
文章に書くと、本当にこれが “ヴィジュアル訴求点” なの?
と思われるかもしれませんが、この一連のカットこそが、予告編に多用され、
そして、ボクに大きな映画的興奮をもたらしたシークエンスに違いなかったのです。
決定的瞬間をスローモーションで訴求する演出と言えば、往年の巨匠、サム・ペキンパー監督を思い出す方もいるでしょう。 彼の表現と比べながら、今作の特徴点を説明してみたいと思います。
往年の名監督、サム・ペキンパーによる作品は、暴力や破壊の瞬間をまっ正面からスローモーションで捉え、 今までの状態から 崩れて変容・変質していく様に、
ある種の ダイナミズム や 美しさ
を感じとれる作風でした。
一方の今作は、同様に ダイナミズム や 美しさ を感じとれるカットはありますが、
ペキンパー流スローモーション術とは、
だいぶ、趣きを異にしていたのです。
サム・ペキンパーの興味の対象は 力 を加えられたことによって変容していく、
“力の作用点”
である。
と理解しているのですが、
今作における キャサリン・ビグロー監督の目線はそれとは違っていたのです。
彼女の興味点は、
“力の攻撃目標”
ではなく、
近くに居たというだけで、その力を被り、変容・変質してしまう
“傍観者への影響”
だったのです。
( この時点で気軽に “傍観者への影響” という言葉を使ったのですが、
後ほど、この言葉の本当の意味を知ることになるのです。 )
“傍観者への影響”
それが
【 地面の砂利が “力の影響” によって10cmも飛び上がり、
自動車の残骸の錆が “力の影響” によって空中に浮遊するさま 】
であったのです。
そして、往年の巨匠との表現比較において、
被写体との撮影距離 や
被写体のスケール感 が
全く違うことも、特筆するべきことだと感じたのです。
今作は、
セミマクロ的な、
視線を狭く限定した画角の中で、
人を殺傷してしまうほどの大きな
爆発の威力
を語ってきたのです。
砂利の一粒、ましてや錆の粒子に目を向けると、極小なマクロ域において、とてつもなく大きな威力を語ってくるところに、サム・ペキンパーの時代とは違う、
現代の表現が
ここにある。
と感じたのです。
きっと 肉食系サム・ペキンパー監督がこの場面の演出をするとしたのなら、爆発の威力で飛ばされる軍曹をアングルを違えて、何度もスローモーションで映し出してきたことでしょう。
早々と “ヴィジュアル的訴求点” を披露した今作に やっと主人公である ジェームズ軍曹 が遅ればせながらも登場してきました。
彼が “ヴィジュアル的訴求点” の際に戦死していった軍曹に変わって、新たに “ブラボー中隊” の爆弾処理担当として赴任してきたのです。
“ブラボー中隊” は 他に 警護担当の サンボーン軍曹、若き技術兵の エルドリッチ の計3名で構成されています。
ストーリーはこのジェームズ軍曹の
我の強い個性と今までのチームメンバーとの
軋轢 を語っていくことになります。
しかしながら、ベトナム戦争時の組織内のモラル崩壊を 「プラトーン」 が既に強烈に語ってしまった後では、心に響いてくるものはありませんでした。
これから
どのような 求心力
を今作は創出していくのだろうか ?
と観察していたら、ボクの興味を惹く時間の使い方が提示されたのです。
それは、砂漠地帯での遠距離狙撃戦でのこと。
長い時間をかけて、
固唾を飲んで相手の出方を待つ。
という時間の使い方があったのです。
結局は全ての敵を倒していたので、相手の反応を伺うことは無駄であった、
というシークエンスなのです。
このような、ともすれば冗長と受け取られる表現は 第二次世界大戦における “戦争スペクタクル” においても、ベトナム戦争における “自己崩壊地獄絵図” においても、自分の経験の中では、観ることのなかった
特異な表現
であったので、
興味が惹かれていったのです。
そこで、この表現は本格的な戦争は比較的短時間で終結し、進駐後の 自爆をも厭わないゲリラ戦 が主流となっていった イラク戦争特有の
本戦における “心理的未達成感” や
ゲリラ戦の “精神的消耗感”
の表れだったのか?
とも思ったのです。
そして、
“ヴィジュアル的訴求点” を 主役が登場する前に 手放してしまい。
結局は “無駄な時間” となるものを、時間をかけて表す。
そんな今作の演出バランスに、
大きな興味を持ったのです。
“ビジュアル的訴求点” を越えるモノを提案できずに、このまま終わりを告げてしまったのならば、
“無駄な時間” を時間をかけて訴求せずに、
映画として成立できるモノに時間を使うべき
と非難されてしまう。
のでしょうが、
今作は アカデミー作品賞に輝くほどの作品なので、この後には何かが隠されているはず。
と希望を持って、鑑賞を続けていったのです
そんな暢気なことを考えていたら、今作はとんでもなく過酷なストーリーを語ってきたのです。
“ヴィジュアル・インパクト” を超える
おぞましいストーリーが提示されてきたのです。
それは 「人間爆弾」 ...........。
自爆テロのことではありません。人間の体内に爆弾システムを埋め込むのです。
腹部に大量の爆薬を埋め込まれ、人間の体全体が “爆弾システム” と化しているのです。
腹部に大量の爆薬を詰められているので “爆弾システム” となっている人間は、勿論、
絶命しています。
血まみれの状態でゴロンと長机に放置されたその 「人間爆弾」 を見て、
凄まじいほどの悪意に、吐き気を催してしまうほどでした。
こんな悪魔的な現実が、イラクの地で本当にあったのでしょうか ?
そして、その 「人間爆弾」 が主人公の ジェームズ軍曹と、交流のあるイラクの少年だったことが判るにつれて 、
その行為の
本当のおぞましさを
認識していったのです。
見ず知らずの他人であるのなら、その死のいきさつについて思い悩むことはないでしょう。
でも、「人間爆弾」 にされたこの子供は元気にサッカーをしていたのです。
それがこんな姿となっていたのですから、
サッカー と 「人間爆弾」 の間には、
恐ろしくも邪悪な暴力 が
潜んでいたことが伺いしれるのです。
「自爆」 には我が身を捧げて行う 強い意志を感じますが、
「人間爆弾」 には、人間爆弾となる対象者の
命も尊厳も踏みにじって テロを実行する
身勝手で組織的な 悪
を感じて、ただただ、その凄まじい悪意に耐えかねて、体調を崩してしまったのです。
“ヴィジュアルインパクト” なんて暢気なことを言っている場合ではない事態が、今作のストーリー上で発生していたのです。
書く気が失せてきた。 もうやめよう。
そう考えて、しばらく放置していたのでした.......。
この凄まじくも、おぞましい有様を目撃した 主人公の ジェームズ軍曹 はただちにこの危険な
「人間爆弾」 の無力化
に動きます。
爆弾をしかけ、その対象物を爆破させて、その脅威を無力化させてしまうのです。
しかし、彼は心変わりをして、爆発を中断するのです。
これは、
“爆弾システム” ではなく
“遺体” であると
認識した彼は、
断末魔で見開かれた、その子の目を閉じ、腹に縫い込まれた爆弾を摘出するのです.。
ボクはこの圧倒的な展開の前にただ亞然とするしかなかったのです.............。
しかし今作は、このように大きなアドバンテージを獲得しておきながら、この直後
挽回できない、重大な失態
を演じてしまったのです。
あろうことか、応援に来ていた 軍医 を、仕掛けられていた爆弾によって爆死させてしまったのです。
“ストーリー・インパクト” を評価し始めたボクの中に、その瞬間に
残念な気持ちが
生じてきてしまいました。
制作陣にしてみれば “軍医の爆死” は “ストーリー・インパクト” の貴重な追加点を意図したもの。 と理解できますが、
前述の 「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描いていた」
ことの意義を
疑っている者からすると、
構造上のアンバランスが露呈してしまった。
と感じたのです。
何故なら、軍医と 若き技術兵 エルドリッジ との人間関係を訴求をしてきたものの、表面をなぞった程度にしか表現できていなく、このような熟していない人間関係に、
いきなり “爆死” を押し付けられても、
感情は、動くはずもなかったのです。
そうなると、先程、心を動かされたと思い込んでいたシークエンスにおいても、 主人公 ジェームズ軍曹 と 「人間爆弾」 にされた少年の関係も、2度会ったきりで、
深い結びつきを 訴求できていなかった。
ということまでも思い出されてきたのです。
“ストーリー・インパクト” を
ジェームズ軍曹 と 少年 の関係 の中で、 そして
軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との関係の中で
訴求したかったのなら、
もっと、その関係性の深さを、
語るべきだった。
と思えたのです。
しかも、 「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことをやめてでも、
2つの関係性を 時間を掛けて語るべきだった。
と強く主張をしたいのです。
続きの後半はこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-03-05

完成! 「ハート・ロッカー」 後半 [DVD 車内鑑賞レビュー]

前半からの続きです
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2011-03-05-1
終盤に向けての今作の流れは
非常に ヌルイ ものでした。
序盤早々の “ヴィジュアル・インパクト” を提示し、
中盤の “ストーリー・インパクト” を訴求してきた今作ではありますが、
その間にある
「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」 シーンのような、
ユルイ時間 を迎えたのです。
主人公の ジェームズ軍曹 は 「人間爆弾」 にされたベッカムの家を探ろうとするが、成果を得ず、また、彼の深追いで 若き技術兵 エルドリッジ は 負傷して戦地から離れることになります。
映像世界に没頭できそうだなと思うと、肩透かしを食らわせてくれます。
ベッカムの家を探しているうちに、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンスの意義を計りかねてしまったのです。
この期に及んでもまた
「 “無駄な努力” を 時間を掛けて描く」
ことを訴求したかったのでしょうか?
この有様に耐えかねて、ボクは再び
「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことをやめて、
主人公の ジェームズ軍曹 と 「人間爆弾」 にされたベッカム との関係。
そして、爆殺された軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との関係。
この2つの関係性を 時間を掛けて語るべきだったのに !
と叫びたい気持ちになったのです。
そして、ヌルイと思えたのは、
若き技術兵 エルドリッジ の受難です。
ここでは敢えて、悪魔的な妄想を告白することに致します。
主人公のジェームズ軍曹の職務を逸脱した深追いで、若き技術兵 エルドリッジ は、テロ組織に連れ去られてしまうのです。
この瞬間にボクの悪魔的妄想が
抑止力を振り払って、
勝手に主張し始めていたのです。
【 今度はイラク人のベッカム少年ではなく、
敵対するアメリカ兵である エルドリッジ が 血祭りにされる番である ! 】
と。
中盤に衝撃を与えてきた “ストーリー・インパクト” は 「人間爆弾」 という忌むべき方法でした。 それを超えるインパクトを仕掛けるとしたら、若き米兵である エルドリッジを
“強制自爆” させるしか他ない!
と
肥大化していったボクの欲求 は
こんな夢を見てしまったのです。
しかし、この期待をまんまと裏切って、エルドリッジ は足の負傷だけで、イラクを離脱をしていくのですから
甘い ! 甘すぎる!!
と、むき出しの感情が叫んでいたのです。
気がつくとボクは、こんなにも熱くなっていたのです..........。
今、この作品を終わりまで鑑賞し終えました。 そして、改めて思いました。
「甘い」 。 と、
そして、鑑賞し終えて、 「甘い」 と思えてしまったボクを
「怖い」 。 と
思えてしまったのです。
今作は序盤にセミマクロ的スローモーションの “ヴィジュアル・インパクト” を提示し、
中盤には 「人間爆弾」 という “ストーリー・インパクト” を用意してきました。
そして終盤には、それらを超える、
“若き技術兵 エルドリッジ の強制自爆”
が展開されるはず。 と、妄想が暴走したところ、今作が提示してきたのが、
“イラク男性の強制自爆”
だったのです。
ボクの妄想は既に 悪魔的な領域 までに到達していたというのに、
今作は見ず知らずのイラク人を血祭りにしただけで、終盤のクライマックスを終えようとしているのです。
主人公の ジェームズ軍曹 とは何の関係性も持たないイラク人が爆発したところで
何の感情が生まれるというのだろうか?
と呆れてしまったのです。 そんな甘っちよろいことではなく、
若き技術兵 エルドリッジ を大爆発させることで、 アメリカ と イラク の
憎しみの深さ
を知らしめることができるでしょうし、
ジェームズ軍曹 の “自信” と ”誇り”
を 地に貶めること
ができるはずなのに。
これこそが、中盤のイラク人少年 ベッカムの 「人間爆弾」 の衝撃を超えていきながら、今作を締めくくることができる唯一の方法だというのに .........。
歯がゆい!
甘い!
ヌルイ!
悔しい!
なんてなことを真剣に思っていたのです。
危ない、危ない。
これが監督の術中なのでしょうか........?
今作の舞台がイラクの地を離れ、アメリカに移り冷静になった時に、
キャサリン・ビグロー が今作の巻頭に持ってきた言葉の意味を痛感しました。
「戦争は麻薬である」
それを今作は訴えているのですが、
ボクは悟ったのです。
【 ( 「戦争は麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、
観る者のモラルを壊していく 劇薬 】
だったのだ と................。
戦争という非日常の興奮状態の中で、自分の存在意義を見い出してしまった人間にとっては、
日常というものは
退屈な、人生の墓場
くらいにしか思えない。
そんな不幸を今作は訴求してきたのでしょう。
しかし、ボクが今作を鑑賞した中で、最も心を動かされてしまったことは、
そんな、非日常の毎日を見せられてきた鑑賞者も、ジェームズ軍曹 と同じようにより強い刺激を求め、いつしか、
自分のモラルを遥かに超えた精神状態 に
追いやられていた、
ということなのです。
イラク人を 爆発させるくらいなら、 若いアメリカ兵を木っ端微塵にしてしまえ!
なんて苛立ってしまうくらいですから。
ボクはまんまと演出陣にしてやられてしまった。
ようなのですね..........。
そして、冒頭に提示されてきたビジュアル・インパクト
【 地面の小さな砂利が強力な振動によって、10cmほどジャンプをし、
道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が振動によって
空気中に拡散していった。 】
の一連によってキャサリン・ビグロー監督の目線が、
「力の作用点」 だけではなく、
「傍観者への影響」 に及んでいたこと
を鮮烈に思い出したのです。
「力の作用点」 が 「力の攻撃目標」 となっている
“映画の中の人物”
とするならば、
「傍観者への影響」 というものが
“鑑賞者であるボクへの影響”
に相当するのだな。
と思い、
そして、その環境の中において、ボクは知らず知らずの内に
“自我の変質” や “性格の急変”
という
「 人格変容 」
に見舞われたのだな。
と、つくづく納得してしまったのです。
「“無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことは必要だったのです。
ベッカムの家を探しているうちに、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンス は必要だったのです。
若き技術兵 エルドリッジ が 足を負傷して戦地から離れる “甘さ” は
必要だったのです。
全ては鑑賞者という “傍観者” の心の奥底にある
悪魔的な側面
を 炙り出すために
必要な手段であったのです。
完全に手玉に取られてしまったようです。
最後に 今作は 素晴らしい “予見” を用意していました。
主人公 ジェームズ軍曹 がイラクでの任期を終えてアメリカに戻って来た場面において、眩い光に満ち溢れたスーパーマーケットの情景が映し出されました。
シリアルを買おうと売り場にやって来たものの、膨大な量と、膨大な種類のシリアルの箱が所狭しと並べられているその様に圧倒され、選ぶことができないでいるのです。
今作の舞台は、荒涼とした砂漠や、ゴミゴミした市街地でした。
そんなイラクの地で、このアメリカのスーパーマーケットと同様に、
合理的で整然としていた場所
が一つだけあったことを
思い出しました。
それはジェームズ軍曹 の前任者が安置されていた
死体安置所
という場所だったのです。
この有機的連動によって、スーパーマーケットに代表される 清潔で無機質的な明るさに満ちたアメリカ文明の地が、ジェームズ にとっては
死体安置所
のごとき場所であることの
訴求がなされた。 と理解したのです。
この表現によって、次のシーンに移行せずとも、ジェームズ が再びイラクの地において “ジェームズ軍曹” としての
生を 「消耗」 していくことを、
予見 することができたのです。
後日、大学時代か友人で、コピーライターをしている Herbieちゃん から、ボクの映画的興奮を満たしてくれる見解がインプットされましたので、了解を得て追記したいと思います。
アメリカのスーパーマーケットのシークエンス。
膨大な量のシリアルの表現において、
「 今作は戦争の異常さを訴えていたけれど、 このシリアルコーナーの表現によって、
アメリカの日常 こそが
異常
であったことも訴えていたのだ。 」
という意見だったのです。 それは、
あの膨大な量は 需要を遥かに越えた異常な
“過剰備蓄” 。
という見方だったのです。
資本主義下の大量消費社会においては、「商品ラインアップ」 と 「陳列ボリューム」 で、同業他社との戦いに勝つことを目的とした企業間戦争が、スーパーマーケットという戦場において展開されていたのです。
そこには、必要なモノを供給するというレベルを超えた、マーケティング手法を駆使した 「シェア争い」 の虚しさに満ちていたのです。
その結果の 異常な “過剰陳列”
だったのです。
今までイラクの地の 未整備で不十分な環境を見てきた者にとっては、
このアメリカのスーパーマーケットの有様は、
常軌を逸した、資材の一極集中
と映ったことでしょう。
需要には応えることができない イラクの地 と
需要を遥かに越えた アメリカの豊かさ
この 不平等 を如実に語っていたのです。
3,000円で141人分の麻疹ワクチンの支援ができるそうです。
たった21.3円のワクチンを打つことができなくて、命を落とす子供がいる一方で
消費し切れない量の資材を陳列しているスーパーマーケットがある。
シリアル1箱分の金額で何人分のワクチンが賄えるのかは知りませんが、
それでも、相当数の子供の命を救える 量 があのスーパーマーケットに陳列されている。 と推測することができます。
きっと、あの膨大な量のシリアルのいくつかは、消費期限を越えて、無駄に廃棄されていくのでしょう。
そして、その量に比例する数の子供達がワクチンを受けることなく、命を破棄されるがごとく、失われていくのかもしれません。
無駄な命 などないというのに.........。
この現在においても、アメリカは強大な軍事力を背景に、積極的に外に出て一方的に 「富」 を獲得していきます。
そんな、「富」 と 「命」 の不均衡・不平等がグローバルに展開されている
「南北問題」 を、
シリアルという、毎日の食材に託したキャサリン・ビグロー監督の女性の視線が特徴的であった。 というのです。
ボクは全くの同感をしたのです。
今作は、冒頭に掲げた言葉、 「戦争は麻薬である」 を
セミマクロな “ヴィジュアル・インパクト” や
おぞましい “ストーリー・インパクト” を駆使して
多重的に訴えてきました。
そして、苛立ちを覚えた
「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」 ことや
ヌルイ と感じてしまった展開 こそが
【 ( 「戦争は麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、
観る者のモラルを壊していく 劇薬 】
であったことを、
深く、 にぶく、 訴えてきたのです。
この成果は、計算ずくなのか、偶然なのかは、はかりかねますが、
戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという意味においては、
比類のない映像作品だった。
と、評価を致します。
そして、毎日の食材である シリアルの陳列コーナーを舞台に、 決して解消することがない
「南北問題」 をも
鮮烈に語ってきたほど
潜在能力としてはとてつもなく大きな力を持った作品だったのです


メモ 「ディア・ドクター」 [DVD 車内鑑賞メモ]

通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてモバイルPCを使っての車内執筆を実行中。
地下鉄内での通勤時間を活用してのコマ切れ鑑賞となっているため、
鑑賞中の折々なストレートな印象を、同時進行的に3回に分けて、
「鑑賞中メモ」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中メモ」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成 感想文」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を1つのものに推敲して
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
3回に分けてアップしていた 「鑑賞中メモ」 を1つにまとめたものです。
第1回目 (1月18日 アップ分)
無医村に赴任していた医者が姿を消し、彼によって医療を支えられていた村人や、医者の行方を探る刑事、直前までこの村の医療に医者とともに携わっていた看護士と研修医が 彼を探すところから物語は始まります。
姿を消すことになる医者を 笑福亭鶴瓶 が “人間味溢れる” 部分と、姿を消すことになる “謎” の部分を醸し出しながら演じていきます。
ベテランの看護士は余貴美子。 アカデミー外国語映画賞を受賞した 「おくりびと」 の彼女の役柄を思い出しました。
「おくりびと」 では、主人公の モックン と、葬儀社の社長 山崎務 の2世代間をつないでゆく役どころを演じていましたが、今作においても、姿を消す 鶴瓶 演じる医者と、都会的な匂いを発散させながら登場する研修医との、2世代間の隙間を埋めていく役どころになるのか注意していきたいと思います。
で、研修医は赤いスポーツカーに乗って 瑛太 がやって来たのです。
今作は、医者、看護士、研修医が農村医療に従事していくちょっと前の時制と 現在の時制である 医者の捜索が交互に表れていく構造取っています。
永らく無医村だったこの村にやって来てくれた医者が、如何にありがたい存在だったのかを、医者が不在となってしまった場面で村人に証言させる一方で、ちょっと前の時制において、医者・看護士・研修医の実際の医療活動の目撃を通して、彼らの貢献を実証をしていく構造を取っています。
そうすることで、ちょっと前の事実を通して主人公を主観的に判断し、姿を消した後の残された者による証言で、第3者的で、客観的なキャラクター像を認識するという、多重的に 医者・鶴瓶 を捉えることができます。
これほどまでに丁寧に 医者・鶴瓶 を監督が表現してきたということは、主観的な印象と、第3者からの評価。この両方ともに、乖離してしまう事実を突きつける準備をしているのではないか? と、
ちょっと身構えてみたのです。
これまでの物語において、印象深いシークエンスがあったので、言及してみたいと思います。
老人の臨終の席において、延命措置をしようとする医者に対して、その措置を辞退する家人たち。
そして、明らかに、その老人の介護を押し付けられていたと思われる地味で薄幸そうなお嫁さんの怯えたような複雑な表情を捉えたきたのです。
これは、長寿 という美辞のウラに存在する 老人介護 という問題が投げかけられた瞬間だったのです。
(しかし、今作はこの状況を 喉に詰まった食べモノが出てきたことで、老人が蘇生し、村人一同がお祭り騒ぎをする ということで、暗くなりつつある雰囲気を、半ば強引に 「陽」 に展開していきました。)
この流れがもしかして今作の底流にあるのではないかと、予見したのです。
何故なら、無医村にやって来てくれた医者の 蒸発 というややシリアスなオープニングの次には、ちょっと前の時制の医療行為における 鶴瓶 の飄々としたキャラクターによって、緩やかな気分になってきたからなのです。
この流れはまさに、老人介護の問題の後のお祭り騒ぎに共通していたのです。
でも、お祭り騒ぎをしたところで、老人介護の問題が消えたわけではなく、誤魔化されただけですから、
医者の蒸発というシリアスな問題が、医者である 鶴瓶 のキャラクターによって打ち消されたわけではないのです。(当然のことですが)
先の、医者・鶴瓶 を、主観的と、第三者に語らせてきた客観的評価によって丁寧に語ってきたことを考えると、まずは、飄々とした 医者・鶴瓶 の人間的魅力によって強引に 「陽」 に展開しておきながら、次には 医者・鶴瓶を巡るシリアスな暴露がくるはずなのではという思いを強くしたのです。
さあ、どうなることでしょうか?
第2回目 (2月2日 アップ分)
中盤には、先の 「医者 鶴瓶を巡るシリアスな暴露」
がやって来たらいいな
が実行されていきました。
医者・鶴瓶 の実体が見えてこなくなったのです。
病院を転々としてきた事実。
父親の職業を偽っていた事実。
今は小さな事実の露呈に過ぎないのですが、主観的な印象と、第3者からの評価を取り混ぜながら語られてきた 医者・鶴瓶 のキャラクター像が、大きく乖離していく事を 予見 したのですが、
この小さな綻びから、その 予見 が実行されることに期待をしたのです。
しばし、美熟女、いや、美老女である八千草薫の病状に尽力していく 医者・鶴瓶 を描いていたと思ったら、キャラクター像の乖離 を決定付ける事実が、現在の時制によって暴露されていったのです。
その表現が素晴らしい。
今まで山村の風景に慣れてきたところに、いきなり都会の高級マンションの外観を写し出してきたのです。ゆっくりとズームインしていきます。一部屋だけバルコニーに人がいて、そこにターゲットを定めているようです。
そして、音声は電話の会話音がかぶさっていきます、医者・鶴瓶 の行方を捜している刑事の声です。
どうやらこの部屋に 医者・鶴瓶 の母親が暮らしており、バルコニーで布団を取り込んでいるのが母親本人であることがわかります。ズームインしていくうちに奥に、父親もいることもわかってきます。
電話の刑事は 失踪の件を伝え、情報を得ようとしますが、会話が母親とかみ合っていきません。
そのもやもやは 鶴瓶 が医者であることの 認識の違いに集約してくるのです。
鶴瓶 が医者として働いていたことに驚きを隠せなく、思わず電話を切ってしまう母親の姿に、全ての納得がいたのです。
実にこのシークエンスは1カットで構成されていたのです。
ニセ医者 であることが判明した途端、医者・鶴瓶 いや、ニセ医者・鶴瓶 の奇行が映し出されていました。
村の美老女である八千草薫の胃癌を隠し通し、他人の胃潰瘍の胃カメラ写真までわざわざ撮影して、彼女は胃癌ではなく、胃潰瘍であると、主張し始めるのです。
八千草薫の娘が、(本当の)女医という設定となっており、その女医が母親の病状を確認するために、診療所に尋ねてきた時も、嘘を貫き通し、逆に女医の納得まで勝ち取ってしまうのです。
診療所から姿を消した 謎 がすこしづつ判明 (患者の家族とのトラブル という言葉や、医者・鶴瓶 がニセ医者であったことが判明) してきたところに、新たな謎が生まれてきました。
新たな謎が発生しているうちに登場人物においては新たな感情が生じてきました。
華やかな登場シーンから、ちょっと大人しくしていた若き研修医 瑛太 が、研修期間が終了しても、この診療所に残りたいと、(ニセ)医者・鶴瓶 に訴えてきたのです。
このような展開なるのは、なんとなく感じてはいました。
登場当初は都会的な雰囲気を強調していたものだから、医者・鶴瓶 との異質者同士の葛藤があるのかな、それを、ベテラン看護士が溝を埋めていくのだろうな、 と思っていたのです。しかし、いつ、そんな局面がくるのかなと思っているうちに、子供の往診に行って、そして、子供が寝付けるようにと絵本を読んで聞かせているシーンが提示されてからは、その考えが揺らぎ始めたのです。
結局は 異質者同士の葛藤も、ベテラン看護士の見せ場も無く、飼い慣らされたごとく、余りにも素直すぎるストーリーに拍子抜けしてしまったのです。
そのような葛藤を使わずにいたことを考えると、俄然、胃癌を頑なに胃潰瘍であると言い張った ニセ医者・鶴瓶 の謎に今後の鑑賞が集中していくのです。
美老女・八千草薫の娘である女医 と (ニセ)医者・鶴瓶 の病状を巡るヤリトリの中に、妄想を喚起されたことがありますので、それを告白してみます。
二人の対峙を見て、ニセ医者・鶴瓶 はこの女医に ある部分において優位になりたかったのではないか?
という思いに駆られたのです。
女医は 美しく、若く、そして医師免許を持っている。 片やニセ医者・鶴瓶 は 若くはなく、美しくもなく、医師免許を持たない身なのです。 そのことを念頭にして、二人の会話を観ていると、全てにおいて負い目を感じている ニセ医者・鶴瓶 が彼女に勝るものとしては。彼女の母親の 命 を握っていることなのだなと。思ったのです。
勿論、胃潰瘍を胃癌であると言い張ったのは、娘が医者であることは知っていても、会う前のことなので、整合性が取れているわけではなく、この時点でのボクの勝手な妄想に違いないのですが、その様に感じてしまったのです。
女医との会談の中で、ニセ医者・鶴瓶 の挙動がおかしくなった瞬間があります。
女医の次回の里帰りが 1年後になると聞いて、
「1年後って、あなた.......」 と絶句したのです。呆然としながら
すぐ戻ります と言い残して バイクに飛び乗って そのまま失踪してしまったのです。
恐らく、このままの処置だと 1年後には女医の母親である八千草薫は死んでしまう。
その事実にこの女医は関わることがないことに対して、何らかの感情が生じたのでしょう。
必死になって、バイクで村から逃げていく ニセ医者。途中で八千草薫に白衣を脱ぎ捨てる姿を見せ、医薬品会社の人間に彼女の本当の資料を渡して、そして逃げていったのです。
このシークエンスにおいて特徴的な演出がされていました。
ニセ医者・鶴瓶 の姿はロングショットか後姿でしか捉えていないのです
監督は ニセ医者・鶴瓶 の表情を追うことを意識的に避けているのです。
それによって、ニセ医者・鶴瓶 はどんな気持ちで この村を後にしたのか、
何故、胃癌を隠していたのか を 謎 のままにしているのです。
謎 の持続に成功したのです。
これによって、胃癌を隠し通した謎と、失踪の本意 についての謎解きに興味を持たせながら、鑑賞者を終結まで引っ張っていくことができるのです。
謎解きを見守っていきたいと思います。
第3回目 (2月19日 アップ分)
医者・鶴瓶 が ニセ医者 であることが判明した後の村人の反応は、一様に 批判的なものでした。
ここにきて、医者・鶴瓶 蒸発後の 村人たちによる評価という 客観的な人物像に、激変が生じたのです。
一方の 蒸発前の彼の医療の関わる姿を見てきたボクの 主観的な人物像に対しては、彼がニセでろうと基本的には変わることも無いのですが、唯の1点、何故、胃癌を隠し通そうとしたかについての 謎 だけが、纏わり付いているのです。
やがて、ニセ・医者 判明後のコメントで 疑問に生じる場面に出くわすのです。
刑事と 研修医・瑛太 との会話で
研修医・瑛太 は、医者・鶴瓶 に 「違和感を持っていた」 と言うのです。
これを聞いて、ボクの頭の中に大きな 「?」 が生じていったのです。
田舎の診療所に勤務している 医者・鶴瓶 と 都会からの 研修医・瑛太 との何らかの葛藤は、今作が開始された時から、ボクが望みながらも、実現されなかったものなのですから。
それを期待させておきながら、瑛太 はすぐさま、医者・鶴瓶 の丁寧な医療活動に従順にも同化し、ついには、研修後もこの診療所に残りたいとまで訴えるようになったのではないでしょうか?
この診療所に残ると言い出したのは 医者・鶴瓶 の医者としての姿勢に感銘を受けたからではないでしょうか?
そんな彼が 医者・鶴瓶 が ニセ医者 であったことが判明した途端に、医者・鶴瓶 に 「違和感 を感じ」、「目を光らせていた」 とまで言っているのです。
おもしろいな と思いました。
【マンションの1室、母親への1カットズーム・アップ 】 や 【失踪する ニセ医者・鶴瓶 の表情を排除したシークエンス】 とビジュアル表現で興味深い場面がありましたが、登場人物の発言や行動の中で、興味を惹く場面が少なかったので、逆に 吉田美和監督作品なのにと、こちらが 「違和感」 を感じていたところなのです。
(と言っても、彼女の作品は 「ゆれる」 しか観ていないのですけれどね)
「ゆれる」 では表面上の人間関係と そのウラハラに心の奥底にある 闇 を感じていたので、
研修医・瑛太 のこの不整合の局面を見て、やっと来たか! と おもしろがってしまったのです。
そのぐらい、研修医・瑛太 のこの発言は、ボクにとっては、予想外のものだったのです。
医者・鶴瓶 と同化し、診療所に残りたいと訴えた 研修医・瑛太 に 「違和感」 を持っていたとは思えず、
逆に 医者・鶴瓶 は 彼に対して 自分は 「医者の資格が無い」 とまで言うのですが、全くの「違和感」 など持たない 研修医・瑛太 は
「医者の資格が無い」 の意味を
「医者としての資格が無い」 の意味に履き違えて、自分の父親こそ、病院経営にしか興味を持たない
「医者としての資格が無い医者」 として、その対極にいる医者・鶴瓶 の態度を讃えてさえいたのではないでしょうか?
本心を悟られないための小芝居
一言で言うとそんなところなのでしょうが
研修医 と言えども、医大に受かって、医師免許を取得した身なのですから、そのプライドが言わせた言葉だったのでしょう。
そんな彼が無条件に心酔してしまった医者が、医大にも通わず、医師免許を持たない ニセ医者であったわけですから、ましてや、「医者の資格がない」 「ニセモン」 だと告白されても、その真意に近づきもできなかったわけですから、プライドを守るための防衛本能が働いたとしてもおかしくはないのでしょう。
「今、伊野 (ニセ医者・鶴瓶) が戻ってきたら、ここの人はどうするだろう。
また、黙って偽者を頼るかな?
案外、袋たたきにあって、山ん中 埋められるのは、僕らの方かも知れない」
と刑事がつぶやいてこのシークエンスは終わるのですが、
ここでまた、無医村の問題がそれとなく投げかけられたのです。
そしてこの次に繋がるシークエンスこそが、ボクのこの気持ちを支持してくれる、興味深いものだったのです。
夜の田んぼを掻き分けるようにして (ニセ)医者・鶴瓶 を探す、研修医・瑛太 の姿を映し続けているのです。 必死になって探していることを考えると、 失踪当初の、未だ、ニセ医者であることががバレる前の時制のシーンのはずなのですが、研修医・瑛太 が 「違和感」 を感じ、「目を光らせていた」 という小芝居の直後にインサートされたこのシークエンスは、その発言を受けての 研修医・瑛太 の心象を表すシーンだと、ボクには受け止められたのです。
刑事には、ニセ医者・鶴瓶 を慕っていたという 本心を悟られないように、 「違和感」 や 「目を光らせていた」 という言葉を吐いてはみたものの、良心の呵責に耐えかね、贖罪の気持ちで、(ニセ)医者・鶴瓶 を探すという行為がここに挿入されてきたのではないか、という想いになったのです。
その行為は、人を探すといよりは、物体を探すような仕草だったことも 興味深く思いました。
まるで 遺体 を捜すように思えたのです。
鶴瓶 が脱ぎ捨ててしまった 「医者・鶴瓶 のヌケ殻」 を探しているようだったのです。
「違和感」 発言の直後に このシークエンスが配置されると、そこに先ほどの 「贖罪」 という意味を感じざるを得なかったのです。
というか、逆にこのインサートカットによって 、研修医・瑛太 は 医者・鶴瓶 に 「違和感」 など感じていなかったことを、ボクは確信したのです。
でも、その後に続く、ニセ医者・鶴瓶 が 実家に電話を掛けるシーンは興ざめでした。
あの村を出て行く ニセ医者・鶴瓶 の表情を徹底的に排除しておきながら、
このタイミングで彼の顔を映す必要性を感じなかったのです
(しかも、あのラスト・カットを用意しているのなら、全くの蛇足にすぎないのではないか?)
そして秀逸だった、マンションの1室へのズーム・アップ において表現されてきた、母親や父親の存在で充分であると思えるのに、再登場させたメリットが理解できずにいたのです。
そして、名門 医科大学を卒業した 父親への コンプレックスを今さら訴求されたところで、それまでの流れて充分に感じているのに、これも蛇足だな と思えたのです。
「違和感」 発言 のちょっとした波乱、とその後の時制をこえた 「探す」 心象カットの秀逸さに比べて、
公衆電話の蛇足はとても残念な気持ちになったのです。
そんなことを感じていたら、今作の 謎 、どうして 八千草薫 の病状を 胃潰瘍であると 嘘をつき通したのかについての解答がなされたのです。
「あの先生なら、どんな風に母を死なせたのかな?」
という発言が、八千草薫 の娘である女医からなされたのです。
そうか、胃癌 は発見された時にもはや、手遅れ の状態だったのか........。
その瞬間に、ニセ医者・鶴瓶 に対するボクの主観が変わっていったのです。
死んでいく 八千草薫 に精神的苦痛を与えないように、胃潰瘍である 嘘 をついていたのだと
理解したのです。
そして、彼の失踪の謎 も、ニセ医者 であることがバレたからではなく、
八千草薫の最期を 娘である女医に看取ってもらいたいと願ったからこそ、
胃癌の事実がわかるようにして、身を隠したのだ、ということが理解することができたのです。
序盤 に気になった、彼に対する、第3者からの 客観的評価 は地に落ちたとしても、ボクの彼に対する 主観的評価は、紆余曲折しながらも、結局は変わることはなかったのです。
診療所が閉鎖された後の寂しいカットの後、ガツン と記憶を呼び覚まされ ショック を受けたシークエンスがありました。
ベテラン看護士・余貴美子 の息子が 喘息の発作にみまわれ、咳き込んで苦しんでいる有様に対して、医療行為が許されない、母なる看護士は、ただ、息子の背中をさするながら
「よくなーれ」 「よくなーれ」 とおまじないをするしかないのです。
ニセ でも 医療行為をしてくれる者の存在が、この無医村にはいかにありがたかったかを、
再確認した、瞬間だったのです。
そして、中盤に挿入されていたエピソードも思い出したのです。村の青年が事故に遭って診療所に担ぎ込まれた際、
処置に戸惑っている (ニセ)医者・鶴瓶 にたいして、この ベテラン看護士 は救急救命室にいたその経験から、処置法を (ニセ)医者・鶴瓶 に詳細に渡って教示をするのですが、
そこにおいて、看護士は医療処置をすることができないジレンマを伝えていたのです。
まさにそのジレンマを、このやるせないシーンで訴えていたのです。
いくら豊富な医療知識があったとしても、医療処置が許されない看護士である母にとって、
たとえ ニセ であっても医療処置をしてくれる者がいるといないでは雲泥の差があるのです。
医療処置が許されない母に出来ることは、息子の回復を願いながら、背中をさすって
効き目があるのかおぼつか無い 「よくなーれ」 という呪文を唱えるしかないのです。
非常に、胸に刺さる 1シークエンスだったのです。
と感心していたら、理解不能な 駅でのシークエンスに繋がっていったのです。
同じことを主張しますが、表情を排した、村からの 失踪 からは一切、
ラストのあのタイミングになるまで、ニセ医者・鶴瓶 を画面に入れる必要はないと思うのです。
そんな不手際なシークエンスを経て、今作は、今作の真骨頂の境地で終えていくのです。
八千草薫 が気だるく病院のベッドに寝ているところに、お茶をサーブする病院係員がやって来ます。
お茶を受け取る彼女がその係員の顔を何となしに見た表情が、驚きの表情に変わりました。
「?.........。 !」 と。 何だろう? と思い、次に そうか! と気付いた瞬間。
その係員は ニセ医者・鶴瓶 であったのです。
給仕服に身を包んだ 元ニセ医者・鶴瓶 がいたのです
最初は愕きの表情の 八千草薫。 そこには警戒の色も伺えます。
でも次の瞬間 今作の真骨頂とも言うべき瞬間がやって来るのです。
元・ニセ医者、現・病院係員の 鶴瓶 は 八千草薫 が自分を識別した瞬間に堪えきれずに
人なつこい笑顔を見せてしまうのです。
その笑顔につられて 八千草薫 もカワイらしい笑顔になった途端に 今作は終わりを告げていったのです。
実に今作らしい終わり方であると思いました。
今作の序盤、医者・鶴瓶 の失踪という、ちょっと重い始まり方をしながらも、医者・鶴瓶 の飄々とした性格に救われながらも、「失踪」 という問題が消えたわけでもないのに、ホッとしてみたり。
老人のご臨終の席で 老人介護の重い現実を見た思い出いたら、いきなり蘇生して、村を上げてのお祭り騒ぎに湧きながらも、「老人介護」 という問題が消えたわけでもないはずなのに。
八千草薫 が末期の胃癌というシリアスな局面において、鶴瓶 の登場に、思わずホッコリしてしまう瞬間で終わるのですが、勿論、胃癌が無くなったわけでもなくいのに、独特の世界観で 「陰」 から 「陽」 への転換がなされていったのです。
問題提起はする。 でも 「暗い」 まま終わらせない。 しかし、問題解決はしない。
という立ち居地が 悪くなく、今作のこの終結方法も、何故かしら納得のいくものだったのです。
しかし、何度も主張するように、最期の 鶴瓶 の笑顔と それにつられて笑顔する 八千草薫 の図
で終えるのなら、あの村を 失踪してからの 鶴瓶 の表情はもとより、姿、存在に至るまでの表現を
自粛して欲しかったと思うのです。
第3者による評価という 客観的事実 を頼りに、ニセ医者・鶴瓶 の本意を想像し続け、
あのラストの一瞬だけに実体を表し、その一瞬のインパクトで、元・ニセ医者、現・病院係員 鶴瓶 の主観像を築きあげた刹那に終わっていく。 そんな効能がある終わり方にして欲しかったのです。
きっと 鶴瓶 は 医者としては無理だったけど、病院係員と言うみじかで等身大の立場で、八千草薫 を看取ったのでしょうね。 そう思うと 静かに心が熱くなっていったのです。
完成! 「ゴッドファーザー PARTⅡ」 [DVD 車内鑑賞レビュー]
この二つの時代を横断する
「感情の相似 ― 似ている点」 と
「環境の相違 ― 違う点」
が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。
しかし、
「感情の相似 ― 似ている点」 は跡形も無く消え去り、
「環境の相違 ― 違う点」 のみが強調され、
“憐れなほどの格差” に苛まされることになります。
第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを襲う過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制のラビリンス」 が、
今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。
実に、残酷で芳醇な逸品だったのです。
前作 第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、2代目を継いだ
マイケル の “その後の物語” と、
一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親
ヴィトー の “若かりし日の物語” がリンクする、
非常に意欲的な構造を今作は成しています。
そんな今作のファーストカットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと共に、ゴッドファーザーとしての役割を “物憂い” 表情で行っている 二代目・マイケル を映し出してきたのです。
この時点で、ボクは
今作の性向を察知
するべきだったのです。
ファーストカットからして、 マイケル は
“物憂い” 表情 という、
判りやすい態度でいてくれたわけですから。
【 父親・ヴィトー の大帝国を引き継いだ 三男・マイケルの “その後の物語”
と
父親・ヴィトー の “若かりし日々” がリンクしてくる。 】
そんな今作のプロットから推測して、ボクは、二つの時代に展開していく “成長と成功” を体感できるものと、
大きな勘違い
をしてしまったのです。
一方は、“成長と成功” を獲得していくが
他方は真逆の悲惨な状況に陥っていく。
今作はそんな、過酷な展開をしていったのです。
この皮肉なストーリーを今作は、ある “象徴的なモノ” に託してタイトルバックに
結実させていたのです。
“象徴的なモノ” それは、
マイケル が座っていた
書斎の 重厚な椅子。
その年季の入り具合から、先代・ヴィトー の時代から使われ続けている物だと推察することができます。
先代・ヴィトー の様々な局面を身近に見守ってきて、これからの 2代目・マイケル の諸行を目撃していくこの椅子こそが、
2世代の物語を俯瞰していく
今作のタイトルバックに、最適な被写体であったのです。
しかも、椅子というモノが暗示する事柄を考えると、その想いはひときわ重くなるのです。
椅子が暗示するもの
それは、 「地位」 。
若かりし ヴィトー が如何にしてこの 「地位」 を築き、
若き マイケル が如何にしてその 「地位」 を保つために、悲惨な人生に
堕ちていくのか。
そんな今作の世界観を象徴するこのタイトルバックに、
ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。
この素晴らしいオープニングショットの後、
映画は ヴィトー 9歳時の過酷な運命を語ってきました。
辛い経緯の後、シシリー島を追われるように彼は、9歳の身で単身アメリカに逃れてくるのです。
移民船がニューヨークに近づき、デッキの移民たちが無言で一つの方向を
見つめている。
勿論、幼きヴィトーもいる。
その視線の行き着く先に、 自由の女神 が静かに姿を見せてきたのです。
この映像を、郷愁を湛えた音楽が包み込んでいきました。
「不安と夢」 が混ざったこの船上に、自分の命を守る為に9歳の男の子がいることに、
言いしれない 哀しさ
を感じたのです。
検閲官に名前を聞かれ、ヴィトー が英語を話せないでいると、
“コルレオーネ村の ヴィトー・アンドリーニ” という名札を誤解され、
台帳に ヴィトー・コルレオーネ と記入されてしまいます。これが彼の本名となっていきました。
それだけ、この9歳児は アメリカ大陸においては
“何もできない存在” だったのです。
今作は、天然痘の疑いでエリス島に隔離された収容所の窓越しに、 ヴィトー
が自由の女神 を虚ろに眺めている
1901年 から “ オーバラップ ” という技法を用いて、 もう一つの時制、
1958年 2代目・マイケル の時代に、移行 していきました。
“ オーバーラップ ” という技法は
「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
先行する 【 カット 「 A 」 】 が徐々に薄くなるや、
次なる 【 カット 「 B 」 】 が現れ始めて、
2つのカットが重なりあいながら
ゆったりと場面移行をしていく表現手法を指します。
この手法を今作は、
「 A 」 で生じた 感情 を 持続 させながら、
「 B 」 という 状況 に 移行 する為に、
効果的に活用しているのです。
9歳時の ヴィトー からの “オーバラップ” 先 は 同じ年頃の アンソニー・ヴィトー・コルレオーネ のキリスト教儀式の場でした。 名前に ヴィトー の文字がある通り、彼は ヴィトー の孫、マイケルの息子にあたる少年なのです。
英語が話せず、孤独で不安、粗末ないでたちの ヴィトー と、
キレイに着飾った孫の アンソニー。
その後の、盛大な聖餐会をしてもらえる アンソニー と
一人寂しく隔離されている ヴィトー 。
このように、
同じ年頃 ではあるが、
違う環境 にいる 二人の、
57年間の 大きな隔たりを繋ぐ “オーバーラップ” の見事さに
感動したのです。
この “オーバーラップ” の素晴らしさに触れて、ボクは、早くも今作の ”映画のルール” を見つけた思いになったのです。 それは
【 父親・ヴィトー と 2代目・マイケル の時代は、
二つの時代に共通する要素を 「ブリッジ」 にして、
“オーバーラップ” で繋いでいく 】
というものでした。
そして、このような “ルール” で活用されていく “オーバーラップ” という
表現手法は、 2つの時代に共存している
「相似」 点 ― 似かよっている点 と
「相違」 点 ― 違いがハッキリしている点 の
コントラスト をしっかりと描いていくはず。
とこの時点のボクは 大きな期待を持ったのでした。
2代目・マイケル の時代に今作のストーリーを推進していく事件が勃発しました。
あろうことか、マイケル の自宅にマシンガン攻撃がなされたのです。
驚愕する マイケル 、騒然とする “ファミリー” の面々 。 平静を装って子供を寝かし付ける彼の横顔に
“オーバーラップ” してくる
青年の姿がありました。
時は 1917年 ヴィトー 25歳。
今作は1児の父親となっていた ヴィトー の時制へと “オーバーラップ” していったのです。
9歳の時、自分の名前を主張できずに ヴィトー・コルレオーネ という名前になってしまった、あの何もできなかった孤独な少年が ロバート・デ・ニーロ に成長していたのです。
今回の時制移行が、それ以降の “オーバーラップ” 表現の指針となったわけですが、
この、2代目・マイケル と デ・ニーロ 演じる若かりし日の 父親・ヴィトー の2つの時制を結ぶものが
寝室を銃撃された直後、マイケル が息子を気遣いながら寝かし付ける
「父親の顔」 と
デ・ニーロ 演じる ヴィトー の、ベビーベッドにいる 長男 を見守る
「父親の顔」 への
“オーバーラップ” となっていたのです。
時代は違えど、子供を気遣う 普遍的な感情 を見て、心が暖かくなっていきました。
これがボクの言う
「相似点」 ― 似かよっている点 を
象徴するカットだったのです。
しかも、 “似通っている点” の中でも、 “人の想い” に注目していることから、
今作は
【 「感情の相似点」 - 時代は違えど、共通する 人の想い - を
「ブリッジ」 にして2つの時制を “オーバーラップ” で繋いでいく 】
という、映画のルール によって進行するものと、思い込んだのです。
2代目・マイケル の時代に 今後の展開を占う、重要な人物が登場してきました。 父親・ヴィトー の世代から取引がある マイアミの大物 ロス という人物で、マイケル はこの ロス なる人物が
自分達を襲わさせたのでは、
と疑い始めていきます。
しかし、マイケル は、その ロス と、キューバのハバナにカジノを設立するという大きな事業を始めていたのです。そんな疑念を胸に抑え、ハバナで ロス と行動を共にする マイケル ですが、その中で ロス に利用されている人物がファミリー内にいることを察知するのです。
その内通者が誰あろう、
自分の兄の フレド
であったのです。
フレド は ヴィトー の次男で
( 長男の ソニー は第一前目 「ゴッドファーザー」 で射殺され、
マイケル は三男 )
およそ、コルレオーネ家の者とは思えない おマヌケ、ダメ男キャラなのです。
この事実に対して マイケル は、老練の ロス と実兄の フレド に対してどのような処置を行うのかを見守っていたら、何と、唐突に
キューバ革命が勃発 したのです
(すごい展開)
動乱の中で ロス の殺害に失敗をし、
混乱の中で フレド は マイケル を恐れて逃亡。
という散々な結果になったのです。
しかも、アメリカに戻ってきた マイケル に次なる不幸が襲い掛かります。
ハバナに留守中の間、奥さんが流産をしてしまったのです。
命を得ることができなかった自分の子供を思い、落胆の表情をうかべている マイケル から、どうやら “オーバラップ” されて、 デ・ニーロ 演じる ヴィトー の世界へと移行していくようです。
と、その時、気付いたのです。
ボクは今作の主人公であるところの、
二代目・マイケル のストーリーよりも、
若き日の父親・ヴィトー の物語を
欲っしていたことを。
マイケル のストーリーを追いつつも、心のどこかで、
早く “オーバーラップ” が始まって ヴィトー の世界に移行することを願っている自分を発見したのです。
何故だろう? この問いかけを胸に、中盤以降の鑑賞を続けていったのです。
マイケルの、生まれ出ることがなかった子供を思う落胆の表情から、
“オーバーラップ” されていく ヴィトー の表情も、
「感情の相似」 ― 似かよっている 人の想い のルールの通り、
マイケルと同じく、沈みがちなものでした。
今回の ヴィトー の表情は 次男・フレド が原因となっていました。
前回は子供が、長男・ソニー 一人きりでしたから、今回の ヴィトー の世界への “オーバーラップ” は、前回の時制から数年経過したことがわかるのです。
そんな時間の経過を表すとともに、この1920年代の 赤ちゃんの フレド は、1958年現在の 次兄・フレド が、家長たる 三男・マイケル の不興を買って 微妙な “困ったちゃん” 状態だったことを思い出させてきたのです。 そこには
肺炎にかかり民間療法を嫌がり泣く姿が提示されてきたのです。
フレド は赤ちゃんの頃から脆弱で厄介な存在であったようなのです。
そして、そんな憐れな次男を、耐え切れない表情で見守る ヴィトー がいるのです。
その瞬間、気が付いたのです。 そうなのです。 これなのですよ。
ボクが 今作の主人公 二代目・マイケル よりも、若き父親・ヴィトー に気持ちが惹かれてしまうのは、
彼の
人間味溢れる側面
に魅了されていたからなのです。
前回の ヴィトー のシーンにおいても、盗品カーペットの上に、赤ちゃんのソニー を立たせて、ささやかな幸せを喜ぶことができる ヴィトー をボクは微笑ましく見ていたのです。
そして、
9歳時の、何もできなかったあの子供が、
親の愛情に触れることがなかった憐れな少年が、
やがて結婚をし、子供を慈しむ大人に成長していたのが
嬉しかったのです。
しかし、ヴィトー の世界を見守るボクの気持ちの中には、もっと複雑な感情が芽生えたことも事実ではあったのです。
それは、第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、老年となった ヴィトー が
農園で死を迎えたことを予め、
目撃
していたことが原因となっています。
ボクは、ヴィトー 9歳の初登場シーンの時点において、彼の死を どうしても意識してしまっていたのです。
そして、立派になった ヴィトー の 成長を喜んでも、彼の終焉の光景が ついて回っていたのです。
ましてや、そんな ヴィトー を嬉しがらせた、生まれたばかりの ソニー に至っては、
第1作目 「ゴッドファーザー」 において抗争の果てに惨殺され、老年となったヴィトー がその死を悼み
悲しみに打ちひしがれる姿を
目撃
してしまっているのです。
全ての人に訪れ、逃れることができない 「死」 、 そんなものが、ヴィトー の物語に特別な感情を付加していたのです。
9歳時の哀れな ヴィトー と 、 農地で息を引き取った彼の最期。
この両面を見てしまった者としては、青年・マイケル が 第1作目 「ゴッドファーザー」 の経緯を経て、二代目の1959年の今を生きる姿より、 どうしても、デ・ニーロ ヴィトー の
人生の深遠さに
関心が移ってしまったのです。
そんな デ・ニーロ ヴィトー が登場して、第2回目となる今シークエンスにおいて、
彼の人生に
大きな転機 が訪れます。
裏稼業の障壁である地元のマフィア、 ファヌッチ という人物を殺害することになるのです。
そして、コトを終えて帰宅した彼を迎えたのが “3人の息子” だったことに、ボクは大きな意味を感じたのです。
何故なら、裏稼業に立ちはだかる 大きな障壁を排除した この時点で、
三男の マイケル が 生まれていた ことによって、
若き父親・ヴィトー と 1959年の 2代目・マイケル の間に、
「相違」 ― 違いがハッキリしている点
が生じてきたことに気付いてしまったからなのです。
「相違」 ― 違い は 2つ発生していたのです。まずは1つ目
2代目・マイケル が流産によって子供を失っていた一方で、
若き父・ヴィトー には 次男・フレド、そして、自分を継ぐことになる
三男・マイケル が誕生しているのです。
そして、2つ目
若き父・ヴィトー は障壁となっていた 地元のマフィア ファヌッチ の殺害に
成功するが、
2代目・マイケル は 自らを襲撃した マイアミの ロス の殺害に失敗して
しまうのです。
この2つの 「相違」 ― 違いがハッキリしている点 が、
父・ヴィトー と 子・マイケル の間に横たわる、
大きな 「相違」 の
始まりとなっていったのです。
暗殺し損ねた マイアミの ロス の反撃にあって、
“政府の公聴会” という場において
マフィアのボスであることの追及
が行われたのです。
この局面において、家族 を、そして “ファミリー” を引きいていくことの憂いを滲ませた マイケル の横顔 から、念願の ヴィトー の時代に “オーバーラップ” していったのです。
「 子宝に ― 恵まれる ⇔ 恵まれない 」
「 障壁を ― 排除した ⇔ 排除できない 」
という2つの時代の 「相違」 ― 違いがハッキリしている点 が提示された直後の今回の時制移行は、
【 2つの時代に 普遍的 にある
「感情の相似」 ― 似かよっている 人の想い
を 「ブリッジ」 にして “オーバーラップ” によって移行する 】
と思い込んでいた今作の “ルール” が崩れていったのです
何故なら、憂いた マイケル の表情から “オーバーラップ” されていった ヴィトー は、いたって普通の表情でいたのです。
この表情の違いを観てボクは、父・ヴィトー と 子・マイケル が共有していた、
「相似していた感情」 ― 似かよっている点 は
消滅 をし、
逆に ヴィトー と マイケル を取り巻く “環境” に大きな差異が生じ 始め
「相違する環境」 ― 違いがハッキリしている点 が
クローズアップされる
予感 を持ったのです。
そんな予感を振りまいた今回の ヴィトー のシークエンス終わりは、彼の初めての会社を立ち上げて、“ファミリー” の基盤を築いた充足感に満ちた場面だったのです。
この象徴的なシーンから マイケル の時代に “オーバーラップ” していくのですが、
もはや
「感情の相似」 ― 似ている点 が消滅し、
「環境の相違」 ― 違いが が強調されていく予感の
今作において
初代・ヴィトー のように、 “成長 と 成功 ” に満ちた表情で、
2代目・マイケル に “オーバーラップ” していくことはない。
と思いながら観察していくと、 次なる マイケル が置かれた舞台は
非常にシリアスな場面。
政府による、公聴会の現場 であったのです。
公聴会という危機を脱する過程において マイケル は実兄の フレド を排斥し、
妻の ケイ には家から去られてしまいます。
決定的だったのは、ハバナの動乱中に流産した子供が、実は妻の ケイ によって堕胎されていたという事実でした。
「あなたの子を この世に生みたくなかった」 と言われて激高するマイケル。
兄弟という関係の解消、 妻からの憎悪 という、
彼を支えていた
「絆」 が急激に
崩壊 し始めていったのです。
この決定的に 負 の方向に陥っていく マイケル の人生とは対照的に、今作は待望の ヴィトー の時代に “オーバーラップ” し始めるのです。
いや、違います。
“オーバーラップ”
しなかった のです。
“ オーバーラップ ” という技法は
「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
「 A 」 という “感情” を 継続 させながら、
「 B 」 という ”状況” に 移行 していく為に
今作においては、効果的に使われているのですが、
この局面に至って今作は
2代目・マイケル の (陰鬱な) “感情” を継続させながら、
初代・ヴィトー の (成功の) “状況” の中には移行することが
ない。
という宣言を、
制作者の文脈においてなされた。
と理解したのです。
今回は “オーバーラップ” が活用されなかったのですが、それに代わってどのような表現手法になったかと言うと、 単純明快な “カット繋ぎ” となっていたのです。
「マイケル の時代と ヴィトー の時代には関連性など全くありません。」
と態度を急変させるように、
何の加工処理も施されない、単純明快な “カット繋ぎ” に代わっていたのです。
( 注 2つの時代間の移行方法は全て “オーバーラップ” によるものではなく、
1 部において “カット繋ぎ” が採用されていました。
しかし、今回の “カット繋ぎ” だけは他のものとは違い、上記のような
特別な狙いを感じたので、それを強調するような文章表現となっています。
また、 これ以降にも “オーバーラップ” が再び登場してはきますが、
もはやその時点においては 映画のルール の効力を失っていたのです。
しかし、この 映画のルール は、エンディング間近に非常に大きな効果を
発揮してきたのです。 )
陰鬱な マイケル の世界をスパッと断ち切るように、ヴィトー は太陽算燦々の生まれ故郷である シチリア に、錦を飾りにやって来たのです。
ヴィトー の一時帰郷は、ある一つの目的に集約されていたのでした。
思い出しました。彼が9歳の時、
何故、 生まれ故郷を後にしなければならなかったのか、 を。
それも、たった一人で ............。
地元のマフィアに家族全員を殺害され、彼自身も命を狙われたからこそ、逃げるようにしてアメリカ移民の船に潜り込んだのです。
彼は復讐の為にシシリーの地にやって来たのです。
過酷な運命を強いてきた地元のシシリーマフィアを殺害する ヴィトー ですが、それは、
殺された家族、そして、
自分への仕打ちに対する復讐
には違いないのですが、
第1作目の 「ゴッドファーザー」 と、続編となるこの 「ゴッドファーザー PART2」 を鑑賞してきたボクの頭の中には、
大きな妄想 が
展開されていったのです。
この ヴィトー の復讐は、彼をシシリーから追い出し、その結果、彼をアメリカのマフィアにならしめ。
それ故、第1作目 「ゴッドファーザー」 においては 長男・ソニー が抗争によって殺害され、、
この続編 「ゴッドファーザー PART2」 に至っては、1959年、2代目・マイケル が
その地位を維持するために、人間として大切な一切を失ってしまう悲劇
までをも含めて、
コルレオーネ・ファミリー という マフィア であるが故に直面する
全ての “不幸” に対する
根源的な復讐 だったのだ。
という思いに駆られたのです。
ヴィトー の復讐劇は、長男・ソニー や 三男・マイケル はまだ子供でしかない1920年代の出来事なので、未来の1950年代に対する復讐、なんていう妄想は現実味があるはずもありません。
しかし、今作のように、時制が縦横無尽に行き来する構造の作品においては、
敢えて、「時制のカオス」 の中に、
迷い込んでみる主義 ですので、
どうしょうもなく、こんな不条理な感覚を得ることができたのです。
この
「瞑想のラビリンス」 は
久しぶりに味あうことができた極上の境地であり、
ボクは個人的に
大きな満足感を
得ることができたのです。
積年の思いを果たした ヴィトー は列車の上で 三男・マイケル を抱いて、見送りにきた人々に手を振ります。およそ20年前、惨めに故郷を後にしなければならなっかた
自分の姿を復権させた
誇らしさに満ちた表情で。
こうして ヴィトー の 物語は “自らのオトシマエ” を付けて終わりを告げていきました。 今は裏家業においての小さな存在ではありますが、
過去の呪縛を葬り去った
この出来事をキッカケにして、
一大コルレオーネ・ファミリーを育て上げるサクセスストーリーが展開していくのでしょう。
片や、2代目・マイケル のラストのシークエンスは、疑心暗鬼の末、ダークな面に身をやつすことになるのです。
公聴会で反旗を翻した裏切り者や、敵対していたマイアミの ロス を殺害し、粛清の嵐を巻き起こしていったのです。その動きに加え ロス に利用されていた実兄の フレド を マイケル は、あろうことか、
射 殺
(えッ !!... ?)
危険な予感がする全てのモノを排除し、自分の立場を維持するために自らの兄貴まで殺す。 そんな マイケル の姿を見て、
常軌を逸した 孤立感 に苛まされて、
彼の精神が 「崩壊」 をきたしていたことを
初めて知ったのです。
凄まじいほどの虚無感に包まれた マイケル の佇まいから 今作は最後の
“オーバーラップ” を企てていくようです。
“ オーバーラップ ” という技法は
「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
「 A 」 という “感情” を 継続 させながら、
「 B 」 という ”状況” に 移行 していく為に
今作においては、 効果的に活用されていた技法ですが、
今作がこのような “プチ 「地獄の黙示録」” とも言うべき
モラルの倒錯、 精神崩壊
の異常局面にあって、
コッポラは一体全体
この “感情” を
どの “状況” に
繋いでいく気なんだ ?!
と混乱気味に事の成り行きを伺っていたら、
何と、 今作は極上の時制に飛んでいってくたのです。
いきなり 今は亡き 長男・ソニー に繋いできたのです。
ビックリ しました。
このシーンはどうやら 第1作目 「ゴッドファーザー」 の数年前 というところでしょう。
ヴィトー の誕生日を祝うファミリーパーティの為、家族全員で ヴィトー の帰宅を待っている場面になります。
長男・ソニー は陽気で喧嘩っぱやく、この家族の若きリーダーとして振舞っている。
三男・マイケル はまだ大学生で 第2時世界大戦に志願したことを家族に告げている。
ソニー が マイケル の入隊志願に立腹し、それに対して意固地な態度を取る マイケル は、 今日のこの日、父親の 誕生日を祝う雰囲気をブチ壊し にしているのです。
そんなタイミングで誕生日の主人公 ヴィトー の帰宅の気配。
長男・ソニー、次男・フレド、妹・コニー、母親、顧問弁護士のトム 等、ファミリー の全員が 父親・ヴィトー を出迎えるためにダイニングを出て玄関に向かって行きました。
唯一人、マイケル を残して。
賑やかだったけど、今は寂しい食卓に、ポツン一人で座っている マイケル。
ちょっと離れた玄関では、ヴィトー の誕生日を祝う歓声が上がっている。
しかし マイケル はただ独りで 座っているしかないのだ.......。
このシークエンスは 多くの感情を訴えてきたのです。
長男・ソニー
陽気で人情家の親分肌。かなり血の気が多いけど心底、父親・ヴィトー を慕っていることがわかります。 2代目を彼が継いだら、父親の経験値を生かして、きっと良いリーダーになったことだろうな、と思わせてきました。
次男・フレド
海軍へ志願した マイケル に向かって 「偉いよ、おめでとう」 と握手を求め、
唯一人、彼の志を評価している。
そうなのだ、 この男は ダメキャラではあるけど、人の気持ちがわかる、優しい兄 だったことが、ここでわかるのだ。
そして、このシークエンスは 長兄・ソニー の良き “じゃれ合い仲間” として描かれており、ソニー が2代目を継いだ時の、組織の良き “緩衝役” になれそうな思いも持ったのです。
三男・マイケル
長男・ソニー がリーダーとなって 父親・ヴィトー を祝う場面に去ってしまい、彼の近くには誰も残っていない、この光景は、
父親・ヴィトー の “人を引き付ける力” と,
長兄・ソニー の “人を引っ張っていく力” 。
そして、 三男・マイケル の “人を寄せ付けない資質”
の 露呈 に他ならなかったのです。
これは、
残酷すぎる現実
だったのです。
2代目・マイケル は彼なりに 組織を維持することに腐心し、家族を愛していたはずなのに、 第1作目 「ゴッドファーザー」 よりも前のこの時制において、 既に2代目としての資質が無かったことが提示されていたのです。
ダイニングで一人でいる孤独な様が、この十数年後の 「ゴッドファーザー PART2」 における、惨めな現在の彼の姿とリンクしてきたのです。 大切な一切を無くしてしてしまい、
居所を無くしてしまった彼の 魂 が戻っていける唯一の場所が
「相似する感情」 に包まれた
このダイニングでのシーンだったのでしょう........。
長男・ソニー は銃殺され、母親 も他界。 妹・コリー とは彼女の男関係で対立し、顧問弁護士のトム はマイケルの専横ぶりに気持ちが乖離。そして、次兄・フレド はマイケル本人が殺させた........。
組織を背負い、その重圧で精神に異常をきたし、大切な一切のモノを失う男の末路を、
遥か前の時制において、そして、全く違うスチュエーションに託して多面的に訴求。
そして、“資質” という、本人には如何ともし難い要因を突きつけてきたところに、
哀しみを越えた、
憐れみ を感じ、
ボクの感情は大きく揺さぶられてしまったのです....。
2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、
この二つの時代を横断する
「感情の相似 ― 似ている点」 と
「環境の相違 ― 違う点」
が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。
しかし、
「感情の相似 ― 似ている点」 は跡形も無く消え去り、
「環境の相違 ― 違う点」 のみが強調され、
“憐れなほどの格差” に苛まされることになります。
第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを襲う過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制のラビリンス」 が、
今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。
実に、残酷で芳醇な逸品だったのです。


メモ 「ハート・ロッカー」 鑑賞中メモ [DVD 車内鑑賞メモ]

通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてモバイルPCを使っての車内執筆を実行中。
地下鉄内での通勤時間を活用してのコマ切れ鑑賞となっているため、
鑑賞中の折々なストレートな印象を、同時進行的に3回に分けて、
「鑑賞中メモ」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中メモ」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成 感想文」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を1つのものに推敲して
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
3回に分けてアップしていた 「鑑賞中メモ」 を1つにまとめたものです。
第1回目 (11月1日 アップ分)
イラク戦争終結後の くすぶった イラクを舞台にした映画。
1970年代後半から 「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 「フルメタルジャケット」 「プラトーン」 などのベトナム戦争を扱った映画が製作されていきましたが、2010年は イラク戦争を題材にした映画群の製作初年度の年になるのでしょうか。
このベトナム戦争の映画群と30年の時を隔てて製作された今作を比較してみると、
ビッグネーム揃いのベトナム戦争映画は、戦争真っ只中の 地獄 を莫大な資金をかけて再現いるのに対して、今作は 事後 の混沌の世界、戦争本番よりも、その後の 爆弾テロ に焦点を絞っているところが大きな違いとなっています。
ベトナム戦争を題材にした小品もあるのでしょうが、やはり前述の ビッグネームたちの存在が強力で、
密林を焼き切るナパーム弾の圧倒的な炎がヴィジュアルインパクトを与えていましたが、
今作を出発点とするイラク戦争を語っていく作品群の特徴点とは何だろうとの疑問を胸に鑑賞をしていきたいと思いました。映画史を考えてみると
“第二次世界大戦の華やかな勝利” を反映して
「史上最大の作戦」 「ナバロンの要塞」 「バルジ大作戦」 などの、戦争スペクタクル というジャンルを創出。
“ベトナム戦争の泥沼の末の撤退” の屈辱を受けて
先ほどの ビッグネーム 「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 によって
戦争による “モラル崩壊” や “精神崩壊” の末の “自己崩壊” が訴求されました。
この流れを汲んで今作が捉えたイラク戦争の特徴は
“戦争後の自爆も視野にしたテロ攻撃” が特徴と捉えているようです。
今作によって火蓋が切られたイラク戦争映画は今後も
“戦争後の自爆も視野にしたテロ攻撃” が訴求されていくのか、観察していきたいと思いました。
(ちょっとステロタイプな言い方となってしまいましたが、1953年 の段階で
軍隊内のモラル崩壊を、戦勝国でありながら訴求してきた
「地上より永遠に」 という作品もあることを追記しておきます)
今作はしょっぱなから、「地獄の黙示録」 の “ワルキューレ の狂気” のシーンが展開されていきました。
所謂、“ヴィジュアル的訴求点” という、予告編で多用されていくシーンなのですが、そのヴィジュアル的訴求点を開始早々に使い果たしてしまったのです。通常であれば、このようなマーケティング的に重要なアイキャッチシーンは練りに練って、中盤以降に登場させてくるものなのですが、開始早々に気前良く放出してきたところに、ちょっと心配になってきてしまいました。このシーンを越える場面を今作は提供することができるのだろうか? それとも、 ヴィジュアル的ピークを後半にもてくることが出来ずに、寂しいクライマックスを迎えてきまうのか? 注目していきたいと思います。
今作の ヴィジュアル的訴求点は素晴らしいものでした。
町に仕掛けられた爆弾が爆発する場面となっているのですが、
爆発によって地面に伝わる強い振動をマクロ的な視線でスローモーションで表現しているのです。
地面の小さな砂利が協力な振動によって、10cmほどジャンプをし、道端に打ち捨てられた自動車の残骸に付着していた錆が振動によって空気中に拡散していったのです。
このように書くと、本当にこれがヴィジュアル訴求点なの? と首を傾げてしまうかもしれませんが、この一連のカットこそが、予告編に多用されたものであり、ボクに大きな映画的興奮をもたらしたのです。
決定的瞬間をスローモーションで訴求する演出と言えば、サム・ペキンパー監督を思い出しました。
暴力や破壊の瞬間をスローモーションで捉え、今までの状態から 崩れて変容していく姿に、ある種の ダイナミズム や 美しさ を感じとれる作風でした。
確かに 爆発という決定的瞬間をスローモーションで捉え、従来の状態から 被写体が変容していく姿に、ある種の ダイナミズム や 美しさ を感じとれるシーンではありました。でも、ペキンパー流スローモーション術とは、だいぶ、趣きを異にしていたのです。
サム・ペキンパーの興味の対象は 力 を加えられたことによって変容していく、 “力の作用点” であると思っているのですが、今作における キャサリン・ビグロー監督の目線はそれとは違っていたのです。
彼女の興味点は、“力の攻撃目標” ではなく、近くにいたというだけで何の関係もない “傍観者への影響”だったのです。地面の砂利が “力の影響” によって10cmも飛び上がり、自動車の残骸の錆が “力の影響” によって空中に浮遊するさまに注目したのです。
そしてその被写体との撮影距離や被写体のスケール感が全く違うことも特筆するべきことだったのです。
砂利も自動車の残骸も 恐らく撮影距離にして10cm~50cmほどのセミマクロ的な世界観で構成されているのです。セミマクロ的な画角で、人を殺傷してしまうほどの爆発の威力を語っているのです。
砂利の一粒、ましてや錆の粒子に目を向けると、立派なマクロ域の世界で、大きな威力を語ってくるところに、サム・ペキンパーの時代を超えた、現在の表現があると感じたのです。
きっと サム・ペキンパー監督がこの場面の演出をするとしたのなら、爆発の威力で飛ばされる軍曹をガッツリとスローモーションで映し出してくるのでしょうね。
第2回目 (11月16日 アップ分)
早々と “ヴィジュアル的訴求点” を披露した今作に やっと今作の主人公である ジェームズ軍曹 が遅ればせながら登場してきました。
彼が “ヴィジュアル的訴求点” をつくりながら戦死した軍曹に変わって、“ブラボー中隊” の爆弾処理担当として赴任してきたのです。
“ブラボー中隊” は 他に 警護担当の サンボーン軍曹、若き技術兵の エルドリッチ の計3名で構成されています。
ストーリーはこのジェームズ軍曹の我の強い個性と今までのチームメンバーとの軋轢を語っていくことになります。 しかしながら、ベトナム戦争時の組織内のモラル崩壊を 「プラトーン」 が既に強烈に語ってしまった後では、心に訴えるものはありませんでした。
どのような 求心力 を今作は創出していくのだろうかと観察していたら、ボクの興味を惹く時間の使い方があったのです。
それは、砂漠地帯での遠距離狙撃戦でのこと。先の “セミマクロ的なスローモーション” という特別な表現で放たれた決定的な一撃の後、長い時間をかけて、固唾を飲んで相手の出方を待つ。という時間の使い方がありました。 結局は全ての敵を倒していたので、相手の反応を伺うということは無駄だったのです。この表現は 第二次世界大戦における 戦争スペクタクル においても、ベトナム戦争における 自己崩壊地獄絵図 においても、観ることのない表現だったのです。
本格的な戦争は短時間で終結し、進駐後の 自爆をも厭わないゲリラ戦 が主流となっていった イラク戦争の 心理的な不消化感 や 精神的消耗感 の表れなのでしょうか? 気になりました。
そして、“ヴィジュアル的訴求点” を主役が登場する前に手放してしまい。結局は “無駄な時間” となるものを時間をかけて表す。 そんな今作の演出方針に対して大いに興味が惹かれたのです。
このまま、“ビジュアル的訴求点” を越える何ものかを提案できずに終わりを告げることがあるものならば、“無駄な時間” を時間をかけて訴求せずに、映画として完結できるモノに対して時間を使うべきと非難されてしまうのでしょう。
通常の作品を鑑賞をしているのであれば、そのような懸念が生じていくのでしょうが、今作は アカデミー作品賞を獲得した作品であるので、何かが隠されているはずと確信をして、鑑賞を続けていこうと思ったのです
そんな矢先、今作はとんでもなく過酷なストーリーを語ってきました。
それが何を意味するのかをほとんど理解できないうちの執筆となります。
激しく ネタばれ をしていきます。
“ヴィジュアル・インパクト” を超える おぞましいストーリーが提示されてきました。
それは 「人間爆弾」 。
自爆テロのことではありません。人間の体内に爆弾システムを埋め込むのです。
腹部に大量の爆薬。
詳細は理解しかねますが、体中に電線が埋め込まれ、人間の体全体が “爆弾システム” と化しているのです。
腹部に大量の爆薬を詰められているので “爆弾システム” となっている人間はもちろん絶命しています。
血まみれの状態でゴロンと長机に放置されたその 「人間爆弾」 を見て、ボクは胸を悪くしてしまいました。 凄まじいほどの悪意に満ちた諸行の前に、ただ吐き気をこらえるだけだったのです。
こんな悪魔的な現実が、本当に行われていたのでしょうか。
そして、その 「人間爆弾」 が主人公の ジェームズ軍曹と、交流のあるイラクの少年だったことが判るにつれて、その行為の本当のおぞましさを認識していったのです。
見ず知らずの他人であるのなら、その死のいきさつについて思い悩んで、胸を悪くすることもないでしょう。
でも、「人間爆弾」 にされたこの子供は元気にサッカーをしていたのです。それがとんでもない姿となっていたのですから、サッカー と 「人間爆弾」 の間には、恐ろしくも邪悪な暴力 が作用していたことが伺いしれるのです。
「自爆」 には我が身を捧げてテロを行う 強い意志を感じますが、
「人間爆弾」 には、人間爆弾となる対象者の命も尊厳も踏みにじってテロを実行する 組織的な悪
を感じて、ただただ、その凄まじい悪意に耐えかねて、体調を崩してしまったのです。
“ヴィジュアルインパクト” なんて暢気なことを言っている場合ではない事態が、今作のストーリー上で発生していたのです。
もう書く元気が失せてきた。 もうやめよう。
そう考えて、しばらく放っておいておいたところ、若干、回復しましたので、先を書きます。
この有様を目撃した 主人公の ジェームズ軍曹 はただちにこの危険な 「人間爆弾」 の無力化に動きます。通常のように 爆弾をしかけ、その対象物を爆破させて、その脅威を無力化させてしまうのです。
が、しかし、彼は心変わりをして、爆発を中断。
これは、 “爆弾システム” ではなく “遺体”であると認識した彼は、断末魔で見開かれた、その子の目を閉じてあげ、腹に縫い込まれた爆弾を摘出するのです。その流れに圧倒されていたら、あろうことか、応援に来ていた軍医が仕掛けられていた爆弾によって爆死してしまうのです。
その瞬間に “ストーリー・インパクト” を提示してきた今作を評価していたボクの中に、残念な気持ちが生じてきてしまったのです。 制作陣にしてみれば “軍医の爆死” は “ストーリー・インパクト” の貴重な追加点を意図したものと理解できますが、 前述の 「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描いていた」 ことの意義を探っている者からすると、アンバランスを露呈させててしまった、と捉えたのです。
何故なら、軍医と 若い技術兵 エルドリッジ との関係を訴求してきてはいたが、さらっと表面なぞった程度でしか過ぎず、熟していない人間関係に、いきなり “爆死” を押し付けられても、感情は動きようもなかったのです。 そんなことが露呈してくると、さっき、心を動かされたと思い込んでいたシークエンスの綻びに気付いてしまったのです。 主人公 ジェームズ軍曹 と “人間爆弾” にされた少年の関係にしたって、2度会っただけで、深い結びつきには思えていなかった、 ということを思い出してしまったのです、
ストーリー・インパクトを ジェームズ軍曹 と 少年の関係 の中で、そして 軍医 と 若い技術兵 エルドリッジ との関係の中で訴求したかったのなら、もっと、その関係性の深さをもっと語るべきだった、思えたのです。
それも、「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことをやめてでも、2つの関係性を 時間を掛けてかたるべきだったと主張をしたいのです。
第3回目 (11月29日 アップ分)
終結に向けての今作の流れは ヌルイ ものでした。
序盤早々の “ヴィジュアル・インパクト” を提示し、
中盤の “ストーリー・インパクト” を訴求してきた今作ではありますが、
その “ヴィジュアル・インパクト” と “スートーリー・インパクト” の間にあった、「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 シーンのような、 ユルイ時間を迎えたのです。
主人公の ジェームズ軍曹 は「人間爆弾」 にされたベッカムの家を探るべく行動を起こすが、アテがはずれ、彼の深追いで 若い技術兵 エルドリッジ は 負傷して戦地から離れることになります。
映像世界に没頭できそうだなと思うと、決まって肩透かしを食らわせてくれます。
ベッカムの家を探そうとするが、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンスの意味を計りかねてしまったのです。
このシークエンスの登場人物が今後の流れのキーパーソンになっていくのでしょうか? それとも、 「 “無駄な努力 ” を時間を掛けて描く」 ことが目的なのでしょうか?
是非とも、前者であって欲しいと切望するばかりです。
何故なら、後者であったのなら、前述の 「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことをやめてでも、主人公の ジェームズ軍曹 と “人間爆弾” にされたベッカム との関係、そして、爆殺された軍医 と 若き技術兵 エルドリッジ との2つの関係性を 時間を掛けて語るべきだった。 という恨み言が繰り返されてしまうからなのです。
そして、ヌルイと思えたのは、若い技術兵 エルドリッジ の受難です。
ここでは敢えて、ボクは悪魔的な妄想を告白することに致します。
主人公のジェームズ軍曹の職務を逸脱した深追いで、若い技術兵 エルドリッジ は、テロ組織に連れ去られてしまうのです。 ここでボクの悪魔的妄想が広がったのです。
今度はイラク人のベッカム少年ではなく、敵対するアメリカ兵である エルドリッジ が血祭りにされる番であると。
中盤に衝撃を与えてきた “ストーリー・インパクト” は “人間爆弾” という忌むべき方法でした。 今回それを超えるインパクトを仕掛けるとしたら、若き米兵である エルドリッジを “強制自爆” させないと肥大化してしまった視聴者の悪魔的な欲求には応えられるはずもない。きっと、さらなる衝撃的な行為が繰り広げられるはず、 と ウキウキ してしまったのです(!)
しかし、その期待をまんまと裏切って、エルドリッジ は中途半端な足の負傷で戦地離脱ですって!
甘い 甘すぎる!
と悪魔的な感情がむき出しの反抗をしてしまったのです。
気がつくとボクは、こんなにも熱くなっていたのです..........。
鑑賞し終えました。
中盤には “人間爆弾” という “ストーリー・インパクト” を用意してきました。
そして終盤はそれらを超えるものとして、 “若い技術兵 エルドリッジ の強制自爆” がそれにふさわしいとボクは妄想を広げていたところ、今作が提示してきたのが、“イラク人による強制自爆” だったのです。
ボクの妄想は既に悪魔的な領域までに到達していたというのに、今作は見ず知らずのイラク人を血祭りにしただけで、終盤のクライマックスを終えようとしているのです。 主人公の ジェームズ軍曹 とは何の関係性も持たないイラク人が爆発したところで、何の感情が生まれるというのだろうか?
“若い技術兵 エルドリッジ を爆発させることで、アメリカ と イラク の憎しみの深さを知ることになるでしょうし、ジェームズ軍曹 の “自信” と “誇り” を地に貶めることができるものなのに。
これこそが、中盤のイラク人少年 ベッカムの “人間爆弾” の衝撃を超えていきながら、今作を締めくくることができる方法だというのに
歯がゆい! 甘い! ヌルイ! 悔しい!
なんてことを真剣に思っていたのです。
危ない、危ない。
これが監督の術中なのでしょうか.........。
今作の舞台がアメリカに移動して、冷静になった時に、キャサリン・ビグロー が今作に巻頭に持ってきた言葉の意味を痛感しました。
「戦争は麻薬である」
それを今作は訴えたいのだとは思うのですが、ボクは悟ったのです。
【(「戦争は麻薬である」 ということを訴求する) 今作自体が、観ている者の モラルを壊す 劇薬 】 だったのだ、 と。
戦争という非日常の興奮状態で、自分の存在意義を発見してしまった人間にとって、日常は退屈な人生の墓場と感じることしかできなく、戦場で得られる高揚感やスリルを渇望し、再び、非日常の興奮状態に埋没してしまう。 そんな不幸を今作は訴求してきたのでしょう。
しかし、ボクが今作を鑑賞した中で、最も心を動かされてしまったことは、
そんな、非日常の日々を見せられてきた鑑賞者も、ジェームズ軍曹 と同じようにより強い刺激を求め、いつしか、自分のモラルを超えた精神状態に追いやられていた、ということなのです。
イラク人を 爆発させるくらいなら、若いアメリカ兵を木っ端微塵にしてしまえ!
なんて苛立ってしまうくらいですから、
ボクはまんまと演出陣にしてやられてしまった、ようですね。
「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことは必要だったのです。
ベッカムの家を探そうとするけど、違う家に侵入し、イスラム女性に叩き出されるシークエンス は必要だったのです。
若い技術兵 エルドリッジ が 負傷して戦地から離れる “甘さ” は必要だったのです。
全ては観ている者の心の奥底にある 悪魔的な側面 を炙り出すためには必要な手段であったのです。
完全に手玉に取られてしまったようです。
最後に 今作は 素晴らしい “予見” を用意していました。
主人公 ジェームズ軍曹 が任期を終えてイラクからアメリカに戻って来て、合理的で整理整頓されたスーパーマーケットで買い物をしているシークエンスが映し出されました。
シリアルを買おうと売り場にやって来ると、膨大な量、種類のシリアルの箱が
整然と並べられている、彼はその整然さと量に圧倒され、すぐには選ぶことができないのです。
今作の主な舞台は戦地となっていたイラク バクダッドで、荒涼とした砂漠や、ゴミゴミした市街地でありました。
そんなイラクの地でこのアメリカのスーパーマーケットと同様に、合理的で整然としていた場所が一つだけあったことを思い出しました。
それはジェームズ軍曹 の前任者が安置されていた 死体安置所 という場所だったのです。
この表現によって、スーパーマーケットに代表される 清潔で無機質な明るさに満ちたアメリカ文明の地は、ジェームズ にとっては、死体安置所 のごとき場所であることの訴求がなされたと感じたのです。
これによって、次のシーンに移行せずとも、ジェームズ が再びイラクの地において “ジェームズ軍曹” としての生を消耗していくことを、予見することができたのです。
今作は冒頭の言葉、 「戦争は麻薬である」 を
セミマクロ的な “ヴィジュアル・インパクト” や
過酷な “ストーリー・インパクト” を駆使して
訴えてきました。
そして、不要と思えた
「“無駄な時間” を 時間を掛けて描く」 ことや
ヌルイと感じてしまった展開こそが
【(「戦争は麻薬である」 ということを訴求する) 今作自体が、観ている者の モラルを壊す 劇薬 】 であったことを間接的に訴えてきたのです。
この成果は、計算ずくなのか、偶然なのかは、はかりかねますが、
戦争の異常さを 体感的に鑑賞者の精神に植込むという意味においては、比類のない映像作品だったと、評価を致します。
続きの 未完成レビュー はこちらまで
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2010-12-27
完成! 「サマーウォーズ」 [DVD 車内鑑賞レビュー]

今作は
「重力から解放された、静謐なる横移動」 と
「1カット内で共鳴する、2つの時空間」 のように
アニメならではの表現手法を駆使した
“神がかり” 的な映像世界を提示してきました。
しかし、 「山奥」 での 「血族による 【情】的コミュニケーション」 と
「ハイパー世界」 での 「匿名性による無関心・無責任コミュニケーション」
の対位律をしっかりと強調することができず、
登場人物の 【情】 的なメロディ をも
歌い上げることができなかった 結果、
構造的に、そして感【情 】的にも、
マスターピースに成り得なかった
残念な作品。
と結論付けさせていただきます
「オズ」 という 巨大なインターネット世界から今作は始まっていきました。 そこは企業や自治体までもがインターネット支店を出すほどの、想像を遥かに超えた規模の 「サイバー社会」 であったのです。
しかし、そこにはカラフルで可愛いらしい 夢の世界 が展開されていました。
ハイパーな世界でありながら、ちょっとチープな可愛らしさが同居する。 そんな
ジャパニメーション の世界観が提示され、
今後の期待が膨らんでいったのです。
このオープニングを経て、現実社会の高校へと舞台は移っていきます。
数学オリンピックの日本代表 に成り損ねた今作の主人公 ケンジくん が、憧れの ナツキ先輩 のフィアンセ役を演じるために、長野の山奥 に里帰りするという、少年サンデー の青春マンガを彷彿とさせるようなストーリー展開を見せていきました。 それは
“男の子と女の子がちょっと特別な環境の中で、共通の体験を通して、
特別な感情を分かち合う”
みたいな。
思春期の男の子にとっては眩し過ぎる世界観と言えるでしょう。
このような、青春マンガ のちょっと ヌルイ時間を経て、やがて今作は本題に突入していきます。 「オズ」 の世界に 「ラブマシーン」 という Ai (人工知能) が不正侵入し、「オズ」 内に移設された様々な制御を混乱に陥れてきたのです。
ここにおいて、今作の世界観を貫く絶対法規とも言える “映画のルール” が提示されてきたのです。 それは、
“「オズ」 の世界はバーチャルでありながらも、実社会の様々なインターフ
ェースとなっており、混乱はインターネット上のことに留まらず実社会に
直接的なダメージを与えていくのだ。”
というモノなのです。
この、“実社会へのダメージ” は、交通、水道、救急車両要請 という 「社会インフラの混乱」 というカタチで具現化されていったのです。
この事態を、コンピュータ社会特有の “アカウント” という考え方で捉えると、今作の題名 「サマーウォーズ」 の “ウォーズ = 戦争” に直結する説明がなされたのです。
それは、大統領の アカウント を不正使用した場合、 「核爆弾の発射さえもできる」 というものでした。
(まさか、そんな重大事案のスイッチがこんなオープンな場にあるとは
考えられませんが)
この 「社会インフラの混乱」 において、今作の全ての登場人物に多大なる影響を与える重要人物が、その存在感を発揮してきたのです。それは、 なつき先輩 の祖母にあたる人で、長野の旧家の家長たる “お婆サマ” だったのです。
その “お婆サマ” は “ただならない” 御仁 で、「社会インフラの混乱」 で浮き足立っている 警視総監を始め、中央省庁の各部署に電話をし、渇を入れるのです。
そして、ボクはこのシークエンスに触れて、早くも、映画的興味を駆き立てられたのです。
パソコンやケイタイは 「オズ」 の障害でままならない状況で “お婆サマ” は固定電話 (しかも骨董的 黒電話) を使って、アドレス帳をたよりに一件一件、丁寧に連絡をとっていくのです。
デジタルの世界が混乱した状況では、時代に逆行した (でも、ずっと存在していた)
アナログ世界が
確固たる存在 となっていたのです。
お婆サマ はある人には 言い聞かせるように、そして、ある人には叱りとばしながら、でもその会話の全ての終わりは
「あんただったら、できるよ。」
という言葉で 締めくくられていたのです。
それは0か1の配列で割り切られた、合理的にして冷徹なデジタルの世界とは対照的な、
【情】 に直撃して
人のやる気 を喚起させる
ホットなコミュニケーションだったのです。
このシークエンスに触れてボクの今作に対する鑑賞方針が決まっていきました。
「オズ」 を舞台にした
パソコンやケイタイ電話による、時空の概念を超越した
仮想世界と、
長野の山奥を舞台にした、
お婆サマ の誕生日を祝う為に集まった、血族という
リアルでプリミティブな集団 との
↓
“対極的な世界の在り方。”
そして、「オズ」 の世界に存在する
デジタル的コミュニケーションと、
お婆サマ によって行われた
アナログ的コミュニケーションとの
↓
“コミュニケーション形態の対比”
を観察していこうと思ったのです。
と、今作に対する展望が持てたところで、一つの不満が顕在化してきたのです。
それは、 “ワビスケ には 異端を貫き通して欲しかったな” という欲求でした。
ワビスケ とは 永らく音信不通であったが、10年ぶりに姿を見せた妾腹の子で、歳は30歳台ってところでしょうか、緩く進行していく今作における不況和音としてスパイスを利かせていた人物です。
中盤には、この ワビスケ から、「ラブマシーン」 を開発したのは自分だ。 との告白が、唐突にもなされていったのです。 兵器となりうるプログラミングを開発し、一国に売ったとして、親族の非難を浴びる彼ですが、突如として お婆サマ に助けを請う展開となってしまったのです。
ワビスケ が 「ラブマシーン」 の開発者であるという、マンガのような安っぽいストーリー展開と、お婆さま に必死に取り繕う姿が、それまでの、一匹狼的な彼のキャラクターとの乖離を感じて、大きな違和感を持ってしまったのです。
ワビスケ の行いに立腹した お婆サマ が彼を薙刀で成敗するところを 命からがら、 ワビスケ は逃げ出して行きました。
この騒動の後、お婆サマ の突然の死が訪れるのです。
ワビスケ の扱いには疑問を感じたボクではありますが、お婆サマ 崩御後の描写には、思わず唸ってしまったのです。
それは、ボクが最も心を動かされた “神がかり” なカット、
「重力から解放された、静謐なる横移動」
なのです。
お婆サマ が亡くなってしばしの後、大きな居間に夫々の形で放心している親戚たちの姿が写し出されてきました。
カメラ位置 (アニメ作品なので正確な表現ではありませんが) は居間の奥から手前に親族を入れて、縁側を背景にしたポジションで、 すー と横へドーリー移動していくのです。
背景は見事なまでの夏空が広がっていきます。
真っ青な空に、堂々の入道雲。
露出 (これも正しい表現でないかもしれませんが) は、背景の夏空に合わせているので、手前の人物は露出アンダー気味、それが返って、
それぞれのカタチを強調
してきたのです。
この横へのドーリーショットは、まず、赤ん坊に乳やりをしているカタチから入っていきました。
この世を去る人がいれば、生まれ出る人がいて、当然、それを育む人がいる。
ましてや、血族というプリミティブな集合においての、この表現要素は、
命を引き継いでいく
という、個の存在意義を遥かに超えた、
壮大な構図さえも垣間見ることができるのです。
まるで氷の上をスベっていくような錯覚に陥るほど、滑らかに横移動をしていきます。
物理的な抵抗や摩擦、そして重力などの一切の力から解き放たれた “ストレス・フリー” な
この横移動は、
大広間に呆然と佇んでいる姿や、立ち尽くしている姿
心臓マッサージをしていた医者の叔父さんが脱力で寝転でいる姿を捉え、
まだ、心の動揺を抑え切れず泣いている姿、も
何も出来ず、ただ、見事な夏空を眺めているしかできない姿も捉えていく。
そして、その傍らで、遊びたいとねだる子供と、
それをあやしている親のカタチ、
等々、様々なシルエットを写し出してきたのです。
(このドーリーショットの終着点は、当然のことながら、
青春マンガの主役の二人 に行き着いていくのです。)
このアニメーション独自の横移動は、上下方向のカメラブレや横方向の速度ムラなんて無粋なものを全て排除し、一つの命が逝った夏の暑い日の静寂を語りきった、まさに
「静謐なる横移動」
だったのです。
実写では、こんなにも非の打ちどころがない流麗な横移動は実現不可能でしょうから、
ボクは、今作がアニメーション作品であるが故の
卓越した表現効果に、
ただ、ただ、感激てしまったのです。
この
「物理的ノイズ0 (ゼロ)」 の横移動
のその瞬間は、
自分自身の
「重み」 から解き放たれた、1つの純粋な魂となって、
それぞれの カタチ の中に隠されている、
それぞれの キモチ を透視している、
そんな特権的な錯覚に陥ったのです。
それは
逝った者 の 視線 なのか、
もっと巨視的な
創造主の 感覚 なのか........。
説明 ・ 解析不能 な 特別な境地
にボクは至ったのです。
何て芳醇な瞬間だったことでしょう...........。
次の映画的興味を駆き立てられた場面には、不覚にも目頭が熱くなる思いだったのです。
「オズ」 で様々な アカウント を強奪していた 「ラブマシーン」 が その中の アカント権限を悪用して、人口衛星を核施設に墜落させようとする暴挙に打って出てきたのですが、そんな緊迫の場面において、ナツキ先輩 が ワビスケ に お婆サマ が亡くなった事を伝えるのです。
明らかに大きな動揺を見せる ワビスケ。
カメラは、夏祭りの交通規制で自動車の中に缶詰となっている彼の向こう側に、
“年配の女性と5歳くらいの男の子” が、見物客の最前列にいるのを見つけていきました。
時を同じくして、 親族が、 お婆サマ の書き残した文書を見つけ、読み上げていきまます。
そこには 自分の夫が 他の女に産ませた ワビスケ を引き取る時のことが書かれていたのです。
一方、お婆サマ の死を聞いて意を決したように自動車を走らせる ワビスケ。 その様子を先ほどの “年配の女性と5歳くらいの男の子” が見守っているのです.........。
ヤバイな。 と思っているうちに お婆サマ と ワビスケ の
原風景が 展開
されていたのです。
夏のある日、田舎道。 真っ直ぐな気持ちで ワビスケ を向かえる若かりし お婆サマ と、不安ながら お婆サマ の手をしっかりと握り締める5歳児のワビスケ。
二人のこのカタチによって、ヒネクレながらも、お婆サマ には何故か従順な ワビスケ と、道を外した ワビスケ を成敗しようとした お婆サマ の心情を、ほんの少しではありますが、理解することができたのです。
でも、この映画的興味点でもう1つ大きく心を動かされたのは、先の 「重力から解き放たれた、静謐なる横移動」 と同じような
アニメーション 独自の卓越した表現
だったのです。
実写の場合、昔日の姿は本人が無理な若作りするか、別の役者が演じることになり、違和感はどうしても否めないものですが、アニメの場合は違うのです。 若かりし日の姿や子供時代を想定したキャラクターを簡単に創出することができてしまうのです。
そして、現在の姿と、若かりし頃の姿を、同一ショットで捉えていくことについても、実写の場合、無理な若作りをした上で特殊効果を駆使したとしても多少の無理を感じてしまうものですが、アニメでは前述の理由によってスムースに 現在の姿と若かりし頃の姿を、同一カットに捉えることができるのです。
5歳時の ワビスケ と、現在の ワビスケ が同一カットに収まり、しかも若かりし頃の お婆サマ をそこに配置しても、その映像表現を素直に受け入れることができたのです。
アニメという手法によって、この
「1カット内で共鳴する、二つの時空間」
という稀有な表現を実現することができるのです。
若かりし日の お婆サマ と、5歳児の ワビスケ の姿が、
現在の ワビスケ と、同一ショット内にいる、この
「1カット内に共鳴する、二つの時空間」 は、現在の彼の、“拒絶されてしまった” という心情を再確認しながらも、彼の心の奥底に仕舞い込んでいる大切な日々へと魂が帰っていく為の
静かで、しかも劇的な 「ブリッジ」
であったと、高く評価します。
お婆サマ と ワビスケ の原風景を目撃し、在りし日の 感【情】 を取り戻したワビスケ は 虚栄心をかなぐり捨てて、「ラブマシーン」 を封じ込めるために親族の元に戻ってきました。いよいよ 「ラブマシーン」 と この親族の対決が始まっていくのです。
「ラブマシーン」 と 主人公の親族たちの対決はユニークにも 「花札」 によってなされていきました。
( 「花札」 は親族間のコミュニケーションを促進するツールとして活用されて
いました。)
勝負の対象は アカウント。 1勝負ごとにて 「ラブマシーン」 が乗っ取っているアカウントを取り返し、結果的に人工衛星を核施設に衝突させることができるアカウントを開放させ、その危機を回避するという作戦なのです。
それまでの対決は アバター同士のバトルという直接的な表現であったのに対して、今回は 「花札」 というゲームで決戦を挑んでいくあたりに、冒頭で感じた
ジャパンニメーション の奥の深さ
を思い出しました。
戦隊アクションモノ や ロボットアニメ、それこそウルトラシリーズにガメラやゴジラまで遡ると 直接的な対戦モノは日本のお家芸であるのは、疑いの余地がありません。
(円谷英二 という特撮の神様が日本に生を受け、そして 本多猪司郎監督
という、才能の全てを怪獣映画に捧げた偉大な映画人が同時代にいたか
らこそ。そして、日本の ジョン・ウィリアムス こと 伊福部昭 大先生に
よる、壮大で心に響く映画音楽の、三位一体の奇跡によって誕生した輝
やかしき神話なのです。
ついでに言うとボクは、この3人の大先達に映画的感性を目覚めさせらた、
信奉者の一人です)
そんな堅牢で偉大な流れに、日本が誇るもう一つのエンタの潮流が合流するのです。
それが、「DS」 や 「Wii」 に 「プレステ」。 それこそ 「ファミコン」 に至るゲームの源泉となっている 「花札」 が、 「オズ」 というハイパー世界での最後の勝負に選ばれていったことに、
日本のオタク文化の融合
を 見ることができるのです。
と事の成り行きを観察していたら、令静でいられない場面に遭遇したのです。
花札において手持ちのアカウント数だけでは 賭け が成立しなく、対決に負けてしまいそうな局面に追い込まれた時、「74」 という手持ちのアクント数を虚しく見つめていると、突然、その数が 1つ増えて 「75」 にひっくり返ったのです。
対決の場に 無防備なルックスをしたチッポケなアバターがひょっこりと登場してきたのです。
ドイツの男の子が 「ミサキへ、 ボクのアカウント をどうぞ使ってください。」 と対決の場に身 (アカウント) を捧げてきたのです。
チッポケな、でも 巨大な存在価値を発揮する、ツルツルしたアバターを見ていたら凄まじい勢いで、そのアバターと同様の賛同者が名乗りを上げたのです。
たった一人の男の子が、それまで無責任な傍観者にすぎなかった 「オズ」 の住人達に “良心” と “勇気” を呼び覚ましていったのです。
その数と勢いは凄まじく、あっと言う間に チッポケなそのアバターを飲み込んでいくほどだったのです。 リビングで、 街頭で、 車の中で、 スーパーマーケットで、 病室で、 農場で、 世界の至るところで ミサキ の味方になるべく端末を操作している世界の人々を見て、不覚にも胸が熱くなってしまったのです。
この大きな感動の理由を考察すると、2つの事柄に行き着いていきました。
この大きな動きを作ったのが、ドイツの名も無き、一人の男の子であったという高揚感がまず1つ、
そしてもう1つは、匿名性の中、他者に対して無関心で無責任、であった 「オズ」 の住人が、ミサキ達の奮闘とドイツの男の子の後押しによって、
【情】的 になっていった
ということでした。
それはまるで、お婆さま が、「オズ」 で日本のインフラ統制がマヒした際にとった 「あんただったらできるよ」 と
【情】的 なアプローチによって
危機を救ったことを思い出させました。
0101010101の羅列による、利便性至上仕儀と、ネット内の匿名性が助長した
無関心・無責任 そして同時に存在してしまう 疎外感。
そんなものが巣食っている ネット・コミュケーション の世界に
【情】的なコミュニケーション
が発生したのです。
【情】的、それは、
熱【情】的 であり、場合によっては
直【情】的。 そして 機械にはできない
心【情】 を察し、
【情】緒的な側面で結びつく、多分に
【情】感的な、
「人対人」 のリアルで 【なさけ】 に満ちたコミュニケーション だったのです。
それは言い方を変えると、デジタル前の時代から、ずっと永いこと続いてきた
アナログなコミュニケーション方法
だったのです 。
今作は 最終的には 主人公である ケンジ君 の数学オリンピックの日本代表に成り損ねた、天才的な数学の能力と、彼の不屈の精神力によって、血族の命を救うことで終結してきました。
非常時における彼の人間性の高さによって ナツキ先輩 は彼に恋愛感情を持ち、今作は思い出したように 少年サンデー の世界観の中で終わりを告げていきました。
メデタシ、メデタシ。というところでしょうか。
確かに 「オズ」 のカワイらしいハイパーな世界は素敵でしたし、主人公たちの 青春マンガストーリー は甘酸っぱいモノを呼び覚ましてもくれました。
でも、ボクは何故か、今作に対する
高い評価を実感することが
できなかったのです。
何故なのだろうと考察を巡らせて、2つの結論に至りました。
1つ目は、
今作に存在する 2つの世界の 対比 と
主人公達の結びつきの 特異性 を
もっと訴求してほしかった
という不満でした。
「オズ」のような最先端な技術とは隔絶された山奥の田舎が舞台なのに、時空の概念に縛られることなく、瞬時に 「オズ」 というもう一つの世界に入り込めてしまう、そんな側面を強調して欲しかったのです。 そうすれば、
巨大なサーバー上にあるけれど、ネットが繋がっていればどこにでも出現する、
時と空間を超越した、しかし現実味と一体感が希薄な
バーチャルな世界と、
生活者が実際に生活をしている山奥の田舎という、
時と空間に縛られた、不便だけど濃密な人間関係が存在する
リアルな世界 の
対比を楽しむことができたのに.....。
そして、血族 という生物学的に濃密な集団が主人公であったのだから、
論理では割り切れない、
一種の形而上学的な結びつき の 特異性を
提示して欲しかった と思いました。
それは、ビジュアルで成し得た 「重力から解放された、静謐なる横移動」 と 「1カット内で共鳴する、二つの時空間」 のように “神がかり” 的な一瞬を、ストーリーの側面でも仕掛けて欲しかったと思ったのです。
ワビスケ と お婆サマ の原風景の中に、二人の結びつきを理解することができたように、そんな
【情】的な結びつきのエピソードが
絡みあって欲しかったなと思ったのです。
(カズマと師匠の仲にも、その萌芽はありましたが、
有機的な発展を見ることはできませんでした。)
それによって、
匿名性が強く、無関心・無責任で、結びつきが薄弱な
バーチャル空間のコミュニケーション と
リアルな世界の、人との結び付き強く、密度が濃い
【情】的コミュニケーション
との対比を強調させておきながらも、
親族たちの奮闘とドイツの男の子の勇気によって、
結局は、全てのコミュニケーションが
リアルなものへと結実していく “ダイナミズム”
に、もっともっと 感動することができたと言うのに.......。
と残念に思ったのです。
そして、もう1つは
人間を語たれなかった故の パワー不足
とでも言っておきます。
確かに様々な登場人物が今作を彩り、夫々の役割を演じてはいたものの、
それらは、血の通った人間としてのリアリティに欠け、物語をなぞっているだけの人形ように思えてしまったのです。 「アニメだから血が通っていない」 なんて、野暮なことは言わないでくださいね。 「カリオストロの城」 「うる星やつら」 「モンスター・インク」 「エヴァンゲリオン」 そして 「パンダ コパンダ」 「クレヨンしんちゃん」 なんてアニメ作品を愛でることができると思っていますので、そんな単純な話ではないのです。
でも、登場人物を 「血の通った人間としてのリアリティに欠けた」 と感じさせてしまったことは、
制作陣にとっては
致命的な落ち度 であった。
と言わざるを得ません。
何故なら、前述の “今作に存在する 2つの世界の 対比 を もっと訴求してほしかった” という文脈に戻ってしまいますが、今作に仕掛けられている 「 現実世界 と 仮想世界 」 の対位律 をしっかりと奏でる為には、
“生活者としての リアリティ” を、
彼ら、親族がしっかりと発揮する必要があった
と、ボクは信じているからなのです。
リアリテイ をしっかりと訴求できてさえいれば、その対極の バーチャル な摩訶不思議な世界が、もっともっと引き立ち、今作において、より強固な構造が打ち立てられるはずだった。 と頑なに信じているのです。
そもそも、主人公である ケンジくん の
実体自体が見えていない
と感じてしまったのは、
どういうことなのでしょうか?
気が弱くて、やさしくて、数学オリンピック候補に挙がるぐらい能力が高い。そんな少年であることは理解することができますが、結局のところ、ストーリーを語る上での都合の良い側面しか語れなかった為に、それ以外の彼を見つけることができなかったのです。
そして、親族たちの心の支柱となる お婆サマ の描き方もぬるく感じてしまい。
序盤の 「あんただったらできる」 のくだりと 幼いワビスケを引き取るくだり、に彼女の人間性を垣間見れた程度で、親族たちの心奥底まで影響力持っている彼女のカリスマ性が理解できずに、
登場人物と自分の 感【情】 の温度差を、
最後まで、埋めることなどできなかったのです。
登場人物に対してボクは、【情】的 に成り切ることが
できなかったのです........。
今作は
「重力から解放された、静謐なる横移動」 と
「1カット内で共鳴する、2つの時空間」 のように
アニメならではの表現手法を駆使した
“神がかり” 的な映像世界を提示してきました。
しかし、 「山奥」 での 「血族による 【情】的コミュニケーション」 と
「ハイパー世界」 での 「匿名性による無関心・無責任コミュニケーション」
の対位律をしっかりと強調することができず、
登場人物の 【情】的なメロディ をも
歌い上げることができなかった 結果、
構造的に、そして感【情 】的にも、
マスターピースに成り得なかった
残念な作品。
と結論付けさせていただきます。


メモ 「ゴッドファーザー PART2」 [DVD 車内鑑賞メモ]
通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてモバイルPCを使っての車内執筆を実行中。
地下鉄内での通勤時間を活用してのコマ切れ鑑賞となっているため、
鑑賞中の折々なストレートな印象を、同時進行的に3回に分けて、
「鑑賞中メモ」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中メモ」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成 感想文」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を1つのものに推敲して
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
3回に分けてアップしていた 「鑑賞中メモ」 を1つにまとめたものです。
第1回目 (8月18日 アップ分)
今作は、高校生時代に見たきりで、鑑賞をしたつもりでいましたが、
しっかり鑑賞したいと思い立ち、車内鑑賞にいたりました。
今作の特徴は 「ゴッドファーザー」 で2代目を継いだ マイケル のその後の物語と、一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親 ビト の若かりし頃の物語がリンクする。という非常に意欲的な構造をしているのです。
最近、構造が脆弱な洋画の鑑賞が続いて辟易していたので、高校時代に見て、その構造の頑強さに感動を覚えた今作を再び見返したいと思い立っての鑑賞となります。
パラマウント映画の お山のオープングカットが終わった今作の第1カットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと、他者からの陳情を聞いて、手の甲に口付けを受け、相手の頭をなでてやる、ゴッドファーザーとしての役割を物憂い表情で行っているマイケルを映し出してきました。
今作は マフィア同士のドンパチを見る映画ではなく、“ファミリー” と 家族 を導いていく男の苦悩と愛の物語 だったのだ。ということを 1カット目から強烈に訴えかけてきました。
そして今作のタイトルバックは、その部屋にある、今までマイケルが座っていたと思われる重厚な椅子をフューチャーしてきました。その椅子の年季の入り具合から、先代ビトー の時代から使われ続けていることが推察することができるのです。2代に渡る物語を語る1カットシーン、しかもタイトルバックには最適な被写体であると、感心をしたのです。
そして椅子が意味するものを考えるとその思いはひときわ重くなるのです。
椅子が意味するもの、それは地位。
若かりし ビト が如何にしてこの地位を築き、
若き マイケル が如何にしてその地位を磐石なものにするか。
を観ていけばいいんだ。ということを雄弁に語っているファーストカットに
ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。
この素晴らしいオープニングショットの後、
映画は ビト 9歳時の過酷な運命を語ってきました。
辛い経緯があって、シシリー島で命を狙われてしまった彼は、9歳の身で単身 アメリカに逃れてくるのです。
移民船がニューヨークに近づき、デッキの上の移民たちが無言で一つの方向を凝視している。
勿論、幼きビトーがいる。
その視線の行き着く先に、 自由の女神 が遥か向こうに見えてきました。
この映像に、郷愁をそそる音楽が包み込んでいく。 不安と夢 が混ざったこのシークエンスに、自分の命を守る為 に、9歳児が居るということに、複雑なヤルセナイ気持ちに囚われていったのです。
検閲官に名前を聞かれ、イタリア語しか話せないビトーが対応できないでいると、コルレオーネ村出身のビト・アンドリーニ という名札を誤解され、
名前を ビト・コルレオーネ と記入され、以降、これが彼の名前となっていくくだりをこのシーンでは語ってきました。
それだけ、この9歳児は アメリカ大陸においては何もできない存在だったのです。
高校生の時は何も感じなかったこのシーンに、同じ9歳児の子供を持つ親となった今のボクは、この一連の 過酷さ、哀れさ に心を動かされてしまったのです。
一つの作品でも、鑑賞時期によって、感じる内容が違うことを実感した瞬間でした。
ビトが天然痘の疑いでエリス島に3ケ月隔離された収容所の窓から、頼りなく見える自由の女神 を虚ろに眺めている 1901年 からオーバラップによって、1958年 の今作のもう一つの時制、マイケル の時代に移行していきました。
9歳時のビトからの移行先は 同じ9歳相当の アンソニー・ビト・コルレオーネ の宗教的儀式の場でした。 名前に ビト がある通り、彼はビトの孫、マイケルの息子にあたる少年なのです。
英語が話せず、孤独で不安、質素ないでたちのビト と、キレイに着飾った孫のアンソニー。
その後の、盛大な聖餐会をしてもらえる アンソニー と 一人隔離されている ビト との、同年代ではあるが、全く環境が違う二人の、57年の隔たりを繋ぐオーバーラップの見事さに感動したのです。
ビト の時代と マイケル の時代は、関連する要素をブリッジにして、2つの時間をオーバーラップで繋いでいくようです。この構成は、2つの時代の整理・対比がたやすく、「感情の相似や、環境の相違」 を念頭に観察が行えるなと、期待をしたのでした。
そして、「ゴッドファーザー」 の ファースト・シーン と パート2である今作のこの聖餐会の 「デ・ジャブ効果」 も見事でした。「ゴッド・ファーザー」 のファースト・シーンは ビトの娘、マイケルの妹である コニー の結婚式でした。その晴れの日の 密室において、ビト は裏稼業の密談をしていましたが、今作の聖餐会の密室において、マイケル も裏稼業の密談をしているのです。この、完全なる既視感(デ・ジャヴ) の中で今作が前作とリンクをし、前述の 「感情の相似や、環境の相違」 が展開されていくといいな とも思ったのです。
そして密室のドアを1枚開けるとそこは とっておきの晴れの日が進行している、 「裏の暗黒社会⇔表の健全世界 の表裏一体した」 彼らの特殊な世界観が表されていたのです。
第2回目 (8月30日 アップ分)
序盤に 「ゴッドファ-ザー」 との対比を多く語ってしまったため、先を急ぐことにします。
マイケル の時代に大きな事件が勃発しました。マイケル の自宅の寝室にマシンガン攻撃を受けたのです。事の収拾に動き出す マイケル の横顔にオーバーラップしてくる青年の姿がありました。
時は1917年 ビト 25歳。 1児の父親となっていたのです。
9歳の時、自分の名前を主張することができずに 間違って ビト・コルレオーネ という名前になってしまった、あの、何もできなかった孤独な少年が どのようにして、ロバート・デ・ニーロ になっていったのかにも、興味が湧くところですが、今作は残念ながらそれを語ることはせずに、25歳の ビト へと飛んでいったのです。
この2つの時制を結ぶものが 寝室を銃撃された直後、マイケル が息子を気遣いながら寝かし付ける 「父親の顔」 と ロバート・デ・ニーロ 演じる ビト の、ベビーベッドにいる 長男 を見守る 「父親の顔」 へのオーバーラップであったのです。 世代は違えど、子供を気遣う普遍的な感情を見て、心が暖かくなったのでした。
デ・ニーロの初登場のこのシークエンスでは 地元のマフィアが登場し、今は堅気のビトがどのようにして、この地元のマフィアに関わっていくのかを見守ることにします。
一方の、自分の命を狙われた マイケル にも 重要な人物が登場しました。父親世代から取引がある マイアミの大物 ロス という人物で、マイケル はこの ロス なる人物が自分達を襲わさせたのではと疑い始めていきます。
しかし、マイケル は、その ロス と、キューバのハバナにカジノを設立しようとする大きな事業を始めていたのです。そんな疑念を胸に抑え、事業をまとめる為に、ハバナで ロス と行動を共にする マイケル ですが、その中で ロス に利用されている人物がファミリー内にいることを嗅ぎ付けるのです。その内通者が誰あろう、自分の兄の フレド であることを知って、マイケル は愕然とします。フレド は ビト の次男で(長男の ソニー は前作で射殺され、マイケル は三男)、およそ、コルレオーネ家の者とは思えない おマヌケ、ダメ男キャラなのです。
老練の ロス と実兄の フレド を マイケル はどのような処置をするのだろうかと見守っていたら、何と、唐突にキューバ革命が勃発したのです (すごい展開)。
動乱の中で ロス の殺害に失敗をし、混乱の中で フレド は マイケル を恐れて逃亡。 という散々な結果になったのです。
しかも、アメリカに戻ってきた マイケル にもう一つの波乱が襲い掛かります。
ハバナに留守中の間、奥さんが流産をしてしまったのです。
命を得ることができなかった自分の子供を思い、落胆の表情をうかべている顔が映し出されて、ここでどうやらオーバラップされていくようです。 デ・ニーロ 演じる ビト の世界へと移行していくようです。
と、その時、気付いたのです。 ボクは今作の主人公であるところの、マイケル のストーリーよりも、若き ビト の物語を欲っしていたのだと。 マイケル のストーリーを追いつつも、心のどこかで、早くオーバーラップが始まって ビト に移行していかないかなと思っている自分を発見したのです。
何故だろう? この問いかけを胸に、中盤以降の鑑賞を続けたいと思います。
マイケルの、生まれ出ることがなかった子供を思う落胆の表情から、オーバーラップされていく ビト の表情も、きっとマイケルと同じ、沈みがちなものなのだろうなと予測していたら、ありがたいことに的中したのでした。
前回の ビト へのオーバーラップにおいても、襲撃で動揺している息子を気遣う マイケル の表情から、まだ赤ちゃんの 長男ソニー を慈しむ ビト へと 同じ感情を内包した同じような表情に移行して行ったからなのです。
1958年の マイケル と同様に、父親である ビト も似たような感情を抱きながら、1910~20年代の若き日を生きた事実を訴求してきたわけですから、今回もこの手法を採用するはずと思ったのです。
今回の ビト の沈みがちの表情の原因は 次男 フレド でした。前回は長男 ソニー しかいなかったのですから、前回の時制から数年経過したことがわかるのです。その時間の経過を表すとともに、1958年の フレド は家長たる マイケル の不興を買って 微妙な “困ったちゃん”状態 だったことを今一度、1910~20年代の、赤ちゃんの フレド を見て思い出すことができたのです。
肺炎にかかり民間療法を嫌がり泣く姿が提示されてきました。
フレド は赤ちゃんの頃から脆弱で厄介な存在であったのです。
その憐れな次男を、耐え切れない表情で見守る ビト がいるのです。
そうなのです。 これなのですよ。
ボクが 今作の主人公 マイケル より、若き ビト に気持ちがいってしまうのは。 彼の人間味溢れる側面に魅了されていたからなのです。
前回の ビト のシーンにおいても、盗品のカーペットの上に、赤ちゃんのソニー を立たせて、ささやかな幸せを喜ぶことができる、慎ましやかな生活の中いる ビト が好きになっていたのです。
そして、9歳時の、何もできなかったあの子供が、親の愛情に一切ふれることができなかった、憐れな少年が、結婚をし、子供を慈しむ大人に成長していたのが嬉しかったのです。
そして、ビト の世界を見守るボクら鑑賞者の気持ちの中には、もっと複雑な感情が芽生えたことも認識し始めたのです。
それは、第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、老年となった ビト が農園で死を迎えたことを予め、目撃していたことも関係しているのです。ビト 9歳の初登場シーンの時点で、彼の死をどうしても意識してしまっていたのです。そして立派になった ビト の 成長を喜んでも、彼の生命の終焉の光景がついて回っていたのです。ましてや、そんなビト を嬉しがらせた、生まれたばかりの ソニー に至っては、抗争の果てに惨殺されて、ビト が悲しみに打ちひしがれる姿を目撃しているワケですから、どうしても訪れる、避けられない 「死」 というものを思うと、複雑な思いを持たざるを得ないのです。
9歳時の哀れな ビト と、壮絶な人生の末、農地で息を引き取った彼の最期を見てしまった者としては、
青年 マイケル が 「ゴッドファーザー」 の経緯を経て1959年の今を生きる姿より、
どうしても、デ・ニーロ ビト の人生に興味が移ってしまったのです。
今回のシークエンスにおいて、デ・ニーロ ビト に人生の大きな転機が訪れます。地元のマフィア ファヌッチ という人物から金品を要求されるのですが、彼は交渉決裂の後、その ファヌッチ を殺害してしまうのです。コトを終えて帰宅した彼を迎えたのが3人の息子。
裏稼業に立ちはだかる大きな障壁を排除したこの時点において、三男の マイケル が生まれていたことによって、確実に時が過ぎていったことを示していたのです。
ここにきて、若き ビト と 1959年の マイケル の人生とに相違が表れてきたことを、興味深く、感じました。それは、マイケル が流産によって子供を失っていた一方で、 ビト には次男の フレド、そして、自分を継ぐことになる マイケル が誕生しているのです。
そして、ビト は障壁となっていた 地元のマフィア ファヌッチの殺害に成功し、次なる展望が見えたにも関わらず、マイケル は 自らを襲撃した マイアミの ロス 殺害にキューバ革命の混乱によって失敗してしまうのです。この2つの相違が、今後どのように 二人の人生に影響を与えるのか、否かなのかを、
個人的興味として追ってみたいと思います。
第3回目 (9月13日 アップ分)
自宅襲撃、ハバナでの混乱、流産 と、厄介続きの マイケル に新たな災難が振りかかります。
マイアミの ロス の反撃にあって、政府の公聴会でマフィアのボスであることの追及が行われたのです。
家族 を、そして ファミリー を引きいていくことの憂いを滲ませた マイケル の横顔 から、念願の ビト の時代にオーバーラップしていくのですが、今回は明らかに様子が違ってきているのです。
マイケル が憂いた表情だったので、今まで通り、そのような表情の ビト で繋がっていくと思っていたところ、ナチュラルな表情の ビト がいたのです。 ここにきて、ビト と マイケル の、「相似していた感情」 は 終わりを告げ、逆に ビト と マイケル の間にある 「相違する環境」 がクローズアップされる予感を持ったのです。
それを強調するカットがそのすぐ後やって来ました。道端でオレンジを買い求める ビト がお金を支払おうとすると、店の主人が 「いいですよ、気持ちです。お世話になっている。」 と お金を受け取ろうとしないのです。
このカットによって、ビト が 力と信頼 を得た実力者に成長していたことがわかるのです。 一方の 1959年の マイケル は父親のビト から引き継いだ巨大な利権や組織を維持するために奔走し、そして疲弊していく姿をさらし、1920年代の ビト は、その人柄から、リーダーとしての信望を集めていくのです。
今回の ビト のシークエンス終わりは、彼の初めての会社を立ち上げて、ファミリーの基盤を築いた充足感にみちたシーンだったのです。
この象徴的なシーンから マイケル の時代にオーバーラップしていくのですが、もはや 「感情の相似」 が消滅し、「環境の相違」 でのみ語られてきた今作に 充足感に満ちた表情の彼に繋いでいくことはない。と思いながら観察していくと、次なる マイケル が置かれた舞台は 非常にシリアスな場面、政府による、公聴会の現場であったのです。
これで 二つの時代の 二つの世代によって進行するとばかり思われた 「感情の相似」 と 「環境の相違」 は、予測通りに 「感情の相似」 は跡形も無く消滅し、「環境の相違」 のみが語られていくことを確信したのです。
公聴会という危機を脱する過程において マイケル は実兄の フレド を排斥し、妻の ケイ には家を出られてしまうのです。決定的だったのは、ハバナの動乱中に流産した子供が、実は妻の ケイ によって堕胎されていたという事実だった。
「あなたの子を この世に生みたくなかった」 と言われて激高するマイケル。兄弟という関係の解消、妻からの憎悪 という、彼を支えていた 「絆」 が急激に崩壊し始めていったのです。この決定的に 負 の方向性に転がり始めた マイケル の人生とは対照的に 今作は待望の ビト の時代を語り始めるのです。
マイケル の夫婦の修羅場からどのようにオーバーラップをしていくのかと思っていたら、今までの関連性をスパッと断ち切るように “カット繋ぎ” で、ビト の世界に移行してきたのです。
陰鬱な マイケル の世界から ビト は生まれ故郷の シチリア に、 まるで マイケル に見せ付けるかのように、家族そろっての 故郷に錦を飾りにやって来たのです。
当初、ボクが感じてきた 2つの異なる時代を、それでも同じ感情を維持した関連性を表現するために、“オーバーラップ” という手法が採用されていた。と理解をしていたのですが、今回の移行は、初めて、その法則に反してのシンプルなカット繋ぎだったのです。
ここに、前述の通りに 「感情の相似」 は跡形も無く消滅し、「環境の相違」 のみが語られていくことを、
制作者の文脈においても宣言がなされたことを知ったのです。
ビト の故郷に錦を飾る行為は、ある一つの目的に集約されていたのでした。
思い出しました。彼が9歳の時、何故、生まれ故郷を一人で離れなければならなかったのかを。
地元のマフィアに敵視され、父母、兄 を殺害され、自身も命を狙われたからこそ、逃げるようにしてアメリカ移民の船に潜り込んだのです。
彼は復讐の為にシシリーの地にやって来たのです。
過酷な運命を強いられることとなった、地元のシシリーマフィアを殺害する ビト ですが、それは、殺された家族、そして、自分への仕打ちへの復讐には違いないのですが、「ゴッドファーザー」 そして、この 「ゴッドファーザー PART2」 を鑑賞した者としては、大きな妄想が展開されていったのです。
彼の復讐は 彼をアメリカのマフィアにならしめる原因を作ったが故に、その後、「ゴッドファーザー」 のストーリーにおいて 長男 ソニー が抗争によって亡くなる悲しみを与え、しかも、この 「ゴッドファーザー PART2」 に至っては、1959年マイケル が 地位を維持するために、人間として大切な一切を失ってしまうことまでもを含めて、コルレオーネファミリーの不幸の全ての復讐だったのだ。
という思いにかられたのです。
ビト の復讐劇は、長男ソニー や 三男マイケル はまだ子供でしかない1920年代の出来事なので、1950年代に対する復讐なんていう妄想は現実味の欠けらもありませんが、今作のような、時制が行き来する構造の作品においては、遭えて、時制のカオスの中に、自ら迷い込むようにしておりますので、どうしょうもなく、こんな不条理な感覚を得ることができたのです。
この瞑想のラビリンスは久しぶりに味あうことができた思いであり、ボクは個人的に大きな満足感を得ることができたのです。
故郷に錦を飾り、積年の思いを果たした ビト は列車の上で マイケル を抱いて、見送りにきた人々に手を振ります。およそ20年前、惨めに故郷を後にしなければならなっかた自分の姿を復権させた誇らしさに満ちた表情で。 こうして ビト の 物語は自らのオトシマエを付けて終わりをつげていきました。今は裏家業においての売り出し中の身ですが、過去の呪縛を葬ったこの出来事をキッカケにして一大コルレオーネファミリーを育て上げるサクセスストーリーが展開していくのでしょう。
片や、2代目の マイケル のラストのシークエンスは、彼の 「負」 の行いが噴出していくのです。ビト の奥さん、で マイケル の母親にあたる人物が亡くなるのを期に、ダークな側面に身をやつすことになります。 公聴会で反旗を翻した裏切り者や、敵対していたマイアミの ロス を殺害し、粛清の嵐を巻き起こしていったのです。その動きに加え ロス に利用されていた実兄の フレド を マイケル は、あろうことか、
射殺 ! (えッ !!... ?)
危険な予感がする全てのモノを排除し、自分の立場を維持するために自らの兄貴まで手を掛ける マイケル の姿を見て、常軌を逸した、追い詰められた孤立感を懐に抱えながら、精神崩壊をきたしていたことを初めて知りました。
この世のものとは思えないほどの、虚無感に包まれた マイケル の表情から 今作は最後のオーバーラップを企てていくようです。
今作がこのような プチ 「地獄の黙示録」 とも言うべき モラルの倒錯、精神崩壊の局面にあって、コッポラは一体全体この画をどこに繋いでいく気なんだ。 と事の成り行きを観察していたら、今作は極上の時制に飛んでいったのです。
いきなり 今は亡き長男の ソニー に繋いできたのです。
ビックリ しました。
このシーンはどうやら 第1作目の 「ゴッドファーザー」 の数年前 というところでしょう。
ビト の誕生日を祝うファミリーパーティの為、家族全員で ビト の帰宅をまっている場面です。
長男の ソニー は陽気で喧嘩っぱやく、この家族の若きリーダーとして振舞っている。
マイケル はまだ大学生で 第2時世界大戦に志願したことを家族に告白をしている。
ソニー が マイケル の入隊志願に立腹し、それに対して意固地な態度を取る マイケル は、今日のこの日、父親の誕生日を祝う雰囲気をブチ壊しているのです。そんなタイミングで誕生日の主人公の ビト の帰宅の気配。
長男ソニー 次男フレド、妹コニー、母親、顧問弁護士のトム 等、ファミリー の全員が 父親 ビト を出迎えるためにダイニングを出て玄関に向けてフレーム・アウトをして来ました。
唯一人、マイケル を残して。
一人取り残された マイケル 。 賑やかだったけど、今は寂しい食卓に、ポツン一人で座っている。
ちょっと離れた玄関では、ビト の誕生日を祝う歓声が上がっている。
しかし マイケル はただ独りで 座っているしかできないのだ。
このシークエンスは 多くの感情を鑑賞者に訴えてきたのです。
まず、ソニー。 陽気で人情家の親分肌。かなり血の気が多いけど心底、父親の ビト を慕っていることがわかります。2代目を彼が継いだら、父親の経験値を生かして、きっと良いリーダーになったことだろうなと思わせてきます。
次男の フレド は 海軍へ志願したマイケルに向かって 「偉いよ、おめでとう」 と握手を求め、唯一人、彼の志を評価している。
そうなのだ、 この男は ダメキャラではあるけど、人の気持ちがわかる、優しい兄 だったことが、ここでわかるのだ。そして、長兄の ソニー の良き “じゃれ合い仲間” として描かれており、ソニー が2代目を継いだときの組織の良き クッションの役 になれそうな思いも持ちました。
そして、マイケル。 ファミリーの皆は全員、ビト のところに行ってしまった。 ソニー がリーダーとなって ビト を祝う場面に去ってしまい、彼の近くには誰も残っていないのだ。
その孤独な様が、この十数年後の 「ゴッドファーザー PART2」 の現在の彼の姿とリンクしてきたのです。
この瞬間にボクは、静かに、とても大きな映画的感動を覚えたのです。
長男ソニー は銃殺され、母親も他界。妹のコリー とは彼女の男関係で対立し、顧問弁護士のトム はマイケルの専横ぶりに気持ちが乖離。そして、次兄 フレド はマイケル本人が殺させた........。
組織を背負い、その重圧で精神に異常をきたし、大切な一切のモノを失う男の末路を、
全く違うスチュエーションに託して、多重的に訴求してきたところに、感情を揺さぶられてしまったのです。
しかも、そのカットが前作の 「ゴッドファーザー」 よりも時制的に前の場面を選択してきたことに、大いに反応してしまったのです。
何故なら、この処理によって、今作が時空の枠を超えて、自由自在に行き来する構成であったことを、改めて確認することができたからなのです。
今作のこの縦横無尽で既成概念に囚われることのない、時制の大胆なアレンジと、
前作の 「ゴッドファーザー」 を鑑賞した鑑賞者の感情の期待を断ち切るほどの、過酷な側面によって、
今作は、続編モノでありながら、第1作目と同様に、アカデミー賞作品賞を受賞することが、できた由縁であると
感たのです。
そして、
高校生のボクの鑑賞眼はまったくのフシ穴だったことがわかりました。今作がこんなにも芳醇で、想像を絶する悲惨な映画であったことを、感じることさえもできなかったのですから。
こんな事実を前に、ボクは決心しました。
高校生の時に観た映画に対して意見を求められた時は、
謙虚に 「未だ観たことがない映画です。」 と答えることにします。
続きの未完成レビューはこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2010-10-12
完成! 「洲崎パラダイス 赤信号」 [DVD 車内鑑賞レビュー]

今作は
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
↓
「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」
というプロセスを推移していく、2つの事例を織り交ぜながら
表面的なストーリー展開と並行する、この
「制作者の文脈」 を推理する楽しさ に満ちた鑑賞となりました。
そして、川島雄三 という天才が、
日陰者の視線から
日本の近代化と経済成長の 「予見」 を
語っていたことに対して 、
社会学的な価値を見い出せた作品。 と、評価します。
序盤早々、今作の主人公が登場するファーストカットに
ボクの映画的興味は
強く惹き寄せられていきました。
それは、 “一人の女がタバコ屋で一箱のタバコを買う” という、
ありきたりなカットなのですが、
そのタバコは自分の為ではなく、男の為に買った物であり、
無けなしのお金で買ったことがわかってくるのです。
この後に続く隅田川の橋の上での会話から、この男は
生活力の無い ダメな 男
であることがわかり、
タバコを買った女は、器量と度量を持ち合わせていながらも、
この ダメな男 と離れられることができない 女
であることもわかってきます。
このズルズルとした関係性が、先の、
「無けなしのお金を使って、男の為にタバコを買ってあげてしまう女」 の姿に
見事に集約されていた
と、感心してしまったのです。
一文無しとなった二人は、洲崎に流れて来ます、
「洲崎」 とは、かつて深川にあった 赤線地帯 で、そのエリアに入って行く門が
「 洲 パラダイス 崎 」 という
電飾看板となっており、
その看板コピーが今作の題名となっているのです。
しかし、二人は 「 洲 パラダイス 崎 」 の門をくぐる直前に、その手前にある 一杯飲み屋 の厄介となることになります。
ここでも、先の 「タバコを買い与える」 シーンのように、
「関係性」 や 「今後の展開」 を 暗示する
シークエンスが用意されていたのです。
女はその 一杯飲み屋 で働けることになったが、男の働くあてがない、という状況下で、 所在無く 一杯飲み屋 の居間で、お店が引けるのを待っている男ですが、
お店の二人の息子達にメンコ遊びの邪魔だと邪険にされ、布団を敷く作業によって、追い出されるように居間から出て行く、 というシークエンスがありました。
これによって、ダメな男 の居場所のない状況が
ここ、洲崎直前のエリアにおいても展開 していくことが、
推測できるのです。
「タバコを買い与える」 ショットや、この 「男の居場所が無い」 シークエンスにおいて、 「関係性」 や 「今後の展開」 をインプットしてきたことに対して、ボクは今作の構造の確かさを認識したのです。
この 一杯飲み屋 において今作のストーリーを左右する重要な人物が登場してきました。
それが、この 一杯飲み屋 を一人で切り盛りしている おかみサン だったのです。
男の居場所が無い様を訴求した、二人の男の子の母親である彼女ですが、この家には夫の存在がありません。
しかし、苦労しながらも、キチンと子育てしている姿が偲ばれてくるのです。何故なら、メンコ遊びに興じていた兄弟が、自発的に布団を敷き寝支度をする様に、親子の健全たる姿が伺い知れたのです。
また、翌朝には 弁天様に日常的にお参りしている姿を映し出し、男の働き口を探し出すなどの行いから、「洲 パラダイス 崎」 の門をくぐる直前の 「最後の良心」 とも言える存在感なのです。
中盤には、洲崎赤線に囚われている女たちの悲哀と、それに群がる男あちの滑稽さが訴求されていきました。
しかし、このシークエンスにおいて、最も興味を惹かれたのは 一杯飲み屋の おかみサン の、旦那が、 「洲崎パラダイス」 の女と失踪してしまった、という事実でした。
弁天様を毎日拝む、品行方正な振る舞いの おかみサン ですが、 「洲崎パラダイス」 の影響からは無関係でいられなかったのです。
おかみサン の意外な現状とともに、ストーリーにおいても、
意外な展開が
始まっていきました。
離れられない女 が ダメ男 を捨てて、お店で知り合った羽振りの良い中年男と、この地から抜け出して行ったのです。
ダメ男 はあくまでも ダメ男 のままで、
離れられない女 は愚直なまでにも 離れられない女 であって
「なけなしのお金でタバコを買い与える」 女 であるのだろうな、と
勝手に思い込んでしまったものですから、この展開に、唖然としてしまったのです。
しかし、この展開に一番驚いたのは当然のことながら ダメ男 であり、
これに対する ダメ男 の反応の中にボクは
大きな映画的興奮を
感じることができたのです。
女が店の客 (中年男) と外出してしまったことに 腹を立てた ダメ男 が 一杯飲み屋 のコップを投げつけ、割ってしまう、というシーンがあります。
そのタイミングで おかみサン の息子が寝ボケながらオシッコに起きてくるのですが、その一連に、
「ガラスの破片を跨いでゆく子供の足」 のアップカット
が唐突に挿入されてきたのです。
この挿入カットが 、それまでの演出リズムとは違うことから、
「関係性」 や 「今後の展開」 を 暗示する映像 として
印象深くボクの心に刻まれていったのです。
そして画面は、外で用を足す我が子が雨に濡れないように、割烹着の裾で頭を保護してあげる おかみサン、という、 これも印象的なカットに繋がっていったのです。
そんなシークエンスを観ている内に、ボクは突然、
悪い胸騒ぎ
を覚えてしまったのです。
逆上した ダメ男の 怒りが、この子供たちに向けられ、
その被害を おかみサン が被るという
「予見」
をこの一連で感じてしまったのです。
そんな思いを抱えながら成り行きを見ていたら、夜の街をパトカーが 一杯飲み屋 に急行したのです。
まさか、と思いながら注目していたら、おかみサン がパトカーから降りて来るではないですか。
ダメ男 が警察沙汰を起こして、おかみサン が悲劇に見舞われてしまったのか?
子供は無事か!
なんて思いが矢継ぎ早に浮かぶ中、肝心のオカミさんは何故か ひょうひょう とお店に向かって歩いていくのです。
何てことは無い、お店で発生した無銭飲食の事情聴収で警察署から送ってもらっただけ、だったのです。 (脱力)
ボクはこのシークエンスにおいて、川島雄三監督の悪戯に一人でほくそ笑んでしまったのです。
「割れたガラス破片の上を跨ぐ、危なっかしい子供の足」 のアップを唐突に抜いてくることによって、ダメ男 による
悲劇が起こることを 「予見」 させ、
結局はパトカー騒ぎまで捻出して、鑑賞者の気持ちをもて遊んだわけですからね。
しかし、この一連はそんな表面上のおもしろさに留まらない、構造上の重大要素に気付くキッカケとなったのです。
何故なら、次の瞬間、思い出したのです、
このように 「予見」 を振りまくアップ画面が
もう一つ仕掛けられていたぞ!
って。
それは、主人公の初登場シーン
「無けなしのお金でタバコを買う女の手」
のアップ映像だったのです。
ボクはこのアップ映像を見て ダメ男 と 離れられない女 の
「関係性」 や 「今後の展開」 を 暗示する = 「予見」 させる
カットであると思い込み、それを根拠にレビューを書いてきましたが、
この 「タバコを買う手」 も 「割れたガラスを跨ぐ足」 のアップ映像と同じ、川島雄三監督による悪戯、否、映画を構成する上で
効果的な手法である 「 トラップ (罠) 」
であったのだと気付いたのです。
象徴的で唐突なアップ映像を提示して、観客に一つの 「予見」 を植え付ける。そして、あるタイミングでその 「予見」 を裏切っていく.....。
暴力沙汰が起こるように 「予見」 をさせといて、観客を煙に撒く。
ズルズルの関係が続くと 「予見」 をさせといて、キッパリとそれを絶つ。
このように、「トラップ (罠) 」 の効果によって、明確な方向転回が成されていたのです。
「トラップ (罠)」 というと、サスペンス や ミステリー に使われやすい手法ですが、
この様に、人間を描く作品に多重的に採用されていることに対して、とてもうれしく感じたのです。
( 作品全体のコンセプトが 「トラップ(罠)」 そのもである 「シックス・センス」
や 「エンゼル・ハート」 という作品を思い出しました。
そして当然のことながら、これらの作品の拠りどころなっている大傑作。
ヒッチの 「サイコ」 を懐かしく 思い出したのです。)
サスペンスやミステリーのそれは、「予見」 を振りまきながら、最後にはその 「予見」 をキッパリと裏切る 「 トラップ (罠) 」 によって、ショッキングな結末を突きつけてきたわけですが、今作の場合は山椒のように小粒でピリッと、ストーリーにアクセントを効かせてきたのです。
離れられない女 の寝返り
(この動きが、「予見」を裏切って、「 トラップ (罠) 」の役割を演じたことから
「 予見 の裏切り (トラップ) 」 と名付けることにします )
によって 「ダメ男 と その男から離れられない女」 のズルズルとした構図は今作から消えていったかのように思えました。 しかし、
その関係性を引き継ぐ者 が現れてきたのです。
驚くことなかれ、それは、
品行方正な おかみサン だったのです。
「洲崎パラダイス」 の女と蒸発したという おかみサン の旦那が帰って来たのです。
しょぼくれて 一杯飲み屋 の店先に立つ姿は、それこそ ダメ男 そのものでした。
最初は店の鍵を閉めて ダメ旦那 を締め出してはみたものの、
情けなく店先に立つ姿に根負けして、ダメ旦那を 受け入れる おかみサン なのでした。
そして 元祖ダメ男 はそば屋の 出前持ち として働き、オカミさん は戻ってきた旦那と円満な家庭を築き、めでたしめでたし...。
なのか?
まさか、このままおとなしく終わるはずも無いと思っていまいたら、
戻って来たのです、
「ダメ男から離れられない女」 が........。
“ 「なけなしのお金でタバコを買与えてしまう」 シークエンスで、 「予見の提示」 がなされた二人の関係性も、
中年男への寝返りという 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 によって、驚きを創出しながら消滅していった。”
とボクは理解をしていたのですが、女が再びこの地に戻り、結局は 「ダメ男 から離れられない女」 に再び戻っていくとするのなら、
この 「 予見の 裏切り (トラップ) 」 という映像テクニックは、今作が終結するまで維持することなく、効力の中途失効とも言うべき、
「 トラップ の途中放棄 」
というカタチをとり、
再び180°Uターンして、「予見」 の方向性に戻っていくことになるようです。
( 「予見」 が様々な経緯を経て実現していく様を
「 予見 の 具現化 」 と名付けることにします。)
それによって、二人は 「予見」 通りに ズルズルの関係 を引き摺っていくことになるようなのです。
この動きを、理解しやすいように、 左に 「予見」 。 右に 「トラップ」 を配置して図式化すると、冒頭の図式が登場してきます。 これを見ると今作は急激なUターンを描いていることがわかります。
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
↓
「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」
このような構造上の大きな転回が、 再び 「予見」 されてきたのですが、結局はどう展開するのか?
「予断」 を許さない状況となっていきました。
この、ちょっとした混沌状態に来て、ボクの映画的興奮はマックスになっていったのです。
何故なら、ボクが推測した
“ 仕掛けられた 「 予見 の裏切り (トラップ )」 において、効力失効である
「 トラップ の途中放棄 」 が成されることによって、結局は
「予見」 通りに事が進む 「 予見 の 具現化 」 に行き着く ”
という構造を、本当に、今作が取っていくとするならば、
先の 「割れたガラスの上を跨ぐ足 → 子供を庇い雨に濡れる おかみサン 」 で 「 予見 の提示 」 がされた 「予見」 、
「ダメ男 による暴力」
「子供の被害」
「おかみサン の悲嘆」 のいずれかが
実現されるはずだと、確信したからなのです。
その根拠を、「タバコを買う手」 「ガラスを跨ぐ足」 の2つのケースによって進行していく 先程のプロセス (過程・経緯) を整理して、またまた図表にして説明してみることにします。
一番左の列に 本構造におけるプロセスを表記。 真ん中の行に 序盤から 「 予見 の提示 」 をしてきた 「タバコを買う手」 のケース。 一番右の行が この構造上のプロセスを認識させてきた 「ガラスを跨ぐ足」 のケースを置いて、具体的にどのようなことが行われたかを俯瞰してみます。
そして、 出来事の発生時間順に通し番号をつけて整理してみます。
【 プロセス 】 【 ケース A 】 【 ケース B 】
「 予見 の提示 」 1. タバコを買う手 3.ガラスを跨ぐ足
ダメ男 による暴力か
予見 ズルズルの関係 子供の被害か
おかみサンの悲嘆
↓ ↓ ↓
「予見の裏切り(トラップ)」 2. 女の寝返り 4.無銭飲食
ズルズルの関係の 暴力、被害、悲嘆
消滅 は実行されない
↓ ↓ ↓
「トラップ の途中放棄」 5.女の復帰 6. 「 ? 」
男 と 女 の再会
↓ ↓ ↓
7か8. 7か8.
「 予見 の 具現化 」 ズルズルの関係の ダメ男 による暴力か
確立 子供の被害か
おかみサンの悲嘆
が現実のものとなる
この時点では ケースA の 「5.女の復帰」 がなされたに過ぎないのですが、表にして考察をすると、
次の 6番目の出来事は ケースB において 何らかの忌むべき事が発生し、最後のプロセスで ケースA 、ケースB ともに 予見が実現されて、今作は結末を迎えるのだろう。との予測がついたのです。
この予測と共に、ことの成り行きを観ていたら、おかみサン は ダメ男 と ダメ男から離れられない女 の関係が修復し、ズルズルの関係が継続しないように
ダメ男 と ダメ男から離れられない女 の再会 を
阻もうとするのです。
と言うのはボクの勝手な観かたで、社会復帰を果たした ダメ男 が 離れられない女 と再会したら、真の ダメな男 に堕ちてしまうと 案じているから会わせないないようにしているのに、
ボクには、おかみサン が今作において、 「 予見 の具現化 」 が成されないように、 そして、その結果、ケースBの 「予見」 である
「ダメ男 による暴力」 「子供の被害」 「おかみサン の悲嘆」 のいずれかが現実化し、
自らに降りかかる災難
と、ならないように、
ダメ男 と 離れられない女 においての 「予見の具現化」 を
潰しに かかっている
と、思えて仕方がなかったのです。
と思っていたら、2度目のパトカーの登場です....。
おかみサン がお参りしている天神様で刺殺体が発見されました。
降りしきる雨の中、ヤジ馬と警官で騒然としている所に
悲壮感を滲ませた おかみサン が駆けつけました。
遺体に掛けられた覆いをどかして被害者の確認をする おかみサン 。
そこに横たわっているのは、「予見」 を感じさせせることとなった息子か?
それとも、加害者と 「予見」 をさせられた ダメ男 か?
と思うまでもなく
ボクは一つの推理に達していったのです。
それは、「タバコを買う手」 と 「割れたガラスの上を跨ぐ足」 の
2つのケースにおける
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
↓
「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」
の経緯を観察してきた身としては、当然の結論に至るのです。
殺害された被害者、それは...。
おかみサン の 戻ってきた旦那
に違いないのです。
何故なら
ボクは今作が 以下のルールによって動いていると確信しているからなのです。
「 予見 の提示 」 で、 ダメな男 と 離れられない女 のズルズルとした
関係を強固にインプットし、
「 予見 の裏切り (トラップ) 」 で、劇的な逆転状況を作り、予見は実行
されないものと確信させて、
「 トラップ の途中放棄 」 という、まさかの局面創出で、女がこの地に戻って
来ることによって、 結局は
「 予見 の具現化 」 がなされて、ズルズル とした関係が決定付けられる
のだ。
というルール。
そんなルールの中で、何故、おかみサン の旦那が命を絶たれる運命にあったかと言うと、
ケースA において、 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 で 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が崩れた瞬間、
新たな、別の 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が
今作中に提示されていたからなのです。
それは 「洲崎パラダイス」 の女と蒸発してしまった
おかみサン の旦那が ダメな男 で、
そんな旦那を受け入れてしまう
おかみサン が 離れられない女 であったのです。
しばしの 新たな 「ダメな男 と 離れられない女」 の時間を訴求してくることで、
元々の 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係は完全消滅し、
「 予見 の裏切り (トラップ) 」 というものが
強固で揺るぎないものである かのような
印象をもたせてきたのです。
しかし、この 「 予見 の裏切り (トラップ)」 が、効力の途中失効とも言うべき 「 トラップ の途中放棄 」 によって、元々の 「予見の具現化」 が成されていくことを考えると、
元々の 「ダメ男 と 離れられない女」 の関係は
復活していくことが、既成事実 であったのです。
こんな感じにね。 ↓
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
タバコを買う手 女の寝返り
ズルズルの関係 ズルズルの関係の消滅
↓
「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」
男 と 女 の再会 女の復帰
ズルズルの関係の確立 ズルズルの関係の復活 の予感
そうなってくると、おかみサン夫婦による 新しい 「ダメ男 と 離れられない女」
は 「 予見 の裏切り (トラップ) 」 の効き目を誇張してみせる という
道化役 が終わり、
その存在意義を急落させた
状態であったのです。
そんな折、もう一方の ケースB、 「ガラスを跨ぐ足」 の方は
「 予見 の裏切り (トラップ) 」 を既に終了し、
次の段階の 「 トラップ の途中放棄 」 と
「 予見 の具現化 」 が 実行される番だったのです。
しつこいですが、こんな感じにです。 ↓
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
ガラスを跨ぐ足 無銭飲食
ダメ男の暴力 か 「予見」 は実行されない
子供の被害 か と安堵
おかみサンの悲嘆 か
↓
「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」
ダメ男の暴力 か
子供の被害 か 何らかの忌むべき出来事
おかみサンの悲嘆 か
が現実のものとなる
予見された 「子供の被害」 「ダメ男による加害」 「オカミさんの悲嘆」 のうち、
どれが実行されるのかというと、今までの経緯を考慮すると
お払い箱となってしまった 新しい 「ダメ男 と 離れられない女」 の
旦那が被害にあって、
おかみサン が悲嘆にくれる。
という流れが、ボクには一番素直に感じたのです。
そして、その不幸が契機となって、 ケースA においても、元々の 「ダメな男 と 離れられない女」 のズルズルした関係の 「 予見 の具現化」 がなされる。という 寓話的なストーリーを信じずにはいられなかったのです。
以上のことから、 被害に遭い、この映画世界から姿を消していくのが おかみサンの旦那 であるとの推理がボクの頭の中で形成されていったのです。
今まで、説明した事柄を、強引に1つの図表にまとめます。
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
【 ケース A 】 【 ケース A 】
1. タバコを買う手 → 2. 女の寝返り
ズルズルの関係 ズルズルの関係
の消滅
【 ケース B 】 【 ケース B 】
3. ガラスを跨ぐ足 → 4. 無銭飲食
ダメ男の暴力 か 「予見」 は
子供の被害 か 実行されない。
おかみサンの悲嘆 か として安堵
↓ ↓
↓ ↓
「 予見 の 具現化 」 ←「 トラップ の 途中放棄 」
【 ケース A 】 【 ケース A 】
8. 男 と 女 の再会 ← 5. 女の復帰
ズルズルの関係 ズルズルの関係の復活
の確立 の予感
【 ケース B 】 【 ケース B 】
7. おかみサンの悲嘆 ← 6.おかみサンの旦那
が現実のものとなる が刺殺される
(予測) (予測)
物語はボクが感じた通りに進んでいきました。
この洲崎周辺エリアは 旦那の他界 と 「ダメな男 と 離れられない女」 の他所への転出によって、物語りが始まる前と (登場人物の頭数という側面において) 同じ状態に戻っていきました。
「戻る」 という言葉を考えると今作のラスシーンは 主人公が初登場した 「タバコを買い与える」 シーンに戻っていきました。
タバコを買うカットこそありませんが、場面は全く同じ、墨田川に架かる橋の上。
会話の内容も見えない明日を嘆く内容であったのです。
彼らの初登場シーンの前にはどのような出来事があったかを知る由もありませんが、「洲崎パラダイス 赤信号」 と同じような経緯があって、今作冒頭の 「タバコを買い与える」 シーンに繋がったのだと推測することができます。
結局この二人は、どこに流れていっても、
「 予見 の提示 」
「 予見 の裏切り (トラップ) 」
「 トラップ の途中放棄 」 を繰り返して、
ズルズルとした関係を実行 ( 「 予見 の具現化 」 ) して来たのです。
でも、少しでも良い方向に進んでいることだけはわかります。
劇中、離れられない女 が以前、 「橋の中(なか)」 にいたことが判明するのですが、今作の 「洲崎パラダイス 赤信号」 のエピソードにおいては 「橋の中(なか)」 に一歩も踏み入れることがなかったわけですから、この二人の男女関係は
改善の方向に
向かっていることがわかります。
そして、次なる移動先においても、今回の関係よりも、もっと良い方向に向かっていくことを 「予見」 させていたのです。
今作のオープニング・シーンでの ダメ男 は 離れられない女 に振り回されるカタチで洲崎まで流れて来たのですが、
今回は 「どうにかなるさ」 と
女をリードしていく
意欲を見せていたのです。
ズルズルした関係を描きながらも、彼らなりの希望を持たせるストーリーを語ってきたところから、
「ALWAYS 三丁目の夕日」 を皮切りに 「フラガール」 等、一時期の邦画の流行りに
同調してしまうようで恐縮すが、ボクにはどうしても、
経済成長の入り口に立った 日本の機運 が
感じられてきたのです。
赤線という前近代的なものがこの2年後の1958年、「売春防止法」 によって廃止され、経済成長が望めるこの時代特有の前向きな感情が、日陰者を主人公にした映画の中にも伺うことができたのです。
この特徴的で大きな成果の賜物は、
川島雄三監督 という美意識
以外の何物でもない。 と強く感じたのでした。
市井の底辺で、それでも懸命に生きている庶民を暖かくも、ちょっと客観的に観察している、川島の視線に心底やられた鑑賞となったのです。
まとめますと、
今作は
「 予見 の 提示 」 → 「 予見 の 裏切り (トラップ) 」
↓
「 予見 の 具現化 」 ← 「 トラップ の 途中放棄 」
というプロセスを推移していく、2つの事例を織り交ぜながら、表面的なストーリー展開と並行する、この
「制作者の文脈」 を推理する楽しさ に満ちた鑑賞となりました。
そして、川島雄三 という天才が、
日陰者の視線から
日本の近代化と経済成長の 「予見」 を
語っていたことに対して 、
社会学的な価値を見い出せた作品。 と、評価します。

メモ 「サマーウォーズ」 [DVD 車内鑑賞メモ]

通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてモバイルPCを使っての車内執筆を実行中。
地下鉄内での通勤時間を活用してのコマ切れ鑑賞となっているため、
鑑賞中の折々なストレートな印象を、同時進行的に3回に分けて、
「鑑賞中メモ」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中メモ」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成 感想文」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を1つのものに推敲して
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
3回に分けてアップしていた 「鑑賞中メモ」 を1つにまとめたものです。
第1回目 (5月31日 アップ)
「オズ」 という 巨大なインターネット世界から今作は始まっていきました。
そこは企業や自治体までもがインターネット支店を設置している、想像を遥かに超えた 「サイバー社会」でした。
しかし、カラフルで可愛いらしい 夢の世界 がそこに展開していたのです。
ハイパーな世界でありながら、ちょっとチープな可愛らしさが同居する。そんな ジャパニメーション の世界観に今後の期待が膨らんでいきました。
そして、舞台は一転して現実社会の高校へと移り 数学オリンピックの日本代表 に成り損ねた
今作の主人公 ケンジくん が 憧れの ナツキ先輩 のフィアンセ役を演じるために長野の山奥
に里帰りするといストーリーとなっていきます。この展開は 少年サンデー の青春マンガを彷彿とさせて
かなり懐かしい気分に浸りました。男の子と女の子がちょっと特異的な環境の中で、共通の体験を通して、特別な感情を持ち合う みたいな。 思春期の男の子にとっては眩し過ぎる世界観です。
このような 青春マンガ のちょっと ヌルイ展開を経て、やがて今作は本題に突入していきます。
「オズ」 の世界に 「ラブマシーン」 という Ai (人工知能) が不正侵入し、「オズ」 内に移設された様々な制御を混乱に陥れていきます。 ここで今作の基本構造を理解することができます。
「オズ」 は仮想世界でありながら、実社会の様々なインターフェースとなっている設定なのです。
というこは、混乱の被害はインターネット上のことに留まらず実社会に直接的なダメージを与える。
という今作の基本ルールが提示されたのです。
それは、交通、水道、救急車両要請 という 「社会インフラの混乱」 という側面から語ってきたのです。
そしてコンピュータ社会特有の アカウント という考え方によると、「社会インフラの混乱」 なんていう程度ではない、今作の題名 「サマーウォーズ」 の ウォーズ = 戦争 に直結する発言がなされたのです。
それは、大統領の アカウント を不正使用したら、「核爆弾の発射 さえもできる」 というものでした。
(まさか、そんな重大要件のスイッチがこんなオープンな場にあるとはかんがえられませんが)
スタート早々の助走の中で感情を揺さぶられた瞬間に出会うことができました。
それは 「社会インフラの混乱」 に対し、援護射撃をするように 先輩の祖母で長野の旧家の家長である矍鑠とした お婆さま が 警視総監を始め、中央省庁の各所に電話をし、渇を入れる というシークウエンスでした。
パソコンやケイタイは 「オズ」 の障害でままならない状況で お婆さま は固定電話 (しかも骨董的 黒電話) をつかって、アドレス帳をたよりに一件一件、丁寧に連絡をとっていくのです。
デジタルの世界が混乱した状況では、時代に逆行した (でもずーと存在していた) アナログ世界のみが確固たる存在となっていたのです。
お婆さま はある人には 言い聞かせるように、そして、ある人には叱りとばしながら、でもその会話の全ての終わりは
「あんただったら できるよ」
という言葉で 締めくくられていたのです。(と思えたのです。)
それは0か1の配列である合理的なデジタルの世界とは対照的な、 情 に直撃して やる気 を喚起させるコミュニケーションだったのです。
このシークエンスに触れてボクの今作に対する鑑賞方針が決まったのです、
「オズ」 を舞台にした パソコンやケイタイ電話による 時空の概念を超越した仮想世界と、
長野の山奥を舞台にした、お婆さま の誕生日を祝う為に集まった 血族という プリミティブ な集団 の関わりを観察していこうと思ったのでです。
そしてこの二つの世界の接合面を 今作の主人公 ケンジくん が担っていくのです。
第2回目 (6月14日 アップ分)
ワビスケ が 異端を通しきれなかったところが非常に残念に思いました。
ワビスケ とは 永らく音信不通であったが、10年ぶりに姿を見せた妾腹の子で、歳は30歳台前半ってところでしょうか、この親族の不況和音となっている人物が 突然 「ラブマシーン」 の開発者であるとの告白がなされるのです。
兵器となりうるプログラミングを開発し、一国に売ったことに対して 親族の避難浴びる中、
突如として お婆さま に助けを求める発言をするシークエンスは、残念に思えてしまいました。
ワビスケ が 「ラブマシーン」 の開発者であるという、安っぽいマンガのような展開と、お婆さま に言い訳する様が、それまで一匹狼的な不協和音として描かれていた ワビスケ のキャラクターに不整合が生じて、戸惑いを感じてしまったのです。
立腹した お婆さま が ワビスケ をナギナタ で成敗するところを 危機一髪で彼は逃げていきました。
この波乱の後、お婆さま の突然の死が訪れるのですが、その前後の描写に思わず唸ってしまいました。
ワビスケ と お婆さま との一悶着の後、主人公の ケンジくん は お婆さまに誘われて花札をします。勝った お婆さま がケンジくん に勝者のお願いをします。それが 「ナツキ を ヨロシク」 という、冒頭において ナツキ先輩 のフィアンセのフリをして お婆さま と初めて会った時に言われた言葉がここでも発せられたのです。
その後の急逝ですから、「オズ」 の世界を語ることに費やされて
ちょっと おざなりになっていた ケンジくん と ナツキ先輩 の青春マンガの関係が再訴求され、オープニングのちょっと 甘酸っぱい感じを思い出していました。
そして 「アニメならではの 珠玉の横移動」 へと繋がっていくのです。
お婆さま が亡くなってしばしの後、大きな居間に夫々の形で佇んでいる親戚たちの姿が写しだされていたのです。カメラ位置 (アニメ作品なので正確な表現ではありませんが) は居間の奥から手前に親族を入れて、縁側を背景にしたポジションで、 すー と横へドーリー移動していくのです。背景は見事なまでの夏空が広がっていきます。真っ青な空に堂々の入道雲、露出 (これも正しい表現でないかもしれませんが) は、背景の夏空に合わせているので、手前の人物は露出アンダー気味、それが返って、そろぞれのカタチを強調していたのです。
この横へのドーリーショットは、まず、乳飲み子への乳やりをしているカタチから入ったのです。
この世を去る人がいれば、生まれ出る人がいて、当然、それを育む人がいる、ましてや、血族というプリミティブな集合であるので、その存在を、命を引き継ぐ という壮大な構図を垣間見ることができる。
呆然とただ座っている人、心臓マッサージをしていた親族で医者の叔父さんは疲労で横になっている、
遊びたいとねだる子供をなだめている姿、そしてドーリーショットの終着点は予想通り 青春マンガの主役の二人なのです。そこまでカメラブレを起こすことなく、夏の暑い日の静寂を語りきった静謐な横移動だったのです。
実写ではこんなにも、定規で測ったような、隙がなく流れるような横移動は無理でしょうから、今作がアニメーションであるが故の 濃密な表現効果に、ただ、感激をしたのです。
それまで単純に キレイ というレベルでは感心をしていたところ、突然に 映画的興奮を沸き立てるカットが展開されたものだから、不意打ちをくらってしまったのです。
そして、2度目の不意打ちには、不覚にも目頭が熱くなる思いだったのです。
「オズ」 で様々な アカウント を強奪していた 「ラブマシーン」 が その中の アカント権限を悪用して、人口衛星を核施設に墜落させる暴挙に出たのです。それは世界崩壊を意味することだったのです。
そんな緊迫な場面において、お婆様が生前 書き残した文書が出てきたのです。
そこには 自分の夫が 他の女に産ませた ワビスケ を引き取る時のことが書かれていたのですが、まさに ワビスケ がお祭りの交通規制で停滞している画面の向こう側に、その文章を再現するように年配の女性と5歳くらいの男の子がいるのです。
ヤバイな と思っているうちに お婆サマ と ワビスケ の関係性の原風景が展開されていたのです。
真っ直ぐな気持ちで ワビスケ を向かえる お婆さま と 不安ながら、お婆サマ の手を握り締めるワビスケ の姿が映し出されていったのです。これによって、捻くれながらも、お婆サマ には従順な ワビスケ と、道を外した ワビスケ を成敗しようとした お婆サマ の心情を多少ではありますが、理解することができたのです。
「若かったころの母親の面影 と 幼かった主人公」 の構図は弱いのです。
成島東一郎監督の 「青幻記」 や 「八ツ墓村」 の中野良子さん 、グレープの 「無縁坂」 の世界観を嗅いでしまい ほろっと してしまったのです。
でも、この不意打ちで関心したのは、先の 「定規で測ったような静謐なる横移動」 と同じような アニメーション 独自の表現だったのです。実写の場合、当然ながら、昔日の姿は、若作りするか、別の子役が演じることになるのですが、アニメの場合、若かった時や子供の時を想定したキャラクターを創出することができるので、違和感無く、「1ショット内、時空越え」 ができるのです。
お婆サマ と ワビスケ の原風景を目撃したワビスケ は 「ラブマシーン」 を封じ込めるために 帰ってきました。いよいよ 「ラブマシーン」 と 主人公たち親族の対決がはじまるようです。
第3回目 (6月28日 アップ分)
「ラブマシーン」 と 主人公の親族たちの対決はユニークにも 花札 によってなされていきました。
勝負の対象は アカウント。 1試合ごとの勝負によって 「ラブマシーン」 が乗っ取っているアカウントを取り返し、人工衛星をGPSで核施設に衝突させることができるアカウントを開放させ、その危機を回避する方法なのです。
それまで、対決と言ったら アバター同士のバトルという直接的な表現であったのに、花札というゲームで決戦を挑んでいくあたりに ジャパンニメーション の奥の深さを感じました。
戦隊アクションモノ や ロボットアニメ、それこそウルトラシリーズにゴジラやガメラまで遡ると 直接的な対戦モノは日本のお家芸なのかもしれませんが、そこに、、DS や Wii、それこそファミコンに至るゲームの源泉である花札を持ってきたことに 日本のオタク文化の融合をそこに見ることができます。
と事の成り行きをそんな特別な気持ちで観察していたら、令静でいられない場面に遭遇したのです。
花札において手持ちのアカウント数だけでは 賭け が成立しなく、対決に負けてしまいそうな局面に追い込まれた時、「74」 というアクント数を虚しく見つめていると、突然、その数が 1つ増えて 「75」 にひっくり返ったのです。対決の場に 無防備なルックスをしたチッポケなアバターが登場してきたのです。
ドイツの男の子が 「ミサキへ、 ボクのアカウント をどうぞ使ってください。」 と対決の場に身(アカウント)を捧げてきたのです。
チッポケな、でも 巨大な存在価値を発揮する、ツルツルしたアバターを見ていたら凄まじい勢いで、そのアバターと同様の賛同者が名乗りを上げたのです。
ドイツの男の子が 「オズ」 の住人達に良心と勇気を呼び覚ましていったのです。
その数と勢いは凄まじく、あっと言う間に チッポケなそのアバターを飲み込んでいくほどでした。
リビングで、街頭で、車の中で、スーパーマーケットで、病室で、農場で、世界の至るところで ミサキ の味方になるべく端末を操作しているさまを見て、胸が熱くなったのです。
この大きな動きを作ったのが、ドイツの名も無き、一人の男の子であったという高揚感がまず一つ、
そしてもう一つは、匿名性の中、他者に対して無関心で無責任、であった 「オズ」 の住人が、ミサキ達の奮闘とドイツの男の子の後押しによって、「情」 的 になっていったことでした。
それはまるで、お婆さま が、「オズ」 で日本のインフラ統制がマヒした際にとった 「あんただったらできるよ」 と 「情」 的な行動によって危機を救ったことを思い出させました。
0101の羅列による、利便性至上仕儀と、ネット内の匿名性が助長した 無関心・無責任 そして同時に存在してしまう 疎外感。 そんなものが覆う ネット・コミュケーション の世界に 「情」 的なコユニケーションが発生したのです。「情」 的、それは、情熱的であり、場合によっては 直情的、そして 機械には持ち得ない 情緒的な側面をもつ、人対人 のヒューマンなコミュニケーション だったのです。
今作は 最終的には 主人公である ケンジ の数学オリンピックの日本代表に成り損ねた、天才的な数学の能力と、彼の不屈の精神力によって、血族の命を救うことで終結してきました。
彼の非常時における人間性の高さによって ナツキ先輩 は彼に恋愛感情を持ち、今作は思い出したように 少年サンデー の世界観の中で終わりを告げていきました。
メデタシ、メデタシ。ということでした。
確かに 「オズ」 のカワイらしいハイパーな世界は素敵でしたし、主人公たちの 青春マンガストーリーは甘酸っぱいモノを呼び覚ましてもくれました。
でも、何故か、今作に対する高い評価を実感することができなかったのです。
それは何故なのかを考察をしていたら2つのことが思い浮かび上がってきたのです。
1つ目は今作の舞台と主人公達の特異性をもっと訴求してほしかった、という欲求でした。
「オズ」の世界とは隔絶されたような田舎が舞台であるのに、ネットが繋がっていれば、瞬時に 「オズ」 の世界に入り込める特異性を訴えてくれれば、ネット社会のバーチャルな面も強調することができたのに残念と思ったのです。
そして、血族 という濃密な生物学的な集団が主人公であるのだから、論理的ではない断ち切れない結びつきを訴求できたのなら、匿名性が強く、無関心・無責任で結びつきが薄弱なネット世界の特異性も対比強調することができたのにと鑑賞中、常に思っていたのです。
もう1つは 人間を語たれなかった故の パワー不足 とでも言っておきます。
確かに様々な登場人物が今作を彩り、夫々の役割を演じてはいたのですが、
血の通った人間としてのリアリティに欠け、彼らは物語をなぞっているだけのように思えていたのです。「アニメだから血が通っていない」 なんて、野暮なことは言わないでくださいね。
「カリオストロの城」 「うる星やつら」 「モンスター・インク」 そして 「パンダ コパンダ」 なんてアニメ作品を愛でることができると思っていますので、そんな単純な話ではないのです。
そもそも、主人公である ケンジくん の実体自体が見えていないような感じなのです。
気が弱くて、やさしくて、数学オリンピック候補に挙がるぐらい能力が高い 少年であることは理解することができますが、結局のところ、それ以外を見つけることができませんでした。
そして、親族たちの心の支柱となる お婆さま の描き方もぬるく感じてしまい。
序盤の 「あんただったらできる」 のくだりと 幼いワビスケを引き取るくだり、に彼女の人間性を垣間見れた程度で、親族たちの心奥底まで影響力持っている理由が感情的に理解できずに、登場人物と自分の感情の温度差を、最後まで埋めることができなかったのです。
以上の2点によって ボクは今作の高い評価に乗り切れなかったのです。
今作は 「定規で測ったような静謐なる横移動」 、「1ショット内、時空越え」 に代表されるように アニメならではの表現手法を駆使した 良質の映像を提示してきました。
しかし 「田舎」 での 「血族の 【情】 的コミュニケーション」 と
「ハイパー世界」 での 「匿名性による無関心・無責任コミュニケーション」 の関係性をしっかりと歌えず、
人間を語ることも中途半端で登場人物の【情】 的な側面をうかがい知ることができなかった
残念な作品と結論付けさせていただきます
完成レビューはこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2010-09-29
完成! 「スラムドック$ミリオネア」 前半 [DVD 車内鑑賞レビュー]

今作は
■ 「生命力に満ちたインドの民衆」
VS
「前近代的で陰鬱なインドの現実 」
という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、
■ 「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という 3つの時空間を縦横無尽に行き来していく構造に狂喜しながらも、
■ ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図までもを
活かすことができなかった、残念な映画。
と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。
主人公である ジャマール へのインド警察の尋問から今作は始まっていきました。
「クイズ$ミリオネア」 での連続正解が不正では? との疑いでの取り調べなのですが、
これが酷い。
確証もないのに、暴力で自白を強要してくるのです。
これがインドという国の実体なのか! という疑念を開始早々、持ってしまったのです。
今作は冒頭からして
「生命力に満ちたインドの民衆」
VS
「前近代的で陰鬱なインドの現実 」
の対比のうちの、
まず、 「前近代的で陰鬱なインドの現実」 という
否定的な側面から
映像世界を語り始めてきました。
そしてこの横暴なる尋問に対して、意図的にカットバックを当ててきたのが、
必要以上にデコラティブな 「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ の場面。
だったのです。
「殺風景な拷問部屋」 と 「煌びやかなTVスタジオ」
この趣きを異にする場所において、
一方は 「尋問」。 片や 「クイズ解答者の紹介」
という、同様の質問を全く違うニュアンスで連動させてきたことに、ボクは強く興味を持ったのです。
そして、この拷問部屋での出来事と、 「クイズ$ミリオネア」 司会者の不遜な態度がカットバックされる険悪な中に
救いの一瞬を
目撃することになったのです。
それは、
「黄色い洋服に身を包んだ若い女性」 が微笑みながらこちらを見上げている、
というカットでした。
拷問部屋での重い時間と、番組司会者の小バカにした態度に気分を悪くしたところに、この鮮やかなカットが挿入されてたのです。
冷酷で冷淡な時間帯にこのような鮮明なショットが挿入されたことで、鑑賞者はこの
「黄色い服に身を包んだ女性」 が
大きな意味を持つ、ことを
直感的に理解するのです。
そして、すぐに 「黄色い服を着た女性」 で感じた同じ高揚感に再会することになるのです。
感電拷問の陰鬱な雰囲気を打ち破るように、今作のオープニングタイトルが、溢れんばかりの生命力を発散させながら始まったのです。
この躍動感が実に、素晴らしい
打楽器を利かせたエスニックな音楽に乗せてスラム街を疾走していく子供達と監視員とのチェイスは、子供達の生きる力がみなぎっていて、ただ、それだけで心を揺さぶられ、意味もなく、涙ぐんでしまうほどでした。
それが、今作の主人公 ジャマール の子供時代の姿であったのです。
今作はこれから
彼の 「子供時代」 という 過去の時制 と
「クイズ$ミリオネア」 収録という ちょっと前の時制 と
収録後の 「取り調べ」 という 現在 。
この3つの時制が縦横無尽に交錯していくのです。
( ということを、この時点では信じていたのです。 )
「クイズ$ミリオネア」 は第1問目、第2問目と進み、第3問目には、「取り調べ室」 の熾烈さを思い出させる、インドの冷酷な側面を映し出してきたのです、
それは、インド国内では少数派である 「イスラム教徒の惨殺」 という無残な側面でした。
このような集団虐殺がインドで行われていたというのでしょうか?
発展途上の国といっても、「BRICs (ブリックス)」 の一翼を担うまでの国が...。
そんな疑念の思いに、再び苛まされていったのです。
その一方で、この過酷な経験の中で目撃した光景が 「クイズ$ミリオネア」 における第3問目の解答と連動していたことに対して、ボクは
今作の構造を理解
することができたのです。
それは、
“これから過酷な人生を送っていく ジャマール坊や の悲劇的な経験が、「クイズ$ミリオネア」 の回答とリンクしていく” というものでした。
そしてこの第3問目の悲劇において、冒頭に鮮やかな印象を受けた 「黄色の服の女性」 が登場してきたようなのです。
何故、 「登場してきたよう」 と、あやふやな言い方をしたかといいますと、ジャマール坊やと同じくらいの4~6才の女の子が ジャマール と ジャマールの兄 と同様に親を惨殺され、ジャマール兄弟 と行動を共にすることになるのですが、その女の子が着ている服が、あの女性と同じ黄色の服だったのです。 そして、その女の子の
描き方が特別
だったので、
きっと何かあるはずと、ボクのスイッチが押されたというわけなのです。
その表現とは、ジャマール兄弟 の仲間として受け入れられる前は、その女の子を意図的にアウトフォーカスで捉えたり、敢えて照度不足にして、
逆説的にその存在感を
強調
してきたことを示します。
この女の子の名前を ラティカ と言い、この時点から、「黄色い服に身を包んだ女性」 が成長した ラティカ に違いないと確信して、今後の展開を楽しみにしていたのです。
孤児としてゴミ捨て場で自力で生きていたこの3人に第4問目の悲劇が襲い掛かります。
詳細は控えますがこの局面においても、インドの暗く冷たいヤミの部分を示してきたのです。
ここまで意図的にインドという新興国に対して、その前近代的な弱点をついてくるところに、今作の制作者である
先進国側の やっかみ を感じ始めてきました。
そして、2007年、同じくアカデミー作品賞を受賞した
「クラッシュ」 を鑑賞した時と似た感情
を思い出したのです。
ラストの密航中国人に対する侮蔑と、彼らのバイタリティに対する恐れ、そして、結局は彼らの増殖を自暴自棄的にやっかむ先進国家アメリカの視線を思い出したのです。
( 後日、調べましたら今作の原作はインド人によるものらしいのです。 インドと
いう国に対する内部告発的な原作なのかもしれませんが、あくまでも映画
という成果物から得た印象を書いていきたいと思います。 )
基本的人権を踏みにじるような行為から、ジャマール兄弟 は逃亡を図り、「黄色い服を着た女の子 ラティカ 」 は取り残されてしまいました。
このように ラティカ が早々と映画世界から姿を消してしまったことに、ボクは驚きの思いを持ちました。
何故なら、登場当初にピンボケや照度不足の手法でその存在を高めておきながら、その後のラティカの存在感は急落していき、その穴埋めができないままの退場となったからなのです。
しかし、ラティカ が将来的に 「黄色い服を着た若い女性」 に成長していくことを信ずる者にとっては、
濃密な何かが
ラティカ と ジャマール の間で起きるに違いない、と確信した瞬間でもあったのです。
第5問目の悲劇へのインターバルとして、今作は再び 「陽」 のパートに移ってくれました。 ジャマール兄弟は列車に違法侵入し、物品の販売をして生活を始めます。
その描写が
非常に素晴らしい。
タイトルバックに展開されたスラム街でのチェイスシーンを彷彿とさせる、生命力に溢れたシークエンスとなっていたのです。そしてその後の、タージ・マハールでの彼らの活躍も、今作が暗い運命を背負っている映画だなんてことを忘れてしまうような笑いに包まれていきました。
しかし、そんなところに、やっぱり 「スラムドッグ・ミリオネア」 という作品を鑑賞していることを思い出させるシーンが挿入されたのです。
ジャマール達の悪事にインド人運転手が容赦ない暴力で応酬したところ、その凄まじさにたじろぐアメリカ人観光客にむかって、ジャマールが
「これが インドの現実 だ!」
と今作に貫かれている内部告発的な主張をするのです。
( それを受けての 「アメリカの真実」 には爆笑。
そうでした。今作は イギリス映画 だったのです!! )
序盤で ラティカ との関係性の希薄さを心配しましたが、それは単なる取りこし苦労となりました。
列車とタージ・マハールでの躍動的な時間を過ごした後に、思春期となった ジャマール兄弟 と ラテイカ とのしばしの再会が用意されていたのです。
でも、それは
インドという社会的な嫌悪とは違う 絶望感
によって引き裂かれていったのです。
過酷な状況下において、「悪」 というものに同調しがちだった
兄サリーム の邪悪な欲望
によって ジャマール と ラティカは
再び引き裂かれていったのです。
今まではインドという前近代的な環境の中での
構造的で社会的な 「悪」 に嫌悪
をしてきたのですが、今回は
兄の変貌の中に生まれた普遍的な 「欲望」
によるものですから、
今までとは違うレベルの 閉塞感 に襲われることになったのです。
この惨い出来事によって ジャマール は、渇望していた ラティカ との再会を引き裂かれてしまった訳ですから、ボクは彼の心の中にある、ラティカ に対する執着をここにきて理解することができました。
しかし、1つ理解に近づいた代わりに、自分の認識から大きく逸脱していった側面が発生していきました。 それは
“ 「クイズ$ミリオネア」 の正解が、ジャマールの過酷な人生の中で経験したものであった。” という
「時空を越えた有機的な関連性」 が
消滅してしまった、ということでした。
そして、時を同じくして、今作の導入部で興味深くその対比を目撃することとなった 「クイズ$ミリオネア」 の煌びやかな世界と、取り調べを受けた陰鬱な拷問部屋の
「2つのパラレルな空間の絡み合い」 までもが、
映画世界から姿を消していったのです。
この事態は 「クイズ$ミリオネア」 という存在を核にして 「取調べ室」 と 「ジャマールの半生」 がその傘下に配置され、この3つの時空を行き来していた
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という今作を推進してきた基本構造が崩れ去り、
「なぜジャマールは難問を正解することができたのだろう?」 という、 今作の
鑑賞動機である 「謎解き」
をも放棄してしまったものと、感じたのです。
これによって
「難問正解の謎」 を 「ジャマールの過酷な半生」 の中に目撃していく
“過去の時制” と、
「クイズ$ミリオネア」 の収録現場での、全問正解に近づくにつれて司会者の態度が変容し、最後には疑念の態度を示していく
“ちょっと前の事実” と、
「全問正解の謎」 を知るにつれて態度を軟化させていく取調べ官がいる
“現在の時制” 、
これら3つの時空間が渾然となって進行していくもの、と期待していたボクの映画的興味を、根源から覆すものであったのです。
このように映画自体が悲惨な状況に陥ってくると、新たな失望感がボクの頭の中で渦巻いていったのです。それは、今作のオープニングに提示された、、「クイズ$ミリオネア」 の四択問題になぞらえた問いかけ、
彼はなぜ勝ち進めた?
A.インチキした
B.ツイてた
C.天才だった
D.運命だった
までもが無残な失笑となってしまう危険性を感じたのです。
序盤は 「クイズ$ミリオネア」 の 正解が、 「ジャマールの半生」 に連動してくると信じていたので、四択の問いかけに対しては
D.運命だった
と即答したのですが、 この構造が崩壊した状況では、勝ち進めた理由は
ただ、
B.ツイてた
と答えるしかないようです。
と、冷笑気味に今作のことを考えを巡らせてていたら、
そもそも、「クイズ$ミリオネア」 の解答と 「ジャマールの半生」 は
密接に連動していたんだっけ?
という根源的な疑問にまで発展してしまったのです。
第3問目において語られた、ジャマール達に降りかかった過酷な側面、「イスラム教徒の惨殺」 にしても、あの殺戮の現場に神の扮装をした子供がいたこと自体が、
D.運命 なんかではなく、
ご都合主義的に B.ツイていた だけだったと、
思えてしまうのです。
続きの 完成レビュー 後半はこちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2010-04-24


完成! 「スラムドック$ミリオネア」 後半 [DVD 車内鑑賞レビュー]
前半 からの続き、前半はこいちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2010-04-24_2
このように先行き不安な中盤を経た、終盤において、ジャマールは 「悪」 の親分に囲われている ラティカ と再会することになります。そして二人は逃避行を企てますが、「悪」 の手下となっていた兄のサリームによって引き離されていくのです。
これは 「二人の悲恋」 を強調するストーリー展開なのでしょうが、ボクは、どうしてもその流れに乗ることができませんでした。
何故なら、既に提示された 「思春期」 においての引き裂かの原因が、
「兄、サリームの性欲」 という
ショッキングなものであっただけに、
今回提示された、サリームの親分に囲われていた という設定に
力不足を
感じてしまったのです。
そして、
「黄色い洋服に身を包んだ若い女性が微笑みながらこちらを見上げている」 カットも
序盤では、あんなにも輝いていたのに、ストーリーを語っていくオリジナルシーンにおいては、何故か、ありきたりな印象しか残せなく、その語り口も、
「悲恋の中の一瞬の光」 という側面が
訴求できていない
と感じてしまったのです。
シナリオと演出上の力量不足によって、ボクは今作のクライマックスシーンに気持ち良く反応することができなかったようです。
しかも、映画全体に目を転じていくと
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という 3つの次空間を行き来していた興味深い構造までもが、十分に活用されることなく終わりを告げていってしまったのです。 何故なら、取調べ室からの 「ジャマールの釈放」 によって
「取り調べ室」 、「クイズ$ミリオネア」 、「ジャマールの半生」
という3つのストーリが
ただ一つの時制に集約をしていったからなのです。
それは、
「現在」 という時制でした。
全ての時制が 「現在」 という1点に到達してくると
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という3つの時制を縦横無尽に行きかう特権を、
今作は放棄してしまったのです。
非常に残念な気持ちになりました。
しかし、このように興味深い構造を逃したのと時を同じくして、もう一つの興味深い構図を見つけることができたのです。
それは、「現在」 という1つの時制に、2つの場所が
明確な違いを発揮しながら存在
していった、 ということでした。
1つは当然のことながら最後の問題が出される 「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ。
そしてもう一方は ラティカ が軟禁状態にある 「悪」 のアジト。
そこには「悪」 の手下である、兄サリーム の姿もあります。
この2つの場所に分離している、ジャマール と ラティカ が、 「クイズ$ミリオネア」 の番組上において、コミュニケーションをはかるようです。 この展開に俄然、興味を奮い立たされたのです。
「現在」 という1つの同じ時制にいる、しかし、遠い距離感を持つ2つの存在が、「クイズ$ミリオネア」 によって接近をしていく
ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
こんな図式を期待することができたのです。
そしてこの図式がどのように今作のクライマックスをカタチ作っていくのかに、興味が集約していったのでした。
と、ここまでラストにむけて挽回をしてきた今作ではありますが、
結局は残念ながらこの期待を活かしきれずに今作は終結していってしまったのです。
ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
の構図は確かにありました。しかしこれから述べるように、細かな無配慮によって、ボクの気持ちに応えてくれることはなかったのです。
ジャマールの幼年時代に親しんできた 「三銃士」 が最終問題に連動してくるという、興ざめしてしまう程の 運の良さ と、 そもそも、途中で語るのをやめてしまった、
“ジャマールの半生 に 難問出題 がリンクしてくる” というルールを
今更持ち込む、
往生際の悪さに
半ば呆れていたところに、
「悪のアジト」 では、悪の手下である 兄サリームが 突然の改心をきたし、軟禁状態であったラティカの釈放が行われてしまったのです。
こんなご都合主義に今作が乗っかり、
ラストに向けて強引に辻褄あわせをしてくるなんて
想像だにしていなかったので、
今まで真剣に鑑賞していた自分が急に滑稽に思えて、
そして、虚しくなってきてしまったのです。
しかも、ラストを盛り上げる為にこのようなに稚拙な舞台を設定したにもかかわらず、
「クイズ$ミリオネア」 の “テレフォン” で接触することができた ラティカ は質問に答えることができなく、結局は役立たずの でくのぼう で終わってしまうのです。
感情の高揚も見ることができない、盛り上がりに欠けるお粗末な展開に
「何なんだろう、このカラ回りは?」 と思わず失笑してしまたのです。
ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
の関係を強引に捻出して、そして 「兄サリームの唐突な改心」 や 「三銃士」 というご都合主義を突っ走っしてしまったのなら、「ラティカによる正解」 という、ベタであるけど、
大きなカタルシスを
創出するべきであった、と主張したい。
て言うか、せめて、それだけは実行して欲しかったと思うのです。
でも、そんな仔細なことについての文句を言うよりも、しつこいようですが、もっと根源的な問題について声を大にして言いたいのです。
「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
の構造をしっかりと活用し、
難問正解の謎を解いていく今作の鑑賞動機を、満足して欲しかった!!
と強く思うのです。 まとめますと
今作は
■ 「生命力に満ちたインドの民衆」
VS
「前近代的で陰鬱なインドの現実 」
という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、
■ 「クイズ$ミリオネア」 (ちょっと前の現実)
↓ ↑ ↓ ↑
「取り調べ室」 (現在) ⇔ 「ジャマールの半生」 (過去)
という 3つの時空間を縦横無尽に行き来していく構造に狂喜しながらも、
■ ジャマール →→ 「クイズ$ミリオネア」 ←← ラティカ
という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図までもを
活かすことができなかった、残念な映画。
と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。


メモ 「洲崎パラダイス 赤信号」 [DVD 車内鑑賞メモ]
通勤時間を活用してポータブルDVDによる車内鑑賞、そしてモバイルPCを使っての車内執筆を実行中。
地下鉄内での通勤時間を活用してのコマ切れ鑑賞となっているため、
鑑賞中の折々なストレートな印象を、同時進行的に3回に分けて、
「鑑賞中メモ」 としてアップ。
作品を鑑賞し終えた後、映画の全体的な構造を俯瞰しながらこの
「鑑賞中メモ」 を再構成して感想文の体裁はしているが、中間生成物的な
「未完成 感想文」 として、3回に分割してアップ。
最後に、これらの分割された文章を1つのものに推敲して
「完成!レビュー」
へと変容していく様をご覧下さい。
3回に分けてアップしていた 「鑑賞中メモ」 を1つにまとめたものです。
第1回目 ( 3月16日 アップ)
今作の題名にある 州崎とは、深川にあった赤線地帯で、そのエリアに入って行く門が 「 州 パラダイス 崎 」 という電飾看板になっており、 その看板コピーが今作の題名となっているのです。
タイトルバックはこの 州崎エリア の女性達が店先に立って客引きをしている横移動カットとなっています。
そこに映し出されている世界は ムンムンとするような活気溢れる場面ではあるのですが、性 を売り買いする猥雑で、混沌とした世界観でした。
そのタイトルバックの次に今作の主人公が登場するわけですが、そのファーストカットに関心をしてしまったのです。
それは、女がタバコ屋でタバコを買うカット となっているのですが、これだけではビジュアル的にはありきたりなものなのでしょうが、そのタバコは自分の為ではなく、男の為に買った物であり、無けなしのお金を使って買ったものであることがわかるのです。
この後に続く橋上での二人の男女の会話よって、この男は 生活力の無いダメな男であることがわかってきます。そして、タバコを買った女は、自分で局面を切り開いていく度量を持ち合わせていながら、このダメな男と離れられることができない女 であることもわかってきます。
このズルズルとした関係性を、先の、無けなしのお金を使って男の為にタバコを買ってあげてしまう女の姿に見事に表現されていたのです。
一文無しとなった二人は、洲崎に流れて来ます、
しかし、 「洲崎 パラダイス 崎」 と書かれた門、のアチラ側であるタイトルバックで流れていたあの雑然とした世界に踏む入れる直前に、その門の手前を川が横切っているのですが、その川に掛かかっている橋の手前にある一杯飲み屋に厄介になることになります。
ここでも、先のタバコを買い与えてしまうシーンのように、関係性や今後の展開を暗示するシークエンスが用意されていたのです。
女はその一杯飲み屋で働けることになったが、男の働く口がない、という状況で、(勿論、女はその飲み屋でうまく立ち回るのですが)、男が所在無い感じで一杯飲み屋の居間でお店が終わるのを待っているのですしかし、そのお店の二人の息子達のメンコ遊びの邪魔になるとして子供達に邪険にされ、その後、就寝のために布団を引く作業が始まり、男の居場所が無くなるというシークエンスがあるのですが、この表現によって、このダメな男の居場所のない状況がここ州崎直前のエリアにおいても展開していくことが推測することができるのです。以降、彼の居場所がみつかるのか否かに注目していきたいと思います。
一杯飲み屋の屋根裏部屋のような2階が彼らのネグラとなるのでが、その部屋が川沿いにあり、対岸が 「州崎パラダイス」 の門が見える場所なのです。二人の行く末によっては、コチラ側とアチラ側を分かつ橋を渡って、「クロウトの女」 と 「そのヒモ」 となってしまうギリギリにいることを、そのまま物理的な位置関係で訴えてくるところに興味を持ちました。そして、タイトルバックではアチラ側の様子を見せてきた今作ですが、序盤においては、カメラ、主人公ともにアチラ側に踏み入れていないことを考えると、今作は今後ともアチラ側の世界に踏み入れることなく、この水際にいる男女のコチラ側の物語りを語りきり、その結末が、この場所に留まるのか、この水際から離れて行くのか、はたまた アチラ側の門をくぐっていくことになるのかの選択となって幕を閉じる予感を感じました。
そして、コチラ側とアチラ側という意識がボクの脳裏に浮かぶキッカケとなったのが、コチラ側の水際で一杯飲み屋を営む オカミさん の存在でした。男の居場所がない様を訴求してきた、二人の男の子の母でもある彼女ですが、この家には夫の存在がありません。その理由が今後言及されるかは定かではありませんが、苦労しながらも、キチンと子供を育てていることが偲ばれてくるのです。メンコ遊びに興じていた兄弟ですが、自発的に布団を敷いて寝支度をする姿に、親子の健全たる関係を推測することができるからです。また、翌日の朝には 弁天様に日常的にお参りしている姿を映し出すなど、そして、男の働き先を探してくれるなどの行いの中に コチラ側の 「最後の良心」 とも言うべき存在感を見出すことができるのです。この良識ある オカミさん のサポートのもと、居場所が無い男は 水際のこの地で職を得ようとしています。当然のことながら、問題が起きることになるのでしょうが、その際のこのオカミさんの対応と、ダメな男に振り回される 女 の姿でも見ることにしましょう。
第2回目 ( 3月31日 アップ)
ボクが 「アチラ側」 と呼んでいる 州崎赤線の悲哀が訴求されていきました。
今作の登場人物たちは 州崎パラダイス のことを 「橋の中(なか)」 と呼んでいるようですので、今後はその呼称にならうことにします。
一杯飲み屋において、「橋の中(なか)」 の住人たる年増の商売女の醜態や、中(なか)の女に手玉に取られているオジサン、そして、中(なか)の少女を救いたいと願う若者を登場させてきたのです。それは 今作の舞台である一杯飲み屋が赤線という、世間離れした特殊な世界との接触面にあることを際立たせていましたした。
中(なか)に囚われている人たちの やるせなさ、女に群がっていく男の滑稽さ、なんていうものを垣間見ることができました。
しかし、この一連のシークエンスで何よりも興味味深かったのは、一杯飲み屋のオカミさんも、旦那が中(なか)の女と失踪してしまったという過去を引き摺っているということでした。
弁天様を毎日拝んでいるような、品行方正な振る舞いをするオカミさんですが、「橋の中(なか)」 の影響からは無関係でいられなかったようです。
オカミさんの意外なキャラクター展開とともに、今作において、意外なストーリー展開が始まっていきました。それは、主人公の 女 が ダメ男 に 金の無心をする という展開でした。
冒頭の 「なけなしのお金でタバコを買い与える」 シークエンスを始めとして、至るところで感じていた世界観が崩れてしまうようで、残念にも思ったのです。
女は ダメ男 に最低限の甲斐性を求めてはいましたが、ある程度は諦めの気持ちを抱いていた。と感じていました。ダメな男 であると認識していても、この ダメ男 から離れることができない、 そんな 情感 を持ってしまった。と思っていたものだから、ダメ男 はあくまでも ダメ男 のままで、気丈な女 は愚直なまでにも 「なけなしのお金でタバコを買い与える」 女 であるのだろうなと、勝手に思ってしまっていたのです。それ故、 ダメ男 のキャパシイティを超える要求を突きつけたことに、大きな違和感を感じてしまったのです。
この違和感は ダメ男 を捨てて、お店で知り合った中年男に付いて、この一歩手前の地から抜け出すという意外な展開に繋がっていったのです。
働き始めた お蕎麦屋の金を盗んで 女 のところに来たが 客(中年男)と外出したことに
腹を立てた ダメ男 が一杯飲み屋のグラスを投げつけてグラスが割れる というシーンがあります。
ボクはこのシーンを非常に興味深く受け留めたのです。
グラスが割れたところにオカミさんの息子が寝ぼけながらオシッコに起きてくるのですが、そこに、グラスの破片の上を跨いで通り過ぎて行くアップカットが唐突に挿入されてきたのです。それまでの演出リズムとは違う映像となってきており、印象深く心に残っていったのです。そして 母であるオカミさんが外で用を足す我が子が濡れないように割烹着の裾で頭を保護してあげるというカットに繋がっていったのです。
このシークエンスに触れてボクは突然、悪い胸騒ぎを覚えたのです。
気丈な女 の中年男への寝返りはボクにとって意外であったことは書きましたが、「なけなしのお金でタバコを買い与えてもらった」 当人としては、非常に大きな驚きと怒りであったことだと思うのです。
その逆上した ダメ男の 怒りが、この子供たちに向けられ、その被害をオカミさんが被るという 「予見」 を感じてしまったのです。そんな折、夜の街をパトカーが一杯飲み屋に急行するのです。
まさか、と思いながら注目していたら、案の上、オカミさんがパトカーから降りて来るではないですか!
ダメ男 が警察沙汰を起こして、オカミさんが被害を被ったのか? 子供は無事か! なんてことが矢継ぎ早に浮かぶ中、肝心のオカミさんは何故か ひょうひょう とお店に向かって歩いていくのです。
何てことは無い、お店で発生した無線飲食の通報をしたら警察署で事情を聞かれただけとのことでした。
このシークエンスはボクにとって 興味深いものとなりました。胸騒ぎを感じさせながら、肩透かしをくらわされたわけですから 「川島さん だましましたね!」 という思いと、しかし、心の深層では 「そこまで考えた構造なんだ!」 という思いで満たされていったのです。
表面上は先に述べたように、割れたガラスの上を跨ぐ、寝ぼけまなこの男の子の足のアップを唐突に抜いてくるものだから、ダメ男 による悲劇が起こるような 「予見」 を感じさせ、結局はパトカー騒ぎまで捻出して、鑑賞者の気持ちをもて遊びましたね! と川島雄三監督の悪戯に一人でほくそ笑んでしまったのです。と、次の瞬間思い出したのです、このように 「予見」 を振りまくアップ画面を。
それは、主人公が初登場した 「なけなしのお金でタバコを買う女の手」 のアップ映像でした。ボクはこの映像を見て ダメ男 と 気丈な女 の関係性を 「予見」 させるカットであると思い込み、それを根拠にレビューを書いてきましたが、この 「手のアップ」 も 「割れたグラスを跨ぐ足」 のアップ映像と同じ、川島雄三監督による 「トラップ(罠)」 だったのかと思い当たったのです。象徴的で唐突な局部アップをフューチャーして観客にある 「予見」 を植え付け、あるタイミングでその 「予見」 を裏切っていく.....。
ズルズルの関係が続くと 「予見」 させといて、キッパリとそれを絶つ。
悲劇が起こるように 「予見」 させといて、観客を煙に撒く。
やってくれるな...。
まんまと手玉に取られたのでしょうが、お見事! という清清しい心持になりました。
ボクは 気丈な女 の変節にあっけにとられていたけれど、きっとパトロールカーから オカミさん がひょうひょうと降りてきた姿を見た瞬間に 「タバコを買う手」 の 「トラップ」 に気付いて、この展開に納得した諸兄もいるのでしょうね。 うらやましいと思います。
さあ、次はいよいよ最終回となる終盤の鑑賞となるのですが、
「トラップ」 によって世界観が振り出しになった今作がどのようなルールを創出し、終結そいていくのかを見守っていきたいと思います。
第3回目 ( 4月14日 アップ)
気丈な女 の裏切りによって 「ダメ男 と その男から離れられない女」 のズルズルとした構図は今作から消えていったかのように思えました。しかし、その関係性を引き継ぐ者が現れていきました。驚くことに、それが、品行方正なオカミさんだったのです。
「橋の(なか)」 の女と蒸発したというオカミさんの旦那が帰って来ます。
しょぼくれて 一杯飲み屋 の店先に立つ姿はそれこそ ダメ男 そのものでした。
最初は店の鍵を閉めて ダメ旦那を締め出したオカミさんでしたが、
情けなく店先に立つ姿に根負けして、ダメ旦那を 受け入れる オカミさん なのでした。
そして 元祖ダメ男 はそば屋の 出前持ち として働き、オカミさん は戻ってきた旦那と円満な家庭を築いてゆき、めでたしめでたし...。 なのか?
まさか、このままおとなしく終わるはずも無いと思っていまいたら、やっぱり戻って来ました、 「ダメ男から離れられない女」 が。
「なけなしのお金でタバコを買与えてしまう」 シークエンスで 「予見」 をさせた二人の関係性も 「トラップ」 であったとボクは理解をしていましたが、女が再びこの地に戻り、結局は 「ダメ男 から離れられない女」 になっていくとするならば、この 「トラップ」 は見せかの 「フェイント」 だったわけで、結局、二人は 「予見」 通りに ズルズルの関係 を引きずっていくのでしょうか?
今作に仕掛けられた 「トラップ」 が実は 「フェイント」 であって、結局は 「予見の実行」 が行われていくと仮定してみましょう。そうすると、先の 「割れたグラスの上を跨ぐ足 → 子供を庇い雨に濡れるオカミさん」 で 「予見」 した ダメ男 による暴力、子供の被害、オカミさん の悲嘆 というものが、「無銭飲食通報でのパトカーでの帰還」 という 「トラップ」 によって胸を撫で下ろした一連までもが同じようにその 「トラップ」 は実は 「フェイント」 でしかなく 「予見の実行」 がなされていくとしたら、「予見」 通りに、暴力、被害、悲嘆 というものが発生してしまうことになります。
こんな思いを抱えながら、ことの成り行きをみていたら、オカミさんはダメ男と ダメ男から離れられない女 の関係が修復するという 「予見の実行」が発生しないように、ダメ男 と ダメ男から離れられない女 を会わせまいと努力をします。 と言うのはボクの勝手な見方で、社会復帰を果たした ダメ男 がこの ダメ男から離れられない女 と会ったら、真の ダメな男 に堕ちていくことを知っているから会わせない内容にしているのに、
どうしても、自らに降りかかる災難を遠ざけるかのように、ダメ男 と 離れられない女 の 「予見の実行」 を潰しにかかっているように思えて仕方がなかったのです。
と思っていたら、2度目のパトカーの登場です。
オカミさんがお参りしている天神様で人が刺殺されたのです。予測通りの展開でビックリしていくうちに、その被害者はオカミさんの知っている人 のようで、
遺体に掛けられた覆いをオカミさんがどかして被害者を確認します。 そこに横たわっているのは、「予見」 を感じさせせることとなった息子か? それとも、加害者と 「予見」 をさせられた ダメ男 かと思うまでもなく、ボクは一つの推理に達していったのです。それは、「タバコを買う手」 と 「割れたグラスの上を跨ぐ足」 の2つの 「予見」 「トラップ → フェイント」 「予見の実行」 の経緯を観察してきた身としては、当然の結論だったのです。
殺害された被害者、それは...。
オカミさんの 戻ってきた旦那 に違いないのです。
何故、そのように思えたのかを説明していきたいと思います。
ボクは今作が
「タバコを買う手」 によって ダメな男 と 離れられない女 のズルズルとした関係を 「予見」 させといて、しかし 「予見」 は 「トラップ」 で 「予見」 は実行されないとして、女は中年男と この地を離れて行った。しかしそれも単なる 「フェイント」 でしかなく、結局は「予見の実行」 がなされ ズルズル とした関係は続いていくのだ。
という 映画のルール によって進行していると理解しているのですが、
「トラップ」 によって 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が崩れた瞬間、新たな
「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が提示されたと感じたのです。
それは 「橋の中(なか)」 の女と蒸発してしまった オカミさん の旦那が ダメな男 で、
離れられない女 が、そんな旦那を受け入れてしまう オカミさん だったのです。
しかし、ダメ男 と ダメ男から離れられない女 の「トラップ」 は結局は 「フェイント」 となっていくことを考えると、元々の ダメ男 と 離れられない女 の関係は復活する運命であるのです。 そうなってくると、オカミさん夫婦による 新しい「ダメ男 と 離れられない女」 は 「トラップ」 を強調するという役割が終わり、その存在意義を失墜した状態になったのです。
そんな状況の中、もう一方の 「割れたグラス」 の「予見」 が 無銭飲食という 「トラップ → フェイント」 を経て、「予見の実行」 がされる番だったのです。 子供の被害、ダメ男による加害、オカミさんの悲嘆 のうち、どれが実行されるのかというと、
先の 「ダメな男 と 離れられない女」 の変遷を考えると、
旦那が被害にあって、オカミさん が悲嘆にくれる。
それが契機っとなって元々の 「ダメな男 と 離れられない女」 の関係が復活 する
という 寓話的な流れを感じずにはいられなかったのです。
それ故、被害に遭い、この映画世界から姿を消さざるを得ないのが オカミさんの旦那 であるとの
推理がボクの頭の中で形成されていったのです。
物語はボクが感じた通りに進んでいきました。
この洲崎周辺エリアは 旦那の死 と 「ダメな男 と 離れられない女」 の流転 によって、物語りが始まる前と (登場人物の頭数という側面において) 同じ状態に戻っていきました。
戻る という言葉を考えると今作のラスシーンは 主人公が初登場した 「タバコを買い与える」 シーンに戻っていったのです。
タバコを買うカットはないのだけれど、場面は全く同じ、荒川に架かる橋の上 で、会話の内容も見えない未来を嘆く内容であったのです。彼らの初登場シーンの前にはどのような出来事があったは知る由もありませんが、「洲崎パラダイス 赤信号」 で行われたようなことと同じような経緯があって、今作冒頭の 「タバコ」 のシーンに繋がったことを予測することができます。結局はこの二人は、どこに流れていっても、「予見」 「トラップ → フェイント」 を繰り返して、ズルズルとした関係を実行して来たのです。
でも、少しでも良い方向に進んでいることだけはわかります。劇中、離れられない女が 「橋(はし) の中」 にいたことがわかるのですが、今回の 「洲崎パラダイス 赤信号」 のエピソードでは 「橋の中(なか)」 に踏み入れることがなかったわけですから、この二人の男女関係は改善の方向に向かっていたことがわかります。そして、次なる移動先においても、今回の関係よりも、もっと良い方向に改善されることを 「予見」 させるものとなっていたのです。
それは、オープニングのシーンでは、ダメ男 は 離れられない女 に振り回されるカタチで洲崎まで流れて来たものを、今回は どうにかなるさ と 女をリードしていく意欲を見せていたのです。
このズルズルした関係を描きながらも、彼らなりの希望を持たせたストーリーを語ってかたってきたのも、紋切り型の表現で嫌なのですが、経済成長の入り口に立った日本の機運が感じられます。
赤線という前近代的なものがこの3年後の売春防止法によって廃止され、経済成長が望めるこの時代特有の前向きな感情が、この日陰者を主人公にした映画の中にも伺うことができるのは 川島雄三監督という美意識によるものなのでしょう。
今作は 2つの 「予見」 「トラップ → フェイント」 「予見の実行」 を織り交ぜながら
表面的なストーリー展開と同時に進行していく制作者の文脈を
推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。
そして、川島雄三という天才が 日陰者の視線から
日本の近代化と経済成長の 「予見」 を語っていたことに対して
社会学的にも価値のある作品であると感じたのです。
これらをまとめた 未完成感想文 をアップ中です。こちら
↓
http://oui.blog.so-net.ne.jp/2010-05-17
完成! 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 [DVD 車内鑑賞レビュー]

序盤で察知した3っつのマイナス要件、
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
2.監督の不可解な自制
3.非連続的なキャラクター付けの予感
を今作が改善していくのか否かが、ボクの鑑賞テーマとなりました。
そして、序盤早々に激しく心を動かされた
「逆行する大時計」 による
芳醇なる映像世界が
ラストの8分において、
怒涛のように押し寄せてくる快感に
身をまかせる鑑賞となったのです。
今作のレビューを始めるにあたって、まずは序盤早々に心を揺さぶられた
「逆行する大時計」
について語る必要があるようです。
今作の主人公であるブラッド・ピットは、老人の身体で産まれきて、歳を取るごとに若返っていく役どころなのですが、そのコンセプトを
前奏曲のように奏でる
珠玉のシークエンスが、
「逆行する大時計」 であったのです。
このシークエンスは、戦争で一人息子を亡くした時計職人が市の依頼によって 「大時計」 を製作する内容となっているのですが、その時計職人が完成させたのが
通常の 時計廻り ではなく、
反時計廻り に動く時計
であったのです。
その完成披露式典において、反対に向かって動き出した 「大時計」 に驚く人々に向かって、演説台の彼は
「時を戻せば... 戦死した若者が帰って来る。」
と静かに語るのです。
この演説のシーンに挿入されてきた映像こそがボクの映画的興奮をかき立てていったのですが、その映像は 「戦死した若者」 が戦場において敵陣に突入をしているスローモーションカットだったのです。
これだけでは、ありきたりな展開なのでしょうが、その映像が、まるで時を戻す 「大時計」 に従うかのような
巻戻し ― 逆回転映像 ―
となって提示されていたのです。
本来ならば
“「左」 から 「右」 にかけて兵士達が銃弾を避けて敵地に突入する”
映像となっているのでしょうが、
それが巻き戻し映像となっているので、
移動の方向は 「右」 から 「左」 へと、
兵士達の向きは 「後ろ向き」 に変更され、
“「右」 から 「左」 へ敵地から離れて行くように、
何故か 「後ろ向き」 に兵士達が逃げていく”
不思議な映像となっているのです。
大きな違和感を抱えながら観ていくと、すぐに
「そうだったのか」
と息を飲んでしまったのです。
“「右」 から 「左」 へ敵陣から 「後ろ向き」 で逃げて行く”
彼らですが、気が付くと
敵陣から逃げて行く兵士が増えていくのです。
映し出されている映像を忠実に言葉にすると
“地面に寝そべっていた者達が続々と飛び起きて皆と同じように、
“「右」 から 「左」 へ敵陣から 「後ろ向き」 で逃げて行く”
という表現になるのですが
この映像が 「逆行する時計」 に呼応
するものであることを考えると、
本来のオリジナル映像は
“「左」 から 「右」 に向かって、敵陣突破をかけた兵士達が、
襲い来る銃弾に続々と倒れていく”
そんな、凄惨な映像であったことがわかるのです...。
若者が戦地に赴いて死んでいったという事実。
この事実を
「時を戻すことで救済したい。 」
この思いを込めて時計職人が 「時を戻す時計」 を
作っていたことが 痛いほどに伝わってくるのです。
そして、この同じ表現技法によって、次のシークエンスでは心を揺さぶられてしまったのです。
「時を戻す時計」 を作った時計職人は一人息子を戦地に送り出し、その戦死を深い悲しみの中で聞くことになったのですが、今作は予め、彼と一人息子との今生の別れを映し出していたのです。その別れの場面とは、
“愛しそうに一人息子の頬をなでる父親。
やがて一人息子は元気よく列車に乗り込み
父母に手を振りながら出征していく”
というシーンであったのですが、
実はこの場面も 「時を戻す時計」 のルールによって
逆回転映像となって再訴求 されたのです。
そして、この 逆回転映像 が語ってきたものは
事実とは異なる内容となっていたのです。
それは
“元気よく手を振りながら列車に乗って帰って来た一人息子。
その帰還を心から喜び、思わず一人息子の頬を引き寄せる父親”
という 「戦場からの帰還」 を切実に願う時計職人の
思いを映し出す映像となっていたのです。
正回転 ‐ 通常の時の流れ において予め語られた事実と、
逆回転 ‐ 時が戻っていく世界 において想い描かれた虚構。
この二つの世界の相違によって創出された深い感情に、ボクは圧倒されてしまったのです。 そしてこの深い表現に触れてこのシークエンスは
時が戻る世界観にいるブラピ と、
通常の時が流れていく他の人々との間にできる関係性 を
予言したものに他ならない。
と思い、今後の展開を期待してしまったのです。
しかし、結局、期待は叶えられることなく、この絶賛すべき芳醇なる映像世界には、残念ながら今作が終りを告げる8分前になって、やっとお目にかかることができるのです。 そんな中で、ラスト8分 までの間、何を語っていくかと申しますと、
序盤で察知した3っつのマイナス要件
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
2.監督の不可解な自制
3.非連続的なキャラクター付けの予感
について語っていくことにしたいと思います。
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
というマイナス要件は、山田洋二監督作品 「武士の一分」 で木村拓哉氏が
「キムタク」 でなかったことで発生した
違和感と未達成感
に例えることができるでしょう。
木村拓哉氏は山形の 下級田舎侍を熱演しておりましたが、彼がキャリアの中で
築き上げてきた、カッコイイ都会的な 「キムタク」 ではなかったところに、
もどかしいパワーダウンを
感じずにはいられなかったのです。
今作においてもブラッド・ピットがひたすら老人役でいる序盤では、 いつもの二枚
目の 「ブラピ」 を見つけることができず、
「武士の一分」 現象と
同じ感覚を覚えてしまった、というわけなのです。
2.監督の不可解な自制 とは、
「時を戻す時計」 のシークエンスにおいては、絶賛されるべき芳醇なる映像世界を
創出してきた今作の監督ではありますが、それ以降は
「敢えての自制」
と揶揄したくなるほどに
面白みが無く、ありきたりに物語を語ってきたのです。
歳を経るほど元気になっていくブラピじいさんの姿を印象的に表現できるチャンス
を何度も見送っていることに、
「武士の一分」 現象を超える
フラストレーション
を感じてしまったのです。
そして、「時間の流れ」 がすれ違っていく対比となる、幼馴染の女の子 デイジー
との出会 いのシーンや、彼女と分かり合えていく表現においても 「敢えての自
制」 がもどかしく
監督の本意を汲み取れない
苛立ちを覚えてしまったのです。
3.非連続的なキャラクター付けの予感 というのは
ブラピじいさんを遠くに連れ出して放ったらかしにする調子のいい黒人男性や、
7度も落雷を受けた老人などが登場するのですが、今作のストーリー展開に
関与するわけでもなく、無為にフェイドアウトしてしまう予感をこの序盤にして
感じてしまったことを 示します。 このように映画世界に
有機的に連動しない非連続的な
要素に時間を費やすよりも 、
今作のコンセプトを多重的に奏でることができる
重要要素にもっと気配りをし、
2.監督の不可解な自制
なんてことを感じさせる余地のない、
隙の無い構造をカタチ作って欲しい、 と思ったのです。
今作の鑑賞は、オープニングの 「時を戻す大時計」 から、エンディング8分間の 「芳醇なる映像世界」 に至るまでの膨大な時間にかけて、以上の3っつのマイナス要件が今後、改善されていくのかを見守ることとしたのです。
「成長は不思議だ。そっと忍び寄り...ある日、突然、別人に
変わってしまう。 彼女も別人になった」
と、今作はデイジー (幼馴染の女の子) が思春期の子役に代わり、ブラッド・ピット演じるベンジャミンのこのセリフを発端にして、「若返っていくベンジャミン」 を表現し始めたように感じました。ここにきて 2.監督の不可解な自制 が是正されていくようでした。
その機運の中で印象深いやりとりがありました。
若返っていくベンジャミンに対して ピアノを教えてくれているおばあさんのセリフ
「 (若返っているとしたら) かわいそうね。あなたは皆の死を見るのよ。
つらすぎるわ。人は皆、愛するものを失うものよ。失って初めて大切さが
わかるの。 」
が発せられ、ボンヤリとした印象を持っていた今作において、
やっと
鑑賞コンセプト と認識できる明るい兆し を
感じたのです。
老人施設にいるからこそ、
人生を全うして亡くなっていく人々を見送る ベンジャミンの心境
が表現されるのでしょうし、
「老い」 とは正反対の
「若返り」 をその環境で果たすことになる
ベンジャミンと周囲の関係性。
そして、
幼馴染のディジーの 「正当な成長」 と
ベンジャミンの 「老人からの若返り」 という
正反対のベクトルが描くカタチ
を見守ればいいんだな と思ったのです。
しかし、残念ながらボクの鑑賞方針が定まった途端に今作は
想像だにしなかった暴挙に
打って出たのです。
老人施設という
「老い」 や 「死」 と、ベンジャミンの 「老人からの若返り」 の
対比が引き立つ舞台を
放棄し、
思春期の少女からから大人の女へと
「正当な成長」 を続ける幼馴染のデイジー と、
老人から壮年へと
「若返り」 をするはずのベンジャミンとの
「男と女」 の部分をも
ないがしろにしながら、
ベンジャミンは旅に出て行ってしまうのです...。
落胆しました。
せっかく、
「逆行する時間」 や
「老い と 死」
「幼馴染のディジー」
という要素を登場させて、
次なる展開への準備が整ったところで、今までの作業を台無しにするがごときこの
愚かな行為に、
大いに落胆をさせられてしまったのです。
この局面に際して、序盤で露呈し、懸念をしてきた
3.非連続的なキャラクター付けの予感
を思い出してしまいました。
何人かのキャラクターが登場はしたものの、結局はストーリーとの有機的な連動が図れず、映画世界から疎外された、非連続的な存在として姿を消していく様子に序盤は幻滅を感じたわけですが、今回の懸念を正確に言うと
「非連続的な ストーリー展開」
と言った方が良いのでしょう。
先のおばあさんとの会話によって豊かに展開すると思われた夫々の関係性が、
「ベンジャミンの旅立ち」 によって無下に断ち切られた、と感じられてしまったものですから、
夫々のシークエンスが
全体のストーリーに有機的に関与することなく
孤立した存在
になってしまったと感じたのです。
そして、これによって、序盤で大きな映画的興奮を味わった 「時を戻す時計」 のシークエンスまでもが、結局は今作の
トータルな映像世界に大きく関与することなく、
非連続的で単発の輝き
だけで終わってしまうのかと、
大いに不安な気持ちになってしまったのです。
これから様々な関係性が展開すると期待をさせときながら、その機運を捨てて、ベンジャミンは船乗りとして、
演劇的で特別な空間から
外界に船出して行ってしまいました。
その外的世界でのシークエンスを単純に楽しみはしたのですが、前述の経緯などがあり、これらのシーンは、結局は今作の全体の構成には関与することのない、
非連続なものに成り下がる
と見切ってしまったのです。
外界において 「ロシアでの人妻との恋」 「第二次世界大戦」 を経験したベンジャミンは、結局は故郷である 老人施設 に戻ってきました。
その時点で 仲間意識を持っていた知り合いは、既に天寿を全うして他界。中盤において、今作の鑑賞テーマとなるのであろうと期待したセリフ
「 (若返っているとしたら) かわいそうね。あなたは皆の死を見るのよ。
つらすぎるわ。 人は皆、愛するものを失うものよ。失って初めて大切さ
がわかるの。」
という伏線を
見事なまでに 「無」 に
していったのです。
確かに、第2次世界大戦での潜水艦との戦いで同じ船の仲間が亡くなる展開ではありましたが、明らかに
「老い」 による 「死」
について考察する方が、
「若返っていくベンジャミン」 が主人公である今作においては、テーマが浮き彫りにされるはずなのに...。 非常に残念な気持ちに襲われたのです。
そんな不満を感じる一方、終盤は目一杯
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 になってくれました。
CMで印象深かった、オートバイで疾走するシーンからブラッド・ピットは 「ブラピ」 となって、いつもの安定感を回復していきました。
そして、デイジーが交通事故に遭うシークエンスは、ある意味
2.監督の不可解な自制
が解消された瞬間だったのかもしれません。
「エイリアン3」 「セブン」 「ゲーム」 、最近では 「ファイト・クラブ」 (未見) と意欲的な作品を制作してきたデビッド・フィンチャー監督にとって、ここまで淡々と映画を語ってきた自制を評価するべきではないかとさえ思えてきました。
しかし、「デイジーの交通事故」 に対して特徴的な表現 (詳しい説明は省きます) を選択してきたのですから、「デイジーの交通事故」 がトータルな映像世界に大きな役割を演じていくのだろうかと観察していたのですが、
ベンジャミンとデイジーが結ばれて
「若返るベンジャミン」 と
「若さが衰えていくデイジー」 の
対比について直接的に語れる、 環境作りをした
という点では機能をしたのかもしれませんが、この局面にバランスを崩しかけた特徴的な演出技法を持ってくる意図が汲み取れず、そして、このアンバランスな映像世界をつくってしまった利点を見つけられずに、再び、大きな悩みの中に突入して行ったのです。それは、
序盤に感じた
3.非連続的なキャラクター付けの予感
を出発点にし、
中盤の
「非連続的なストーリー展開」
を経て、
この終盤は
「非連像的な映像演出」
という大きな不信感へと繋がってしまったようなのです。
しかし、こんな深刻な状況にも救いの瞬間はやって来てくれました。
それは、寝室での会話。
デイジー 「皺だらけになっても 私を愛せる?」
ベンジャミン 「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」
と、今作のテーマをしっかりと真正面から見据える気概を見ることができたのです。
ブラっド・ピットがやっと 「ブラピ」 になってくれたことですし、そしてこのように、
「若返るベンジャミン」 と
「若さが衰えていくデイジー」 を
直視する気になってくれたようですので、
序盤で瞠目した 「時が戻る時計」 の豊かな世界観を復活させてくれるものと大いに期待をしたのです。
し・か・し
今作に
テーマをしっかり見つめて
語りきる姿勢
を求めても無駄のようでした......。
またしてもベンジャミンは ドラマの現場から逃げ出して、デイジーの前から姿を消すことになるのです。
これは中盤、老人施設という
「老い」 や 「死」 と、
ベンジャミンの 「老人からの若返り」
の対比が引き立つ舞台を放棄し、
思春期の少女からから大人の女へと
「正当な成長」 を続ける幼馴染のディジーと、
老人から壮年へと
「若返り」 をするであろうベンジャミンとの
「男と女」 の部分
をも中途半端にさせながら、
ベンジャミンが旅に出て行ってしまった悪夢を思い出したのです。
しかし、ベンジャミンの 「現場からの敵前逃亡」 に見つけた、唯一のメリットである、
「ディジーの変化」 を
認めることはできました。
前回は 思春期の娘だったデイジーが 成長し、ダンサーとして人生のピークを謳歌している変化が強調されていましたが、今回は思春期になっていた娘と夫の存在。そしてなにより、
ティジーの
「老い」 を強調
することができたのです。
青年の外観となったベンジャミンの皺ひとつ無い顔を撫でながら
「永遠などない...。」
とつぶやきます。
このフレーズはかつてベンジャミンが自分の若返りについて逡巡した、先の
「皺だらけになっても 私を愛せる?」
「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」
という会話の後に発せられたものでした。
十分に若返った次の段階としての少年への移行、そして幼児への退行を憂いた時に発言がなされていたのです。 「時」 の移ろいによって
「無常」 と 「虚無感」 に襲われた時に
このセリフをベンジャミンが発言していたところから、同じ言葉を吐いた彼女の気持ちを充分に推し量ることができます。
そしてデイジーを求めていく青年の外観をしたベンジャミンに対して
「やめて、こんなオバさんを... 」
と実年齢では同年代でありながら外観上の負い目と自分の 「老い」 に引け目を感じた彼女はこんなセリフをも言ってしまうのです。
青年ベンジャミンと中年デイジーの複雑な心情を内包した一晩を描いて物語は
時間を 遥かに
飛び越えていきました...。
今や、既に初老の域に達してしまったデイジーに1本の電話がかかって来ます。
呼び出された先は あの老人施設。
呼び出し元は児童福祉局の人間。
ここで今作は ボクの思惑を超えて、
SF映画的な様相を
呈してきたのです。
(でも、この展開は大いに予測することができたのですけどね)
今作は先のセリフ
「皺だらけになっても 私を愛せる?」
「ニキビ顔でおねしょしても僕を愛せる?」
の 「時間」 が究極的に行き着いた
「神話」 の領域に
分け入って行くのです。
そして、加速度的にボクの映画的興味を惹き付けていったのです。
廃ビルで保護された少年は ベンジャミン なのではないかという疑念の中で、少年の姿はすぐ映し出されることはなく、ただピアノの音が聞こえてくるのです。
事前にピアノを弾いているベンジャミンを目撃している観客は、この時点でベンジャミンが少年となっていったことを理解するのです。
もたれかかりながらピアノを弾く後ろ姿、
ピアノを弾く指のアップ
デイジーがベンジャミンの名前を呼んでようやくこちら側を振り向くと
そこには13歳ぐらいの少年いたのです。
いいじゃないですか! この流れ。
余韻を残しながらのドラマチックな表現。 素晴らしいと思いました。
アルツハイマーで自分のことさえ覚えていないのにもかかわらず、ピアノだけは身体が覚えていた悲劇を盛り込んでくるデビッド・フィンチャー監督に、ボク大きな賛辞を贈りたい気持ちになりました。
映画全体の演出に関しては 「非連像的な映像演出」 という評価をしなければなりませんが、
序盤の 「逆行する大時計」 と この、時が遥かに過ぎ去った後の 「ラスト8分の芳醇なる映像世界」 だけは別次元の成果を見せてきたのです。
やがてデビッド・フィンチャー監督は
ベンジャミンの悲喜劇的な 「変容」
と
ベンジャミンとデイジーの人生の 「激動」
を畳み掛けるように訴求してきたのです。
そして、
その直後の
「静寂な クライマックス!」
赤ちゃんにまで退行していったベンジャミンが、
デイジーの腕の中で静かに息を引き取る 神々しさ を目の当たりして、
それまで
「SF的」 な要素を
感じていたところに、
今作が
「神話」 の領域に
踏み込んでいったことを
悟りました。
この 「矢継ぎ早の展開」 と
「静寂な クライマックス」 が奏でる
絶妙なる コントラスト によって
ボクは大きな映画的興奮を得ることができたのです。
しかし、このように今作は素晴らしいクライマックスを用意してきましたが、客観的に映画全体を俯瞰していくと、残念ながらボクの中で、今作が
「神話的な存在」 に
なることはありませんでした。
なぜなら
「80歳の身体で生まれて、赤ちゃんとなって死んでゆく男」 が主人公であるのなら。
そして、老人施設が舞台で、心通う異性の幼馴染がいる設定であるのなら。
老人の外観で、 心は子供である ベンジャミン と
老人の外観で、 心も老人である 施設の人々 と
子供の外観で、 心も子供である デイジー の
3つの関係性や
時を経るごとに
「死」 に近づく 老人施設の人々 と
「若返り」 をしていく ベンジャミン と
「正当な成長」 を みせていく デイジー の
3つの関係性を
映画の導入部でしっかりと訴求して欲しかったと思うのです。
そうすれば、後半に訴求してきた
「若さの衰え」 に怯える デイジー と
「青年の瑞々しさ」 を讃える ベンジャミン との対比 。
そして
「初老」 を迎えた デイジー と
「少年」 の不確かな存在に退行してしまった ベンジャミン。
と
「老境」 の デイジー にやさしく抱かれながら
「赤ちゃん」 となって息を引き取る ベンジャミン。
の関係性に素直に涙することができたというのに....。
このように、主題を活かすことができなかった
コンセプトワークの甘さ
が認められ、とっても残念な気持ちになりました。
そして、序盤に感じたマイナス要素
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
2.監督の不可解な自制
3.非連続的なキャラクター付けの予感
をも持ち出して結論付けますと
1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。
は終盤、劇的に改善されていきました。
2.監督の不可解な自制
も終盤の畳み掛けるような展開のための、
戦略的な 「敢えての自制」であった と好意的に思えるようにも
なりました。 しかし、
3.非連続的なキャラクター付けの予感 はその後、
「非連続的な ストーリー展開」 を経て、
「非連続的な 映像演出」 に至り、
遂には 「h連続的な」 要素の蓄積によるう
トータルバランスの欠如
という今作の致命的な欠点に直結していったのです 。
物語は確かに 「神話」 の世界に踏み込んでは行きました。
しかし、根本敵な
コンセプトワークの甘さ に加え
総体的な
トータルバランスの欠如
が原因となって
ボクの心の中で、 今作が
「神話」 の域に到達することは、
決してなかったのです.....。
実に、 残念な映画でした。

完成! 「おくりびと」 [DVD 車内鑑賞レビュー]
今作を
「フラガール」 や 「スウィングガール」 、
そして 「ウォーターボーイズ」 に 「Shall We ダンス? 」 。
同じ モックン 作品では 「 シコふんじゃった。 」 のように
「納棺師」 という未知なる種目にチャレンジしていく
「パフォーマンス系映画」 の一種
のようなものだと早合点していました。
実際は、 「納棺師」 となったことによって父親という大きなトラウマを克服していく、
「魂を救済する」 物語
であったのです。
でも、導入部は「パフォーマンス系映画」 の香りを強く漂わせていたのでした。
最初は軽いユーモアを挟み込みながら、しかし、モックン が初めて納棺を取り仕切る際には、
儀式の厳かさがあり、
連綿と続いている伝統技能を
鑑賞している感覚となりました。
要所ではキリッとした表情を見せつつも、ユーモアを交えながら 「死」 というシビアなものを処理していくのかな? と気を許した瞬間に
手厳しいシッペ返し
が用意されていたのです。
そのシッペ返しとは、 “老婆の腐乱遺体を納棺する” という、「キレイゴト」 では済まされないグロテスクな側面だったのです。
そして、この強烈な出来事の直後に挿入されたエピソードが、ボクの映画的好奇心を大いに刺激していったのです。
“腐乱死体処理をしたその日の夕食は鍋料理で、今朝締めたばかりの
「おかしら付き 鶏肉」 が食卓に並びました。
その皺くちゃの顔とむき出しの肉 を見たモックンは
老婆の遺体を思い出し 胸を悪くしてもどしてしまうのです。
驚いて介抱をする 妻役の広末涼子女史ですが、その流れの中で、
突然にモックン は奥さんに性的交渉にかかっていきました。”
というシークエンスとなっているのですが、今作に対する受賞のニュースが契機となって、家族連れ立っての鑑賞となった方々には、先の腐乱遺体のくだりと同様に、このシークエンスは居心地の悪い時間帯であったろうなと思いながらも、以下のようにボクはこの展開を大いに楽しんでいったのです。
を処理させられたことによって、肉体と精神に大きなダメージを被り、
新鮮な、でも死んだ肉体
が食卓に上り、傷(いた)んだ遺体を思い出したことによって、
「死」 の虚無感に襲われ、
新鮮で、生きた肉体
である、妻の広末涼子女史に、存在の 「確かさ」 を求め、
肉体的な衝動の中に埋没していく
そんな モックン の赤裸々な心を感じたのです。
傷(いた)んだ遺体 と
新鮮な、でも死んだ肉体
という 2つの肉体によって 精神的な不均衡に陥り、
新鮮で、生きた肉体
という確かな存在に、すがりついてしまう。
その究極的な境地として、本能的で官能的な側面に身を沈めていったモックン に、ボクは同調していったのです。
そして、ふと気付くと
死んでしまえば、どんな人であろうとその肉体は朽ちていくし、
生きていくためには、他の命を奪ってその肉体を食らわなければならないし、
「生」 が揺らいでしまったら、目の前にある確固たる 「生」 に救いを求め、
究極的には、「性」 というものにすがりついていくわけですから.....。
「思惟」 と 「本能」 のせめぎ合いの中で
生きていく 「人間」 っていうものは、
本当に、切ないな.........。
と、 つくづく感じてしまった瞬間だったのです。
こんな溜息をもらした直後に配置された おくりびと の社長たる 山崎務氏 の堅実な仕事ぶりには、ボクのような、かつての映画少年も、そして、今作の受賞歴がキッカで家族鑑賞をした鑑賞者の方々にも、心を打つ納得のシークエンスとなっていったのです。
そのシークエンスは
病気や事故による 「死」 の結果としての
「遺体」 という 非日常的な物体 に対して、
おくりびとが、かつての故人の 「印象」 を加えていくことによって、
その取り扱いかねていた物体が、いつしか遺族の心の中で、
社会的役割を担っていた頃の
一人の存在へと戻り、
一つの人格を回復していく 様が
感動的であったのです。
その場にいる女子中学生の母親であったことを、そして、とげとげしかった男の妻であったことを、まざまざと思い知らせてきたのです。
この行為は 故人の死に至るまでの苦痛の跡を消し去り、遺族の心の中に生き続けている姿へと戻していく儀式であったのです。それは遺族の気持ちにわだかまっている 「遺体」 という距離感があるものから、その垣根を取っ払って、
生きていた証を持つ
「母親」 にし、 「妻」 にもしていく
そんな、崇高なる行いに他ならかったのです...。
中盤。
「銭湯のおばさんが亡くなった。」
このモックンの言葉だけで、この後の展開を予測することができて、
ボクの胸は熱くなっていきました。
そして、これからエンディングに向けて、一気に終結していくことを確信したのです
序盤は、老婆の遺体処理によるダメージで、モックンが 「納棺師」 を諦めてしまうところを、山崎務社長の崇高なる技に触れたことによって、その危機を回避していきました。
これは モックン の
「納棺師」 という仕事の放棄と、その後の復活
を描いてきたわけですが、
中盤は 「銭湯のおばさん」 の息子で、モックン とは幼馴染となる 杉本哲太氏からの、職業差別を受け、そして、妻の広末涼子女史からも 「納棺師」 という職業を否定された挙句、実家に帰えられてしまうなどの
その一方で仕事を覚え、その社会的貢献度の高さ故に
意欲的に仕事に向き合っていく、言わば
「内部拡充」 していく姿が
オーバーラップされていったのです。
「銭湯のおばさん」 の死 がもたらされたのは、まさに、こんな 「納棺師」 という職業に対する、ジレンマを打ち出したタイミングであったわけですから、大方の鑑賞者は以下のような展開を予測することができるのです。
これから行われる 「銭湯のおばさん」 の葬儀は、息子の杉本哲太氏が喪主となって
取りはかられ、 「銭湯のおばさん」 と顔見知りになっていた 妻の広末涼子女史も列
席し、「納棺師」 について否定的であった二人が、我らがモックンによる、
熟練した伝統芸能師のごとき
技の一部始終を
目撃。
そして、その真摯な態度と崇高なる成果を目の当たりにした二人が、モックンの仕事の
貴さを認めて、それまでの自分の態度を悔い改めていくことになるはずだ、
と。
このストーリーは、ストイックに 「納棺師」 という仕事に向き合っている モックン と、一方的に理不尽とも言える職業差別を受けている モックン の両方を見せつけられてきた者としては、ベタではありますが、心情的には納得のいく展開となっており、ボクは単純にその流れに乗っかっていったのです。
このように終盤への展開を予測し、その成り行きを楽しみにすることができた今作の中盤ではありましたが、2~3の不手際が見受けられたのも事実ではありました。
モックン が社長の山崎務氏の部屋で食事を頂く際に、社長がふぐの白子を指して
「これもご遺体だ」
「生き物は生き物を食って生きてる (中略) 死ぬ気になれなきゃ食うしかない。」
というセリフが、発っせられてしまったのです。
これは、序盤において
傷(いた)んだ遺体
↓
新鮮な、でも死んだ肉体
↓
新鮮で、生きた肉体
で大きな映画的興奮を創出してきた一連の中の
「生きていくために他の命を奪い、その肉体を食らわなければならない宿命」 を
再び訴求してきたことを示します。
しかしながら、この白子による単発の表現は、
序盤の一連にあったイマジネーション豊かな世界観には、残念ながら遠く及ぶことはなく、
「思惟」 と 「本能」 の狭間で生きていく人間の切なさ など微塵もなく、
ただ単純に 「捕食」 についてのありきたりな言葉があっただけなのです。
既に訴求してあることを、今さらストレートなセリフだけで表現をしてきても、二番煎じの感じはどうしても否めなく、序盤、
↓
新鮮な、でも死んだ肉体
↓
新鮮で、生きた肉体 の一連で
「人間存在」 の 「哀しみ」 や 「可笑しみ」
までもを感じ取ることができる奥深い空間を提示しておきながら、
低いレベルの再訴求を、この瞬間にかけてくる制作者に困惑してしまったのです。
このようなマイナス要素を抱えながらも
終盤にかけての展開はボクが期待した通りのストーリーを語ってくれました。
「銭湯のおばさん」 の葬儀の際に、妻の広末涼子女史と、 「銭湯のおばさん」 の息子である杉本哲太氏は、モックン の仕事を目の当たりにして、モックン を認めていきました。
ここまでは予想通り。
と思っていたら、「銭湯のおばさん」 の火葬場において、
銭湯の常連客でいい味を出していた 詰め将棋好きのおじさん が火葬場の職員として再登場してきたのです。 「銭湯のおばさん」 の死の場面で、寂しそうな後ろ姿を打ち出してはいたのですが、このような展開となるとは全くの意外で、ちょっと、うれしくなってしまいました。
「死」 を 「門」
のようなものであると言い、
「死」 は 「終わり」 ではなく、
一つの過程であり、
自分はその「門番」 である。
という考えを披露していきます。
これは今作に貫ら抜かれている死生観そのものであり、 モックン がそもそも 「納棺師」 となるキッカケとなった求人広告のコピー 「旅(立ち)のお手伝い」 にみられるように、
「死」 = 「旅立ち」 であるのです。
そして火葬場のおじさんの 「銭湯のおばさん」 への一言
それは 「肉体」 というものはこの世を歩く為の、
「有機的モバイルスーツ」
という、こんなSF的な妄想だったのです。
「有機的モバイルスーツ」 が劣化破損したので、それを脱ぎ捨てた。
その結果、この世に存在できる手段が無くしなってしまったのが 「死」 なのである。
という、思いに囚われていったのです。
「有機的モバイルスーツ」 なんて言葉は今作のテイストとはかけ離れたものですが、
「死」 は一つの過程に過ぎない、次なる段階に向けての 「旅立ち」 である。
という今作の世界観に触ることによって、このような言葉が思い浮かんだのです。
「小さな驚き」 をキッカケとしてこのような妄想を広げることができた今作ですが、
またまた、うれしいことにこの後には
が用意されていたのです。
この 「大きな驚き」 とは
モックンは大きな葛藤の末、父親の納棺を取り仕切る。”
という、今作においては一番実現しないであろうと思った妄想が、現実のものになったことでした。
そもそもは、中盤、チェロ演奏を社長の前で披露した際に、 失踪した父親の安否に対して語られた モックン のセリフ
「 さあ、 もう死んでいるんじゃないですか? 」
で予感し、
「銭湯のおばさん」 の葬儀が終わって、唐突に父親とのエピソードである 「石文 (いしぶみ)」 のくだりを話す モックン に、 もしかして、これは 「父親の死」 の
前フリをしているのかな?
と感じたのです。
しかし、「銭湯のおばさん」 が、モックン のいわれ無き 職業差別を払拭するために
(不遜な言い方をすると) 亡くなってくれて、そして次には、 モックン の 「納棺師」 としてのステップアップの為に、否、今作のエンディングの為に、タイミング良く 「父親の死」 がもたらせれていくなんて............。
できすぎでしょー!
と、誰もが思ってしまうところでしょう。
しかし、鑑賞を続けていくと、そんなことなど、もうどうでも良いことのように思えてきたのです.。
何故なら、ボクはいつしか今作を
「フラガール」 や 「スウィングガール」 、
そして 「ウォーターボーイズ」 に 「 Shall We ダンス? 」 。
同じ モックン 作品では 「シコふんじゃった。」 のように
「納棺師」 という未知なる種目にチャレンジしていく
「パフォーマンス系映画」 の一種
であると思えてきたからなのです。
そんな 「パフォーマンス系映画」 の王道を今作が突っ走ていたことに気づいてしまったのです。
今作は 「納棺」 という種目にチャレンジをし、一旦は職業差別という差しさわり要件が発生するけれど、父親の 「納棺」 という快心のパフォーマンスによって映画はカタルシスの中でエンディングを迎えるはずと、見切ってしまったからなのです。
「パフォーマンス系」 映画に
なことは、経験上わかっていたことですし、
何よりも、 「納棺師」 というパフォーマンスを披露するためには、人に亡くなってもらわなければならないわけですし...。
と、半ば強引に割り切っていたのです。
そんな気分で鑑賞を続けていったら、またまた状勢が変わってきました。
幸いなことに、この 「パフォーマンス映画」 というキーワードを無理矢理に
捻出するまでもなく、
死んだ父親との再会の
必然性に遭遇
することができたのです。
納棺を粛々と進める モックン。
父親の遺体の手のひらを開いたらそこには小さな石が握り締められていたのです。
これをやらせたかったのか!
と、この瞬間にボクの映画的興奮は振り切れていったのです。
この石は、父親の納棺を モックン が取り仕切るはずだと予感をさせたシークエンスである
「 石文 (いしぶみ) 」 において、
少年時代の モックン が父親に渡していた 「石」 だったのです。
「 石文 (いしぶみ) 」 とは、
“大昔、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、受け取った者は、その石の
感触や大きさから贈り主の心を読み解く。”
というコミュニケーション方法であると紹介されていました。
子供時代にたった一度、モックン は父親とこの 「 石文 (いしぶみ )」 の交換をしており、父親の手に握られていたのが、その時にモックンから父親に渡された 「石文 (いしぶみ)」 だったのです。
死の瞬間に、少年時代の モックン の 「石文」 を父親が握り締めていた事に、
家族を裏切ってしまった
父親の深い後悔と贖罪の念
を感じて、心を動かされていったのです。
しかし、ここでは、そんな万人が感じる思いを強調したいのではなく、こんな思いと共に、全く違う感情がボクの気持ちを直撃していたことを、述べておきたいと思いました。
父親が持っていたのは少年時代の モックン の 「石文」 であることには間違いないのですが、 ボクにはその 「石文」 が、わけあり失踪をし、独り死んでいった 「父親」 の、
死の直前の彼自身の 「石文」 へと
「変容」 していった
と思えてしまったのです。
失踪前の父親の 「石」 はとても立派で大きなものでした。
しかし、家族を裏切り、一緒に失踪した女性とも別れ、流れ着いた漁村の片隅で細々と生活していく中で、あんなにも
尊大であった
少年と同じ純粋さを取り戻した瞬間に
父親は 死んでいった。
と思えてしまったのです。
そしてその事実を
息子である モックン に伝わることを願いながら
逝った......。
「 石文 (いしぶみ) 」 を再度説明すると、
”大昔、自分の気持ちに似た石を探して相手に贈り、受け取った者は、その石の
とされておりましたが、
「おくりびと」 ならぬ、 「受け人 (うけびと)」 となった モックン は 父親の死の直前の 「石文 (いしぶみ)」 の感触や大きさから、
父親の 「謝罪の気持ち」 を静かに受け取った
モックン は父親から送られたその 「石文」 を、しっかりと妻の手に握らせました。
こんな象徴的なカットで今作は終わりを告げていきました。
「有機的モバイルスーツ」 に託された 「石文 (いしぶみ) 」 によってもたされた
父親の 「変容」 と
この2つの変化によって、
モックン の気持ちの中に形成されていた
歪んだ、 「父親」 という虚像が氷解し、
それと同時に、次は
「個」 の命はこの世から 「旅立って」 いきました。
しかし、新たにその存在を受け継ぐ者の誕生を目の当たりにすることによって、
「個」 の世界観をはるかに超えた、
という大きなうねりを感じ、
ただ、その芳醇な揺らぎの中に身を委ねた鑑賞となったのです。
ボクは今作を
「フラガール」 や 「スウィングガール」 、
そして 「ウォーターボーイズ」 に 「Shall We ダンス? 」 、
同じ モックン 作品では 「シコふんじゃった。」 のように
「納棺師」 という未知なる種目にチャレンジしていく
しかし、実際は、
「父親」 という大きなトラウマの前に 「頑なになっていた魂」 を
「納棺師」 となったことで解き放ち、
そして、自らが 「父親」 となる決意をする
「連綿と続いていく命」 の物語
であったと結論付けたいと思います。


完成! 「緋牡丹博徒 花札勝負」 [DVD 車内鑑賞レビュー]
今作の鑑賞は
冒頭から 【 ローアングルの深遠なる世界 】 に 狂喜し、
やがて 【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に 驚嘆し、
後半は 【 加藤泰作品の共通項探し 】 に 興じた
充実の映画体験となりました。
今作はしょっぱなの1カット目から、容赦のない 「ローアングル」攻撃が炸裂し、
その2カット後の、映画開始早々の3カット目には
【 ローアングルによる 「3D」 効果 】 そして、
【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】
とも言うべき表現訴求のエッセンスを
感じ取ることができたのです。
線路内、2本のレールの真ん中を 緋牡丹のお竜さん が白い着物姿でこちらに歩いて来ます。
そして、その手前の踏み切りを横切りながら 盲目の少女 がフレームインしてきました。
カメラは地面に埋めたような極端なローアングルであるために、遠くにいる お竜さん の全景を捉えても、カメラ近くを横切る 盲目の少女 の姿は腰から下の足の部分しかフォローしていないのです。
全景の お竜さん と、
顔が隠された 盲目の少女。
この非日常的な構図が非常におもしろく、
また、お竜さん が奥から手前に向かって線路に沿ってやって来る
縦の運動 と、
盲目の少女 が踏み切りを右から左へと横断する
横の運動
との重なり具合がとっても興味深く、映画開始3カット目にして、ボクは早くも 映画的興奮 を得たのでした。
この映画的興奮を考察してみると
遠くに全景で捉えた お竜さん に対し、カメラ近くを歩く 盲目の少女 は画面上では大きな面積を占めてはいるものの、肝心の顔は写っていないのです。
どんな女の子なのかな? と疑問を生じさせる表現によって、 盲目の少女 の存在感を増幅させているこの演出に対して、ボクは
「遠近法」 の 誇張
を感じることができたのです。
「遠近法」 とは
近くにあるものを大きく描き、遠くのものを小さく描いて、
遠くのものと近くのものとの間にある 奥行きを表し、
立体感を表現する絵画の手法である。
と理解しておりますが、
普通のカメラ位置で撮影されたありきたりな 「縦の構図」 よりも、
今作のようにローアングルによって身体の一部を画面上に大胆に配置し、
非日常的な切り取り方をされた 「縦の構図」 の方が、
近くにいる少女の存在感が より強調され、
「遠近感」 がより一層 誇張された
と感じられたのです。
要するに、お竜さん と 盲目の少女 の客観的な実際の大きさの対比よりも、
ローアングル映像が作り出す
精神的に与える存在感の違いの方が、大きい。
と感じられたのです。
その為、二人の距離感が、実際のものよりも強調され、
より立体的な3D映像
としてボクの右脳に飛び込んできた
というわけなのです。
この表現手法をボクは
【 ローアングルによる 「3D」 効果 】
と名付け、大いに評価をしたいと思ったのです。
こんなことを感じていたら、盲目の少女 は突然、横の運動を止め、くるっと左90度曲がって、お竜さん と同じ縦の運動を開始していったのです。
それは、盲目の少女が安全地帯である踏み切りから1段踏み降ろして、危険地帯である線路内に立ち入ってしまうことを意味します。
物語を進行させる上で重要となるこの動きに対して、今作はその極端なローアングルを活用することよって見事なまでにその動作をクローズアップさせてきたのです。
そして、この素晴らしい表現手法によって、ボクは続けざまに大きな映画的興奮を獲得することになったのです。
この再びの、映画的興奮を考察しますと、
今回のローアングルは、進行方向を変える 「作用点」 となる少女の足元を直接的に映し出せるカメラ位置となっており、しかも、今作の地面スレスレの極端なローアングルによって、足元にある 1段 の 「高さ」 と 「重み」 をしっかりと目撃させることができる
稀有なカメラ位置 となっていたのです。
これによって 「安全地帯」 と 「危険地帯」 との境界線を彼女が越えてしまう切迫感を、
直感的に 視聴者に植えつけることができたのです。
通常のカメラ位置では、このような地面に接した足元での出来事はフォローし切れない領域であり、それ故、この動作を強調しようとすると、足元のアップをカットで抜くか、さもなければティルト・ダウンを施すか、場合によっては移動撮影を仕掛けることになり、当然のことながらリズム感を損なうなどして、
わざとらしい演出 になりかねないものですが、
驚くことに、今作は 「少女の登場」 から 「方向転換」、そして 「一段降り」 までを据えっ放しの1カットで表現をしてきたのです。
しかもカメラ位置が極端に低いローアングルであるために、少女の足元と、その少女の動きを気にしている お竜さん の存在さえも
同一カットに表現 することに成功していたのです。
近くのものは低い位置を捉え、
遠くのものはそれより高い位置のものを捉えやすい
このローアングルの特長を十分に
活用していたのです。
この特長を言い換えると、
先ほど 「縦の構図」 という言葉を使って、奥行きの表現について話しましたが、
今作に活用されている構図は
【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】
と表現できるのではないでしょうか。
近景、中景、遠景 が織り成す位置関係を 奥行き という一つのベクトルで統制している
「縦の構図」 に、
「高さ」 という、もう一つの方向性が加わって、
「斜め上の構図」 という
空間を多重の指標によって制御している、興味深い映画
世界が、今作においては展開されていったのです。
一概には言い切れませんが、
「近景は下部、中景は中部、遠景は上部」
を重点エリアとする
斜め上に向かっていくラインを意識させる 「斜め上の構図」 の世界観に強く興味を引かれたのでした。
盲目の少女の登場、そして方向転換と一段降り。 この一連のたった9秒の出来事ではあったのですが、この映像は今作を鑑賞していく上で表現上のキーとなる
【 ローアングルによる 「3D」 効果 】 と
【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】 の
萌芽を感じ取ることのできた、開始早々3カット目で見つけた
わかりやすいサンプル映像となっていたのです。
そしてこの2つのローアングル世界は様々な場面で活用され、このサンプルよりもその表現効果を増大させているカットに遭遇していくことになるのですが、その度ごとに語っていくと
【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 と
【 加藤泰作品の共通項探し 】
について書くスペースが無くなってしまうので
うづうづする気持ちを抑えながら、先を急ぐことにします。
先を急ごうと思いつつ、素晴らしいカットに遭遇してしまうと、どうしても思いを巡らさないわけにはいかなくてしまいました。
「珠玉の9秒」の 1分45秒後、善玉たる西乃丸一家 への お竜さん の「仁義」のシーンにおいて、素晴らしいシークエンスは再び展開されていきました。
実は、このシークエンスをキッカケとして、ボクは今作に漂っている、ある種の 奥床しさ を感じ始めたのです。
普通の監督なら、「仁義」という見せ場はドーンと正面から全身ショットを撮りたいところなのでしょうが、今作の監督である加藤泰監督は全く違っていました。
彼は仁義を切る お竜さん を ちょっと離れた隣の土間から横位置で、大きな暖簾ごしに見ていたのです。
暖簾がめくれると お竜さんの顔が現れて、閉じると顔だけ見えない。
この表現方法に触れて、不思議な言葉の組み合わせになりますが、何とも
“ 奥床しい 仁義 ” として受け留めていったのです。
次の2カット目は お竜さんの顔が映し出されるはず、と思いきや、今度は お竜さん の反対側にカメラが回り込んで相変わらずの、ちょっと距離感を保つ横位置カットとなっていきました。
3カット目こそは お竜さん のアップだろうと思ったこのカットは その仁義 を真摯に聞き入る 受け人 の姿を正面に据えてきたのです。
しっかりと前を向き、正座で両手こぶしを床についた誠意ある態度で お竜さん の口上を請けたまわっているのです。
お竜さん 「 (略) 渡世修行中のしがなき女にござんす。行く末万端、
お見知りおかれまして、よろしくお引き回しのほど、おねがい致します。 」
受け人 「 ご丁重なるご挨拶に遅れましての仁義、失礼さんにござんす。手前 (略)
杉山貞次郎に従います、若造です。(略) 渡世の道はいまだ修行中のしが
ない者でございます。以後、お見知りおかれましてお引き立て下さい。 」
このような文章にしてしまうと、ありきたりな仁義の口上でしかないのでしょうが、ゆっくりと、しっかりとした口調と、独自な抑揚の付け方によって、何故かしら、
格調の高い伝統芸能
を鑑賞しているような、
あらたまった気持ちになったのです。
そして、このシークエンスの雰囲気を端的に表すものが仁義の終盤、上記のセリフつながりで姿勢を直す時の二人の間で交わされた会話にみることができました。
お竜さん 「 ありがとうござんした。受け人さんよりお手をお上げなすって下さい 」
受け人 「 ありがとうござんす。ではご一緒に手をあげましょう 」
この奥床しさが、他の任侠映画と今作を分かつ大きな要因なのかもしれないと感じ初めたのです。
そして、仁義という見せ場をまっ正面から見据えるようなことはせず、距離を置き、少しづつ近づいてくる、そんな奥床しい演出に加藤作品の品格を見た思いだったのです。
とこのようなことに感じ入っていたら 嵐寛寿郎氏 が善玉親分として登場をしていきました。
ここで 今作特有の任侠世界にある 奥床しさ とともにボクは
【 加藤泰作品の共通項探し 】
に興じ始めていったのです。
今作は緋牡丹博徒シリーズの第3作目にあたるのですが、今作の続編的な作品で、同じ加藤泰監督によるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 にもアラカンさん は お竜さん が客人として身を置く一家の昔気質の親分として登場していました。
そして、緋牡丹博徒シリーズではないのですが、今作の加藤泰監督による名作、 「明治侠客伝 三代目襲名」 にも善玉親分として登場していたのです。
その類似したキャラクター設定からボクの脳裏に、
ある共通の展開
がどうして浮かび上がってしまったのです。
その、ある共通の展開とは、上記の 「緋牡丹博徒 お竜参上」 と「明治侠客伝 三代目襲名」 の2作品とも アラカン親分は、反目する悪玉一家の策略によって襲撃され、生死を彷徨う重傷を負わされてしまったのです。
2度あることは3度あるのか?
それとも、五体満足のままで今作のエンディングを迎えることができるのか?
今作を鑑賞する上で、こんなことに留意するのは邪道なのでしょうが、同じ加藤泰作品つながりで、見守っていきたいと思ったのでした。
やがて、緋牡丹シリーズの重要な相手役となる、旅人(たびにん)役の 高倉健さん が登場してきました。
初登場シーンは、 お竜さん と 西乃丸一家の人間に対して、反目する悪玉一家の住所を尋ねる場面となるのですが、ここでも今作で感じた特有の
奥床しさ
を感じることができたのです。
西乃丸一家の人間は 健さん を反目する悪玉一家の関係者として邪険にあしらうが、 お竜さん は誠意を持って道を教えてあげ、しかも、雨の中、傘を持たない 健さん に自分の傘までもを貸してあげようとします。
当然のように 健さんは 「 ご親切だけいただいてまいります。 」 と遠慮しますが、結局はお竜さんの親切を受けていきました。
その様子を見ていた西乃丸一家の人間は自分の言動を反省。
お竜さん も最初は良い気はしなかったが、
「 折り目の正しい旅人 (たびにん) さんには、なんも罪はなかですばい 」
の心意気で接していたというのです。
実際の任侠の世界を知る由もありませんが、このような娯楽としての任侠映画は、主人公は聖人のようにどこまでも善良で、悪玉はあくまでも悪どいという極端な構図を作ってくるものですが、このシーンはそんな傾向を割り引いて見ても、語ってきた世界観は実に 奥床しい ものとしてボクは受け留めたのです。
そしてこのシーンにいて、お竜さん から 健さん へと傘を受け渡す手元のアップをたっぷりと見せてきたところから、反目する一家の客人同士の ロミオとジュリエット 的な人間関係が生まれる予感を感じ取ることができたのです。
そして、この予感は先ほどの アラカン親分 にみる不幸な連鎖と同じように、一つの共通な展開を予感させていったのです。それは、加藤泰作品において
任侠映画の中での 「男女の機微」 を描く時は、
「川」 が舞台として選ばれている 偶然だったのです。
先ほども引き合いに出した加藤泰監督のシリーズ6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 に燦然と輝く名場面、
雪降る今戸橋での お竜さん と 旅人(たびにん) の菅原文太さん の間で交わされた一本筋が通った、しかし情感に溢れた素晴らしいシーンは 今戸橋という 「川」 の上でした。
そして前出の 「明治残侠伝 三代目襲名」 において 鶴田浩二さん 演じる主人公と情感を交わすのが、 お竜さん というキャラクターを得る前の 藤純子さん その人だったのですが、その舞台も夕焼けが美しい 「川沿い」 の道だったのです。 そんな
偶然が重なる中で、
今作において、お竜さん と 健さん が出会う、この雨の場面は、背景に鉄道橋が配置された場所で、その下には鉄道橋と交差する小さな木橋が奥に見えるのです。
そして お竜さん が道を教えているときに、 「この堀川ば真っ直ぐ・・・・」 とのセリフがあることからこの舞台が水まわりの場所であることがわかります。
数少ない加藤泰監督による任侠映画の鑑賞歴をフル動員して推察いたしますと、きっとこの場所が、お竜さん と 今回のスペシャルゲストであるところの 健さん との、
男女の情感を育てる場所
になるのだろうと、
直感的に理解をしたのです。
やがて、この直感は アラカン親分の受難 という予感と共に実現されていくことになりました。
それは、健さん が悪玉親分への渡世上の義理に縛られて、アラカン親分 への刺客にされる前に、この鉄道橋下で お竜さん を待っていた という展開をみせていくのです。
これによって今作の言わば 裏鑑賞テーマ としていた
2つの予想が矢継ぎ早やに的中
したことによって
ボクは大きな興奮を得ることができたのでした。
鉄道橋下のシーンでは、ファーストシーンで登場した盲目の少女の目の手術を巡る会話を通して二人は心を交わしていったのです。
出会いのシーンは雨でした。そして、別れを秘めたこのシーンでは はらはらと雪が降っています。
雨のシーンでは、傘を持たない 健さん に お竜さん が傘を貸してあげていましたが、
今回は、その逆で、傘を持たない お竜さん に 健さん が傘を差し出すという行動が用意され、
同じ気遣いを互いにかけている、
そんな心の重なり様が見て取ることができました。
そしてこの後、健さん が アラカン親分 の刺客となることで、二人の関係性が変容してしまうことを考えると、何とも切ない気分になってくるのでした。
このように、二人の叶えられない感情を盛り上げる準備は万端整っていました。
しかし、今作の 男女の機微を訴求するシーンは、背景に鉄道橋が重くのしかかるビジュアル設定としてしまっているために、叙情的なヌケの良さがなく、他の2作品、
「明治侠客伝 三代目襲名」 にみる、夕焼けが美しい 「川沿い」の道や、
「緋牡丹博徒 お竜参上」 の珠玉のシーン、雪降る今戸橋が実現した、
任侠世界の中での サンクチュアリ (聖域)
までには昇華していなかったように感じて、大いに残念に思いました。
恐らく、今回の未消化を踏まえたからこそ、加藤泰監督は今作の続編的作品であるシリーズ第6作目 「緋牡丹博徒 お竜参上」 において 雪の今戸橋 という美しさを実現できたのではないかと思えたのです。
もう一つの共通項である、アラカン親分受難のシーンは、文句の付けようもない素晴らしい出来映えとなっておりました。
何と言っても アラカン親分 の刺客となるのがゲスト主演たる 健さん なのですから、他の2作品とは比べものにならない重みがあったのです。
「明治侠客伝 三代目襲名」 では 物語上重要でない者による背後からの不意討ち。
「緋牡丹博徒 お竜参上」 では、その他大勢によるヤミ討ち。 であったのに対して、
今作は刺客となる 健さん の苦悩を映しつつ、正々堂々の1対1の真っ向勝負が行われていったのです。
その際の、刺客である 健さん と アラカン親分 の間で交わされた言葉が、お竜さん の仁義の場面で、そして、健さんに傘を貸してあげるシーンで、様々な場面において感じた、
一本筋が通った、奥床しさ
に満たされていたのです。
健さん 「 (中略) 親分さんに不本意なお願いがありまして、やってまいりました。
渡世上、親分さんに恨み辛みは一切ございません。のっぴきりならねえ
義理で命をいただきに参りました。差しで勝負お願いします。どうか、ドス
を取っておくんなさい。 」
( いきりたつ子分たち )
アラカン親分 「 筋を通った挨拶をしてなさるお人の前で、不躾なまねはやめな。
手出しするんじゃねえぞ。
(略・健さんに向かって) どっちが倒れても、この場限りにしょうぜ。 」
と、アラカン親分は健さん の勝負に臨むことになるのです。
ここには、ヤミ討ちや騙し討ちなどというものが介在する余地などなく、折り目正しい、男の勝負を挑む 健さん と、その心意気に 死を覚悟して受けて立つ アラカン親分 の姿があるのです。
奥床しい。
場違いな言葉かもしれませんが、
ボクにはしょうがなくも、そう思えてしまったのです。
渡世の義理のために刺客となり、そして、相手の心意気に対して死を覚悟して決闘を受ける。
尋常では理解できない世界ではありますが、二人の男の魂の対峙の前に、襟を正す気持ちになったのです。
重傷を負いながら 悪玉一家への報復を諌めるのは、他2作のアラカン親分と同じですが、そんな身でありながら、「勧進賭博」 という公の場を取り仕切り、出血を抑えながらの気丈な振る舞いを見せ、そして死を迎える展開は、
荘厳な迫力に満ちて、
他の2作とは比べ物にならないほどの充実ぶりだったのです。
「男女の機微」 という側面では残念な結果であった今作は、「アラカン親分の受難」 という側面で捉えると、非常に素晴らしい出来だと高く評価します。
やがて、忍耐に忍耐を重ねた末に、今作はとうとう
悪玉一家への殴り込み という
カタルシス
へとなだれ込んでいきます。
この流れは任侠映画におけるお約束の展開となっており、まるで水戸黄門における
「葵の印籠」 的な
クライマックス終結方法 とも言えます、
この一番の見せ場に至って、突如としてその存在感を飛躍的に大きくしていった人物がいたのです。
それはシリーズの脇役的人物であり、今回は終盤になってやっと登場した 不死身の藤松 という存在だったのです。
彼は お竜さん の兄貴分である 道後の熊虎 の子分という立場ですが、悪玉一家に一人で殴りこむ お竜さん の気持ちを察して同行を申し出るのです。
たったこの1シークエンスだけで 不死身の藤松は、今作のゲストスターである 健さん を、ボクの心の中で大きく超えていってしまったのです。
雪降る中を一人、悪玉一家に殴りこみをかけようとする お竜さん に
傘を差し出す 不死身の藤松 。
藤松 「 叔父貴 (自分の親分の兄弟分だから お竜さん をこう呼ぶのでしょう)、
お供しまっせ。 (中略) 行くな 言われても行きまっせ。
叔父貴 一人行かせて四国にのこのこ帰ってみなはれ、 わい、親分に
絞め殺されますがな。 」
と朗らかに、笑みさえ浮かべて言うのです。お竜さん をはじめ 健さん、そして アラカン親分 の主人公級の方々は勿論ですが、今作においては、不死身の藤松 や冒頭の 仁義の受け人 など、脇を固める存在までもが、
奥床しく
振舞っていくのです。
そして 不死身の藤松 が 「わい、親分に絞め殺されてますがな」 と殴りこみ同行の意志を告げ終わった瞬間、流れるんですよ。
何がって? 緋牡丹のお竜 のテーマソングが流れるんです。 あまりにも絶妙のタイミングだったものだから、背筋がブルッと振るえる感覚に襲われました。
雪降る中、お竜さん に傘を差しかけながら、テーマソングを従えて、殴りこみの道中をいく 不死身の藤松 を
カッコイイ
と心底思ったのです。
しかも、今作において相手を気遣う象徴として捉えた 「傘」 という小道具を持ちながらの道中ですからなおさらズルイ。
これでは 不死身の藤松 に食われてしまうと心配した瞬間、定石通りに今作のゲストスターである 健さん は、悪玉一家への殴りこみに、お竜さん達の助っ人として大立ち回りを演じていったのです。
よしよし、と鑑賞していくと、 あれ! あれ? 不死身の藤松 にポイントを持って行かれそうだから
焦ったのでしょうか?
ゲストの 健さんが、シリーズ主人公の お竜さん を差し置いて、何と、今作の悪の象徴である悪玉親分を成敗してしまったのです。
この瞬間にボクは非常に残念な思いに打ちのめされていきました。
なぜなら、この瞬間に今作は 「緋牡丹博徒」 という独自の美学を持った任侠映画ではなくなってしまい、健さん が主人公を務めている 「昭和残侠伝」 や 「日本侠客伝」 という他の任侠シリーズに変容してしまったと感じたからなのです。
冒頭の お竜さんの 仁義のシーンで、そして、雨の鉄道橋の下で、アラカン親分受難の場面で感じていた今作の美徳である
奥床しさ
をかなぐり捨てて、
「俺が東映のドル箱スター。 高倉健 だ!」 と 「緋牡丹博徒」 の映画世界を乗っ取らんばかりの出しゃばりようには、正直、失望をしてしまったのです。
そして、健さん が悪玉親分を討ってしまったことによって生じる
構造上の不手際も
露呈されていったのです。
それは、この選択をしたことによって、不本意ながら悪玉親分によって刺客をやらされた 健さん の恨みのみが強調されてしまい、アラカン親分 の不幸や、本文では触れていませんが、一人殴りこんで死んでいった 受け人さん や 盲目の少女の母親である “ニセお竜” の無念 がどこかに行ってしまったと感じるところにあります。
彼らの気持ちを代弁してくれる
唯一の存在
である お竜さん によって悪玉親分がトドメをさされなかければ、全ての恨みが未消化のままで、宙ぶらりんなエンディングを描いてしまうと言うのに、このような構造的とも言える感情の面での不整合が発生してしまったのです。
この行為は 助さん や 格さんが
黄門様をないがしろにして
「葵の印籠」 を勝手に掲げて、悪代官を懲らしめてしまったようなもの
といえるでしょう。
うーん、しっくりこない。
様々な映画的興奮をもたらしてくれた今作ではありましたが、終盤にして突如として今まで積み上げて来た稀有な世界観を投げ打って、釈然としないままに終わりを告げていきました。
「あーもったいない! あの出しゃばりさえなかったら完璧だったのに」、と嘆いても仕方がないことですので、ボクの脳内では、悪玉親分を殺ったのは、今作の主人公 お竜さん であった。ということに変換しておいて、強引に納得をさせたのでした。
今作を総括すると、
映像演出的 には 【 ローアングルの深遠なる世界 】 に狂喜し、
人物描写的 には 【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に驚嘆し、
個人的 には 【 加藤泰監督作品の共通項探し 】 に興じた
素晴らしい映画体験となりました。
加藤泰監督作品で未見である
シリーズ7作目 「緋牡丹博徒 お命頂戴します」 にも
アラカン親分 が出演をされていることですので、機会があれば、「アラカン親分の受難」 が
4たびに渡って繰り返されるのか?
そして、7作目 「緋牡丹博徒 お命頂戴します」 の旅人(たびにん) さんである 鶴田浩二氏 との間で交わされる であろう 男女の機微が、 「川」 がらみの場所で進行し、
無垢なる 聖域(サンクチュアリ) を形成していくのか?
について観察をしてみるのも、一興かな? と思いつつ
今作のレビューを終えるのでした。


完成! 「バタフライ・エフェクト」 [DVD 車内鑑賞レビュー]

惜しい、 実に 惜しい 。
これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。
■ 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」
このカオス理論にインスパイヤーされた今作のプロットは良い。
■ オープニング・タイトルもイマジネーション豊かで秀逸な出来だ。
■ エンディングも情感に訴える素晴らしいものであった。
が、しかしだ、この素晴らしい要素を結びつけるべきディティールの数々が、残念ながらボクの期待をことごとく裏切っていったのです。
今作の出だしは非常に素晴らしく、今後の展開を大いに期待させるものではあったのです。
主人公である エヴァン が追っ手から逃れる緊迫感あふれるシーンから始まり、オープニング・タイトルに至っては
「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏側では台風を起こすこともある 」
というカオス理論から発想を得た秀逸な内容となっていたのです。
「蝶の羽ばたき」 が、やがて 「右脳と左脳」 の非対称のいびつな収縮運動にリンクしてきたことによって
「脳の機能に大きな関係が生じてくる」
ことを予感させる秀逸なタイトルでありました。
そして矢継ぎ早に今作は、このオープニング・タイトルから一転して、カラッとしたアメリカの典型的な住宅街に場面が急展開をしていったのです。
追っ手から逃れる緊迫のオープニング・ショットから始まって、 「蝶」 と 「脳」 をフューチャーした秀逸のオープニング・タイトルにかけて、 「渋い色彩」 が続いたところに突然、ヌケの良い景色が登場したワケですから、ボクの心の中は
ハッとするような開放感に
溢れていったのです。
向こうからスーッと伸びてきている坂道がこちら側に迫ってきて、その坂の上からMTBに乗った2人の少年が疾走してきました。
どちらかと言えば 「陰」 な映像が続いていたところに、一転しての晴れやかで心躍る映像が提示されてきたことに、 対比の妙 を感じ、今作に対する期待はますます高まっていったのです。
2台のMTBがドンドン近づいてきます。爽やかなスピード感に乗って、しばらくは 「夢の世界」 が提示されるんだ、
と確信した瞬間、MTBはあっと言う間にボクの視界を通り過ぎ、フレームの外へフッ飛んで行ってしまったのです。
んっ !! どうしたんだ ?
信じられないことに、カメラは勝手にMTBへのパンニングを止めてしまったのです。
残念ながら、今作の興味はパンニングの途中にいる今作の主人公、7歳時のエヴァン が庭先で愛犬と戯れているシーンに移っていってしまったようなのです.........。
惜しい。
実に、 惜しい。
心の底からそう思いました。
緊迫のオープニング、抽象的なタイトル・バックと続き、それらを 軽やかなスピード が引き継いで本編が開始されていくはずと、期待が大きく膨らんだ矢先に、 MTBを放棄し、 スピード という高揚感をあっさりと捨ててしまった今作の制作陣の選択に疑念を持ってしまったのです。
庭で愛犬と停滞している主人公の映画なんかではなく、MTBで疾走していく二人の少年の映画を観てみたい衝動に駆られたのです。 「停滞」 と 「疾走」 どちらかをチョイスできるとしたら、ボクは迷わず
晴れやかなスピード
を選んだことでしょう。
今作は、序盤においては非常に素晴らしい印象をボクに与えていきました。しかし、本題が始まると、 いや、このように本題が始まる一瞬前から、ボクの期待と大きなズレを生じていったのです。
そして、このズレを脳内で修正していくことが、今作を鑑賞する上での一番大きな作業となっていったのです。
気を取り直して鑑賞を続けていくと
「記憶喪失」 というキーワード
が登場してきました。
「バタフライ・エフェクト」 というカオス理論からの題名と 「蝶」 の羽ばたき、そして 「脳」 の収縮 というパーツが本格的に連携し始めてきたのです。
「記憶」 をめぐる映画 ですから、「記憶喪失」 というキーポイントを時間軸に沿ってしっかりと理解していかなければ、
制作者のメッセージ
を受け止めることができない、
と直感したのです。
そう思っているうちに、今作には
20歳 という 現在 と、
7歳 という 子供時代。 そして
13歳 という 思春期。
この3つの異なる時間が関与し始めていきました。
混乱しないように、主人公が直面する 「記憶喪失ポイント」 を時間軸に沿って整理してみることにします。
7歳時に発生した 「記憶喪失ポイント」 は
《 1番目 ・ 殺人の絵 》
授業中に発生。
「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた
《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
自宅で発生。
キッチンで包丁を (殺意ありげに) 持っていた
《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
幼馴染の 妹ケイリー、兄トミー の家の中で、彼らの父親に
いかがわしいビデオ撮影をされる際に発生
《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》
精神病院へ父親を面会した際に発生。
気が付くと父に首を絞められていた
という以上の4点。
そして、それから6年後。13歳の思春期を迎えた時間には
7歳時にも登場した、幼馴染の 妹ケイリー 、兄トミーが重要な役割を演じていきます。
《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
粗雑な 兄トミー 主導で他人の家の郵便受けを
ダイナマイトで吹き飛ばす甚大なるいたずらの最中に発生。
《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》
主人公エヴァン と 妹ケイリー のキスに激高した
粗雑な 兄トミーが、エヴァン の愛犬を焼き殺す場面で発生。
このように、7歳時の4点と、13歳時の2点。 計6点の 「記憶喪失ポイント」 が提示されていったのです。 そして次には、この 「記憶喪失ポイント」 を核として 今作を推進していく
「映画のルール」
が提示されていきました。
それは
“自分の日記 ( 「記憶喪失」 発生時ににその状況を書き留めておいた )
を読み返すと、その 「記憶喪失ポイント」 に時空を超えてタイムリープを
することができる。”
というものでした。
今作の映画世界は、この 「映画のルール」 によって完全支配されることになるのですが、その側面から今作の展開を推察していくと、
20歳の心を持った エヴァン が
7歳時に起こった 「記憶喪失ポイント」
《 1番目 ・ 殺人の絵 》
《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
《 4番目 ・ 精神障害の父からの殺意 》 に加え、
13歳時の
《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》
という6個の 「記憶喪失ポイント」 にタイムリープをして、失われた記憶を埋めていくというものになるようです。
やがて、今作の映画世界を推進していくための 「映画のルール」 が提示された次には、この 「映画のルール」 を駆使して成し得るべき、映画の到達目標点とも言える、
「主人公の目的」
が提示されていきました。
エヴァン は、失われた記憶を確認すめるために、13歳時にサイドミラー越しの別れを演じた幼馴染の ケイリー と7年ぶりに再会をしました。 ケイリー の父親によってなされた
7歳時の
《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
幼馴染の 妹ケイリー、兄トミーの家の中で、彼らの父親に
いかがわしいビデオ撮影をされる際に発生
の事実を確認したところ、彼女の封印していた悲しい記憶を呼び覚ましてしまったのでしょう。 結果的に彼女を自殺に追い込んでしまったのです。
ここで、 「記憶喪失ポイント」 の種まきに終始していた今作に、成し得るべき到達点である 「主人公の目的」 が提示されていったのです。
それは、タイムリープという 「映画のルール」 を活用して過去に戻り、その過去を変えていくことで、命を落としてしまった
ケイリー を救うこと
だったのです。
当然のことながら エヴァン は ケイリー を自殺に追い詰めるほどの大きなトラウマを焼き付けた、7歳時の
《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
という 「記憶喪失ポイント」 に 戻って行くのです。そして、いかがわしい撮影をしようとする ケイリー の父親を一喝し、その行為を封印させたのです。
過去を変えた瞬間に、7歳時のその時点から エヴァン と ケイリー の今までとは違った人生が走馬灯のように提示され、夢から覚めたように、全く異なった20歳の エヴァン が始まっていたのです。
過去に戻ってトラウマを払拭させたことによって、幼馴染の ケイリー は、前回の人生での冴えないウエィトレスなんかではなく、華やかな女子大生としての人生を謳歌していたのです。 ここでオープニングに提示された
「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」
の意味を実感することができるのです。
7歳の時に ケイリー の父親を一蹴し、いかがわしい撮影をさせなかった という
「小さな蝶のはばたき」 で、 ケイリー はキャピキャピの女子大生となり、エヴァン とナイスカップルというバラ色の人生へと、プラス方向の 「台風」 が吹き荒れてたのです。
しかし、今作はここで 「めでたし、めでたし」 の大団円を迎えるわけもなく、マイナス要件としての
もう一つの 「映画のルール」
を突きつけてきたのです。
それは、「何度も過去を変えて不幸を取り除こうとしても、結局は誰かしら不幸に陥ってしまう」 という、興味深いストーリー展開だったのです。
先に紹介した、ストーリーをグイグイと前に進めていく 「タイムリープ」 を
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】
とするならば、
今回新たに提示された、誰かしら不幸に陥ってしまうという 「映画のルール」 は
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】
と言うことができるでしょう
タイムリープをして、過去を変えていく
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 と
積み上げた物語をリセットする方向に持っていく
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が絡み合い、
そこに、7歳時と13歳時の 「記憶喪失ポイント」 が関与をしだして、 なんとも典雅な3重奏の調べを奏でるのです。
とボクはこの時点ではそんな映画体験ができることを真剣に期待をしていたのです......。
前述のように、ところどころに素晴らしい要素が散りばめられた今作ではありますが、それらを結びつけるディティールの数々が、ボクの期待をバッサリと裏切っていったのです。 この思いは、7歳時の
《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》
を阻止しただけで、エヴァン と ケイリー のバラ色の 「第2の人生」 が始まっていくくだりから既に感じ始めていたのです。
何故なら、 《 いかがわしい撮影 》 という マイナスポイントを是正しても、時制的にその後にくる
《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》
を始め、何よりも13歳時に遭遇した 重大な出来事、
《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》
粗雑な 兄トミー 主導で、他人の家の郵便受けを
ダイナマイトで吹き飛ばす甚大なるいたずらの最中に発生。
《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》
主人公 エヴァン と 妹ケイリー のキスに激高した
粗雑な 兄トミー が、エヴァン の愛犬を焼き殺す場面で発生。
という、2つの大きな傷跡を残した 「記憶喪失ポイント」 までもが、軽くスルーされていったことに、大きな違和感を感じてしまったからなのです。
ボクは 「時」 というものを
一瞬一瞬が絶え間なく積み上げられて、
緻密な関係性を築いた結果が
「今」 へと結実している、
連続的なもの
と思っているのですが、今作においては
7歳時の 《 3番目 》 とい1点 と20歳時の 「今」 。
この2点しか制作者の配慮がなされていない、
非常に薄っぺらい印象を持ってしまったのです。
7歳時のエヴァンの 「小さな蝶のはばたき」 が、13歳時のとてつもなく大きな2つの不幸までもをカバーする 「台風」 になったと言うのでしょうか?
少なくともボクには、そんな大きな効果が実感できる是正とは思えませんでした。
そしてボクの今作に対する期待が、残念ながら空振りに終わってしまうことを確信したのが、 「第2の人生」 において
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】
によって、エヴァン が犯罪人として投獄されてしまい、
その窮地から逃れるための
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】
を行使する方法にあったのです。
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を司る 日記帳 を奪われた、スリリングな奪還劇の中で、迫り来る攻撃者を瞬時でかわしながらの タイムリープ は大いにスリリングで、その展開を楽しみはしました。
でも、
「時間」 という概念を、
一つ一つの 「瞬間」 が、時間軸に沿って積み上げられた膨大な
「積み木構造」 である
と思い込み、 「記憶喪失ポイント」 の順列を意識してきた者としては、今回の移行がドサクサ紛れの無計画なタイムリープであったことに苛立ちを覚え、しかも、行き着いた先が、よりによって最後の 「記憶喪失ポイント」 となる
13歳時 《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》 であったことに、
大いに失望してしまったのです。
《 6番目 》 へと一気に移行してしまったということは、スルーされていった
《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》 と
《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》 の
「記憶喪失ポイント」 に、 エヴァン は必ずこの後タイムリープをし、何らかの是正処置を行うことが容易に予測がついてきます。
そして 「時制的に新しい」 《 6番目 》 は、 「積み木構造」 の土台となるこの 《 4番目 》 や 《 5番目 》 で行われる是正によって、その様相を大きく変えてしまうことが予見できてしまっているのです。
ですから、そんな脆弱な 《 6番目 》 を、こんな早い順番に提示しても、
誰が真剣に観るというのだろうか !?
という疑問に苛まされてしまったのです。
やっぱり今作の制作陣は、 当該 「記憶喪失ポイント」 と 「現在」 という2つの 「時制」 にしか注意を払っていないようなのです。 少なくとも、
「時間」 という概念を、
一つ一つの 「瞬間」 が、時間軸に沿って積み上げられた膨大な
「積み木構造」
だなんて思ってないことだけは、確かなようです。
ボクは今作に対してもう少し
「時制」 を考慮した理論的な展開
を期待していたのです。
例えば、
《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 という 「記憶喪失ポイント」 から
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を開始して 「ケイリー の自殺」
を回避したのなら、
そのアドバンテージを保持したまま、 新たに発生した 「エヴァン の投獄」 を削除
するために、次の 「記憶喪失ポイント」 となる
《 4番目 ・ 精神障害の父親からの殺意 》 に移行。何らかの是正処置によ
って、 「エヴァン の投獄」 を削除し、少しづつ 「主人公の目的」 (ケイリーや
身近な者を救う) に近づけていくという展開を期待していたのです。
そして当然のことながら、ここでも、どうしても生じてしまう
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 によって、時制的に次なる
《 5番目 ・ ダイナマイトによる甚大なるいたずら 》 に移行して
「ケイリー の自殺」 や 「エヴァン の投獄」 のリスクを制御しながら、新たな元凶
を削除する。 しかしそれでもまた、「主人公の目的」 は遂行できずにやっと最後
である次の
《 6番目 ・ 愛犬の焼き殺し 》 でほぼ 「主人公の目的」 は達成する
という構造を期待をしたのです。
ついでに言うと、タイムリープは 《 3番目 》 という順番から始めていきましたので、まだタイムリープをしていない、そして 《 3番目 》 より 「古い時制」 で、 「積み木構造」 の土台となる
《 1番目 ・ 殺人の絵 》
授業中に発生。
「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた
《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
自宅で発生。
キッチンで包丁を (殺意ありげに) 持っていた
への是正によって、今まで築き上げてきた 「新しい時制」 である
《 3番目 》 ~ 《 6番目 》 で得られた成果が揺らぎながら、
思いもよらないラストが待ち受けているはず。
と 「是正の集積」 と 「突然の転調」 による珠玉の結末までを、密かに夢見ていたのです。
妄想を告白したついでに、最後までボクの満たされるはずも無かった 「妄想」 に付き合って頂きましょう。
わかりやすく極端な言い方をすると、こんな構成を夢見ていたのです。
20歳現在 「ケイリー の自殺」 に対して
↓
元凶となっていた 7歳時 《 3番目 ・ いかがわしい撮影 》 に
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用して タイムリープ。
「ケイリー の自殺」 の元凶を排除
↓
「第2の人生」 が始まる。
「主人公の目的」 (ケイリー や身近な者を救う) が達成できたと思いきや、
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が発生。
エヴァン が投獄されてしまう。
(ここからボクの勝手な妄想が始まります)
↓
「ケイリーの自殺」 を回避したまま、「エヴァン の投獄」 を削除する為
次の4番目の時制 7歳時 《 4番目 ・ 精神障害の父からの殺意 》 に
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用してタイムリープ。
「エヴァン の投獄」 を回避する。
↓
「第3の人生」 が始まる。
「主人公の目的」 (ケイリーや身近な者を救う) が 達成できたと思いきや 、
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が発生。
何らかの不幸が発生する。
↓
「ケイリーの自殺」 と 「エヴァンの投獄」 を回避したままその元凶を削除する為
次の5番目の時制 13歳時 《 5番目 ・ ダイナマイトによるいたずら 》 に
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用してタイムリープ。
何らかの不幸を回避する。
↓
「第4の人生」 が始まる。
「主人公の目的」 が達成できたと思いきや
【 振り出しに戻れ型 「映画のルール」 】 が発生。
またもや何らかの不幸が発生する。
↓
今までのリスクを全て押え込みながら、その元凶を削除する為
次の時制で最後となる 13歳時 《 6晩目 ・ 愛犬の焼き殺し 》 に
【 ストーリー推進型 「映画のルール」 】 を活用してタイムリープ。
最後の不幸を回避する
↓
「第5の人生」 が始まる。
やっと 「主人公の目的」 を達成し理想の形になる。
しかし、だ。 まだ活用されていなく、「古い時制」 である、
「積み木構造」 の土台となっている 「記憶喪失ポイント」 、
7歳時 《 1番目 ・ 殺人の絵 》
授業中に発生。
「ナイフで人を刺し殺した絵」 を無意識のうちに書いていた
と
7歳時 《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》
自宅で発生。
キッチンで包丁を (殺意ありそうに)持っていた
の存在によって
↓
急転直下な終盤が展開される !!
といいな.......。
と 極論を言うと、このような 「積み上げ修正型」 の理論整然とした謎解きを夢見てしまったのです。
でも、今作は、緊密で有機的な時間の絡み合いを放棄をし、タイムリープの先々でやらかした失敗のフォーローに終始。ちっとも前に進んでいかないのです。
無計画な行き当たりばったりのタイムリープを繰り返していくうち、映画自体も無配慮で薄っぺらなものになっていってしまいました。
この非常に残念な思いを持ちながらの鑑賞となったのですが、その後に続く杜撰な構成にはほとほと呆れ返ってしまいました。 ちゃぶ台返し的な特権を与えることができる、
7歳時の 《 1番目 ・ 殺人の絵 》 と
《 2番目 ・ キッチンでの包丁 》 が
オープニング早々に視聴者の興味を持続させるだけのツールでしかなく、ストーリーを語る上で全く活用されていない愚行に亞然としてしまったのです。
この行為は誠実に鑑賞をしてきた者に対しての
「裏切り」 としてボクは受け取りました。
タイムリープを扱うのであれば、その推進役となった 「記憶喪失ポイント」 を無駄に消費するのではなく、もっと真摯に向き合うべきだと強く主張をしたいと思います。
でも、今作にこのような姿勢を求めても全く無駄のようでした。
何故なら、前述のようにうまく活用されていない 「記憶喪失ポイント」 が放置されたままであったり、逆に、 《 第3番目 ・ いかがわしい撮影 》 に対しては 違う目的で2回に渡って戻り、いじり回した挙句、2回目の是正措置は オマヌケな失敗 (苦) で終わってしまうし.....。
最後の 《 初めての出会い 》 に至っては 今まで秩序としてきた 日記 とか 「記憶喪失ポイント」 はどこかに忘れ去られて、言わば、ご都合主義的な タイム・リープ によって、絶対絶命の境遇からまんまと脱出をして行ったのです
ガッカリだな.......。
構造的な落ち度の数々の次には、感情的な面についての不足分を指摘していきます。
今作の 「目的」 は不幸な人生を送り、自ら命を絶ってしまった 幼馴染のケイリー を救うことでした。
しかし、7歳時と13歳時に濃密なエピソードを共有し、サイドミラー越しの 悲しい別れを提示しておきながら、その ケイリー と20歳時になるまで音信不通であったという設定には、ボクは強い拒否反応を起こしてしまいました。
7歳時と13歳時の種まきが、20歳時の今に有機的に反映されていないことに、またもや強い違和感を感じてしまったのです。
そもそもはその程度の思い入れしか ケイリー に対して持っていなかったくせに、自殺という局面に一転して、急に ケイリー を救わなければいけないと思い立ち 【 推進型 「映画のルール」 】 を駆使しだす。
そんな行き当たりばったりの薄っぺらい動機が見えてしまったのです。
せめて、ケイリー を大切に思っていたが、何らかの理由によって会えなかった、もしくは会うのを差し控えていた。という、配慮が欲しかったと思います。そうすればラストの エヴァン の哀しみがもっと増幅して心を打ったことでしょうに.......。
また、極私的な印象としては 「幼児ポルノ」 や 「刑務所での暴力・男色」 というダークな側面は避けて欲しかったと思います。また、暴力的な描写や性描写を意図的に持ってきた点についても同様の思いです。
結局は、今作の終結方法は、「初恋の人を守るために自分の存在を消す」 という純粋なペシミズムの世界に昇華していくわけですから、暗黒面の提示はメリハリを作りはしたが、ストレートな感情発露の大きな邪魔になったとしか思えてなりませんでした。
残念ながらボクは今作に対して
構成的な面でもっと知的で緻密なパズルにして欲しかった
感情の面で エヴァン と ケイリー の絆を丹念に描いて欲しかった
純粋な世界観を照れずにストレートに打ち出して欲しかった。
と率直に思わずにはいられなかったのでした。
もしボクが今作の序盤にタイムリープすることができるとしたら、今作のカメラオペレーターの腕を引っぱって、坂道を疾走してくるMTBの少年に強引にパンニングをさせたことでしょう。
ボクのこの 「小さな羽ばたき」 が
構成面での緻密なパズルを描き、
感情の醸成を実現し、
爽やかな印象のまま、あの心に響くエンディングに行き着く
という 「大きな台風」 となってくれるなら、
喜んでトライしたことでしょう。
もう一度言おう。
■ 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」
このカオス理論の言葉にインスパイヤーされた今作のプロットは良い。
■ オープニングのタイトルもイマジネーション豊かで秀逸な出来だと思う。
■ エンディングも非常に情感に訴えるものがあった。
しかしだ、この素晴らしい要素を結びつけるディティールの数々が、ボクの期待をことごとく裏切っていってしまったのです。
実に、 実に 惜しい映画でした。


完成! 「天然コケッコー」 [DVD 車内鑑賞レビュー]

今作を鑑賞して
【 終わりがある 儚さ 】
【 終わりがある 愛おしさ 】
【 終わりがある 美しさ 】
をしみじみと感じていきました。
終わってしまうから、そして、変容してしまうからこそ、この一瞬一瞬が愛おしい。そんな
小津安二郎映画にみる美学
を思春期の彼らの物語の中に見つけたのでした。
序盤から、小中学校の全生徒6人による家族のような空気が
非常に心地よく
感じられていきました。
女の子なのに 島根方言の 「わし」 を連発する意外性のある言葉使いと、音楽のような柔らかいイントネーションの世界に心地よく浸っていったのです。
そんなところに東京から 大沢広海クン が登場して今作の本題が始まるわけですが、主人公の 右田そよちゃん と 大沢広海クン の二人だけの場面になると、今までテンポの良かったリズム感が、突然ギクシャクとし、心地よかった空気感も損なわれていきました。
今作のキャッチコピー
「初めての同級生、初めての恋」
が鑑賞動機であったのに、序盤早々からこのメインテーマにボクは乗り遅れてしまったようなのです。
しかしその直後に、 そよちゃん が小学1年生の さっちゃん の家にお見舞いに行くシークエンスにおいて、人間という生き物の愛おしい部分に触れて思わずホロッとしてしまったのです。
このように小中学生6人の人間関係と、キャッチコピーでの主人公である二人。この二つの関係性において生じた
自分の温度差 に、
今作の鑑賞方針なるものが見えてきたようでした。
なんてことをつらつらと思っていたら、そよちゃん の父親役である佐藤浩一氏が本格的に今作に関与し始めていきました。
そうしたら案の定、そよちゃん と 広海クン のシークエンスで感じた以上の違和感を彼の存在の中に見てしまったのです。
小中校生6人が醸し出す特別な空気感を疎外するものが、たとえ今作の主題である そよちゃん と 広海クン の関係性であっても、許しがたい気持ちになっていたところですから、佐藤浩一氏という俳優人の場違いな自己主張によって、この純粋でゆったりとした映画世界が壊されてしまうのではないかと、
強い警戒心 を、
持ってしまったのです。
今作のメインテーマを遂行するために 広海クン と そよちゃん が二人きりの時間を欲っすることにも反発の気持ちを持ってしまったわけですから、そもそも、プロの俳優人の出る幕などあるはずもなかったのです。
そんな雰囲気の中に 広海クン の母親が登場していきましたが、予測通りに彼女のひねた態度を誇張する職業俳優のテクニックが鼻についていきました。
穏やかな 「行って帰ります」 の世界と、そこにアクセントを付加しようとするプロ俳優人の強気な演技が不協和音を奏で、ボクの気持ちを最後まで逆立てていったのでした。
今作においては
「行って帰ります」
という一般的ではない言葉が、
このコミュニティの住民であることを互いに確認するための暗号のように飛び交っています。
バレンタインのチョコを軸にした 「行って帰ります」 の優しい世界を再確認した時、ボクは自分の中に感じたことのない気持ちを発見したのです。
それは、映画という創作物を鑑賞しているにもかかわらず、
ドラマチックなことなど一切望まないので、
このまま皆が無事でいられますように、
と願っている自分であったのです。
映画に対して 「表現の目的やその効果」 を求めてしまう、かつての “自主映画少年” のボクにとっては思いもつかない反応でした。
いつもは、プロローグで提示された世界観が、いつ・どこで・どのように 「変容」 して、エピローグに終着していくのかを観察していたのに、
今作に限っては序盤で提示された 「行って帰ります」 の世界が全く 「変容」 することなく、そのまま続いてくれることを願っていたのです。
しかしその願いは所詮、叶わぬ夢であることぐらいはボクにも分かっていました。
「行って帰ります」 のように、ドラマチックなこととは無縁の世界である、あの小津安二郎作品においても、結局は映画を推進していく原動力は、「結婚」 や 「親の死」 という “家族における大事件” となる
“ワビ、サビ 的” 「変容」
であったのですから......。
小津作品のように穏やかに映画が進行していると思われる映画であったとしても、
関係性が何も変わらないままで
映画を終息させる、ということは、
至難の業
であったのです。
そのことを頭では承知していても、今作においては、「言って帰ります」 の世界に波乱を持ち込まずそっとしておいて下さいと、映画の神様 に祈らずいはいられなかったのです。
こんなこと初めてだな........。
春。そよちゃんの弟である 浩太郎クン が中学生になっていきました。
しかし小学校には新1年生が入学しなかったようです。
いや、それどころではなく、この村には2年生になった さっちゃん を最後に子供が生まれていないという事実が判明したのです。
穏やかな平和に満ちたこの映画に慣れ、平穏無事を願った矢先に、突如突きつけられた
廃 校
というドラマチックな影。
今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校 という響きは、必要以上にボクの心を震わせていきました。
この小中学校の人口分布図を学年順に書くとするならば、
2 2 1 0 0 1 0 1 0 となり、
しかもこれ以降子供がいない事実を加味するとさらに
0 0 0 0 0 と 虚しい数字が続いていってしまうのです。
浩太郎クン が中学校を卒業する3年後には、今、小学生である さっちゃん と かっちゃん の姉妹たった二人きりの分校となるようなのです。
いや、前述のように廃校になってしまう可能性が高いのです。
彼らの家族のようなコミュニティが消滅するかもしれない、
この不可避な悲しい予感は、
【 終わりがある 儚さ 】
【 終わりがある 愛おしさ 】
【 終わりがある 美しさ 】
に昇華していくようでした。
終わってしまうから、変容してしまうから、今のこの一瞬一瞬が愛おしい、そんな前述の
小津作品にみる美学
を感じ始めたのです。
そして、よく考えるとその思いは、
短い一瞬で変わり、すぐに大人になってしまう、
今作の主人公 そよちゃん の 「思春期」
というものにも投影されているような気がしてきて、この思いにこだわりを持ってしまったのです。
「行って帰ります」 を育んだ 分校 と、
純粋な気持ちを持ちえた そよちゃん。
その両方が並存する最後の数年に立ち会える映画だったのか?
そして、それらが
損なわれてしまう様を見届けさせられる映画なのか....。
と、ちょっと感傷的になってしまいました。
そして、 廃校の予感 から顕在化した
過疎化 という大きな問題についても考えを巡らせていたら
“このコミュニティには 過疎化 という問題があったからこそ
「行って帰ります」 の 特別な優しい空間が生まれたのではないだろうか?
数少くなくなってしまった子供たちを村人達が心から大事に思っていたから
こそ、このような緩やかな空間となっていったのではないだろうか? ”
という思いにも取り付かれていったのです。そして何よりも、
「行って来ます」 を意味する 「行って帰ります」の 本当の意味は、
「 行って、(そしてまたここに) 帰っておいで。 」
という、少なくなってしまった子供たちを慈しむ。そんな、大人たちの気持ちが表れているように思えて、ならなかったのです。
今まで、ドラマらしいドラマがなかっただけに、廃校、そして 過疎化 という突然の問題提起は必要以上にボクの心を震わせ、そして様々な考察の種をも蒔いていったのです。
そんな数々の 「気づき」 が訪れた後に、今作の根幹に関わるとても大きな 「変容」 が発生していたのです。
それは、頑なにオーソドックスな演出にこだわってきた今作の監督による
演出スタイルの 「変容」
というものでした。
この 「変容」 は東京への修学旅行の際、人口密度の高さにに疲労困憊して東京に対しての違和感をもってしまった そよちゃん のシークエンスに表れていました。
両方の耳元に手をかざして、微かな音や声を聞き取ろうするポーズ
(羞恥心の上地クンが ヘキサゴン! と言いながら質問を聞き逃すまいとするあのポーズです)
を故郷の山の前ですると ”ゴウゴウ” と山の音が聞こえることを そよちゃん は発見し、序盤に 「行って帰ります」 のメンバーにも教示していました。
そんなポーズを、そびえ立つ都庁を前にして行ってみたところ、ここ東京の地においても故郷と同じ “ゴウゴウ” の音がすることに気づいたのです。
その
“ゴウゴウ現象”
に聞き入りながら歩く
そよちゃん のバックが
わざとらしくも そらヌケ
となってきました。
【 そらヌケ -
背景に何も配置せずに、空(そら) のみにすること 】
何かがが始まるぞ。と予感した直後、そのカラの青空の空間にゆっくりとフレームインしてきたものは、東京タワー や 飛行機 や キリン や 国会議事堂 の画像だったのです。
今回の修学旅行で見学をした場所なのでしょうが、いきなりのSFX(?)を駆使した合成画面が、それまでの演出リズムと明らかに違えてきたので、ここが監督の訴求点であると感じたのです。
東京に居心地の悪さを感じていた そよちゃん のことでしたので、ボクはてっきり そらヌケ の場所に、故郷の山が映し出されて、
ある種の 退行現象
が提示されてしまうのかと心配していたのですが、
前向きな感情の中でこの修学旅行が終われたようなので、ちょっと安堵したのでした。
都庁の前でも、故郷と同じ “ゴウゴウ現象” があったということは、東京タワーでも、空港でも、上野動物園でも、国会議事堂でも “ゴウゴウ現象” は現れたはず、と思えたのではないでしょうか。
それによって、「行って帰ります」 の島根の村 と 東京 とでは人口密度や人間関係密度という側面においては全く違うけれど、山と同じように “ゴウゴウ” も聞こえることだし、本質的には異質なものではなく、
萎縮する必要もなければ、
疎外されるものではない。
ということを、きっと悟ったのではないでしょうか、
そんな思いになったからこそ、 “ゴウゴウ” のシークエンスにおいて、修学旅行で見学したモノを今一度、自らのイメージの中で反芻するかのように そよちゃん の そらヌケ に東京タワーや空港が現れてきたのだと思ったのです。
このような小さな成長の連続によって、人は子供時代を卒業して大人へと変わっていくのでしょうね。
他者の存在を理解し、容認し、尊重することによって、自らのキャパシティを広げていくことになるのでしょう。
このシークエンスは島根の田舎しか知らなかった そよちゃん がそれ以外の環境を受け入れ、一歩大人に近づく瞬間を目撃できるものであったと感じました。
しかし、自分の引き出しを広げてくということは、元々身につけていた要素の構成比を小さくしてしまうことに他ならないわけですから、そよちゃん の源流が 「行って帰ります」 の世界であることを考えると、それに魅力を感じて、今作を鑑賞していく原動力としているボクとしては、ちょっと複雑な気分となったのでした。
廃校 と 過疎化 という問題提起から発生した 映画世界の 「変容」。そして、それに伴って顕在化してきた、演出スタイルの 「変容」。
“ゴウゴウ現象” と同じように、演出バランスを崩さんばかりに、自己主張をしてきたカットが終盤にあと2つ、ボクの気持ちに引っかかっていったのです。
1つ目は 広海クン の学生服のボタンを付け直してあげる、そよチャン と 広海クン のツーショットに見られたものでした。
そのシークエンスは3分40秒間もの間、据えっ放しの1カットという特徴的な訴求方法を打ち出してきました。
東京の高校に 広海クン が入学して、離れ離れになってしまうかもしれない、という悲しい予感の中での二人のヤリトリに対して、ちょっとルーズな画角で、1カット撮りっぱなしという技法を監督は当ててきたのです。
ともする冗長になりがちな表現方法ですが、そよチャン と 広海クン の二人の微妙な距離感や、「もどかしくも、ぎこちない」 空気感がうまく出ており、
不器用な思春期の初恋
という側面をよく感じ取ることができたのです。
長すぎても、短すぎてもこの気持ちをうまく伝えることができなかったであろう、微妙なバランスに立っていたと評価します。
と思った瞬間、ボクは思い出したのです、序盤に感じて深く考えずに放棄をしてしまった
「もどかしくも、ぎこちない」 感覚を...。
小中校生6人の気心知れた世界に対比するように提示された、キャッチコピーにおける2人の世界が 「もどかしくも、ぎこちない」 空気感であったことを今更ながらに知ったのです。
どうやらボクは「行って帰ります」 のコミュニティの居心地の良さに埋没し、監督が仕掛けた
不器用な思春期の初恋
という側面を評価することができなかったようなのです。
反 省 ...。
そして、ラストシーンにもう1つ、演出バランスを崩した監督の自己主張に遭遇することができました。
バレーボールの攻撃テクニックに 「1人時間差攻撃」というものがあるけれど、この表現方法は
「1カット内時間差攻撃」
とでも言うべきものでした。
“卒業式後、そよちゃん が思い出の一杯詰まった教室から廊下へと出て
行きました。
その後、カメラはゆっくりと反対の窓際に移動していくのですが、
そこにはさっき出て行ったはずの そよちゃん が窓の外から教室を
見ていたのです。 ”
窓際の そよちゃん が高校の制服を着ていることから 教室を廊下側に出て行った日と、窓の外にいるシーンとは別の日の設定であることが理解することができました。
監督は卒業式後の教室のシーンをカットを割ることなしに持続させて、1カットで何日後かの校庭入学祝賀会のシーンに移行させていったのです。だからこそ、そよちゃん は高校の制服を着ていたというわけなのです。
この 「1カット内時間差攻撃」 の効能としては、前カットの感情を持続させたまま時間が経過し、その間の
成長や変化、そして時間の移ろいを強調
できる手法であると考えます。
当初、今作におけるこの表現の効果を評価することができなかったボクですが、前述の、序盤における 「不器用な思春期の初恋」 を再評価した後に、この 「1カット内時間差攻撃」 の効果についても再発見することができたのです。
思い出の一杯詰まった教室を中学時代の そよちゃん が様々な思いを胸に出て行くわけですが、この1カットの終盤で映し出された窓際には、そんな
中学校時代の自分を慈しみながら
外から見守っている、高校の制服に身を包んだ そよちゃん がいたことを今更ながらに思い出したのです。
この表現は そよちゃん の中学校時代という思春期の1つの過程が終わり、次なる高校時代という大人の階段を そよちゃん が1歩登ったことを象徴的に描いていると思えたのです。
そうなのです。この効用を初見の段階でボクはまたしても見逃してしまっていたというわけなのです。
さらに反省!
今作は 廃校 や 過疎化 という問題を提起しておきながら、何の解決策も見せないままに、無責任に終わりを告げていきます。
しかし、このように今作を再評価することができたボクには、ドラマチックな解決策が提示されず、流れに身を任せたようなこの終わり方こそが今作の世界観にふさわしいと思えてきたのです。
なぜなら 廃校 や 過疎化 という問題は昨日、今日で突然発生したものではなく、元々、静かにこのコミュニティと共存していた。という客観的な事実に気付き始めたからなのです。
これにより前述の
“このコミュニティには 過疎化 という問題があったからこそ
「行って帰ります」 の 特別な優しい空間が生まれたのではないだろうか?
数少くなくなってしまった子供たちを村人達が心から大事に思っていたから
こそ、このような緩やかな空間となっていったのではないだろうか? ”
という主観的な直感が真実味を帯びてきたのです。
そうなのです、ボクが心惹かれたこのコミュニティは、 廃校 や 過疎化 という
【 終わりがある 儚さ 】
【 終わりがある 愛おしさ 】
【 終わりがある 美しさ 】
があったからこそ、生成され、醸成されていった世界だった。
と独善的に断言させて頂きます。
まとめますと今作は
「行って帰ります」 を育んだ 分校 と、
純粋で無垢な思春期前期の そよちゃん。
その両方が並存する最後の数年に立ち会うことができた
幸福な映画であり、
そして、それらが損なわれてしまう予感の中に
儚い美しさ を感じ取れる映画
であったのです。
そして何よりもボクが強調しておきたいのは、今作が 廃校 や 過疎化 という問題を劇的に解決してしまうような、ご都合主義でドラマチックな終息方法を選ばなかった点にあります。
今作が選んだのは、静かで、力強い希望を持たせる
「人の成長」
を描いて終わることでした。
自然の流れに抗わず、穏やかに平和な未来を祈る。
そんな姿勢を貫いて今作は終わりを告げていきました。
これこそが 「行って帰ります」 の世界観にふさわしい終息方法であった。
と主張して、今作のレビューを終えることにしましょう。






